「証人の群れに囲まれて」
2007年11月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙12章1節~13節
11月の第一聖日は「聖徒の日」です。多くの教会において永眠者記念礼拝が行われています。私たちの教会では、既に召された方々の名前を礼拝堂に掲げ、これらの方々を記念して礼拝を捧げます。
毎年、この礼拝を前にして、この名簿に新しい名前を加えるという作業をいたします。新たに名前を加えますとき、いつも思いますことは、私もまたいつかはこれらの方々のグループに加えられるのだなあ、ということです。もちろん、それは私だけの話ではありません。私たちは今この名簿を見ている側にいますけれど、私たちは皆いつかは彼らの側に身を置くことになるのです。こちら側でこうして礼拝を捧げるのは、限られた期間に過ぎません。ならば毎年行われている記念礼拝において、これらの召された方々を思い起こすということは大切なことですが、これらの名簿を見ながら、やがて私たちもまたこの地上の人生を終えるのだということを思い起こすことの方が、本当はもっと大切なことであると言えるでしょう。
かつて奥様をなくされたある方が、その葬儀に集った人々にこう言って挨拶しました。「神の御旨によって妻はその生涯を閉じました。妻の死を覚えて下さる皆さんは、それぞれに終わりある人生を覚えて頂きたい。」終わりある人生――その事実と改めて向き合ってこそ、今日読まれました聖書の言葉もまた、私たちの心に迫るものとなるのでしょう。先ほど次のような言葉が読まれました。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(12・1)。この言葉を、今年の永眠者記念礼拝において私たちに与えられてる神の言葉として、自らの終わりある人生と向き合いつつ、しっかりと受け止めたいと思います。
自分に定められている競争を
ここには「おびただしい証人の群れに囲まれている」と書かれています。ここに用いられているのは競技場のイメージです。いにしえの信仰者たちがレースに注目しているのです。彼らは、かつて、同じように走っていた人々です。走り抜いた人々です。そのような人々が、私たちの走りに注目しているのです。だから聖書はこう勧めるのです。「私たちもまた、忍耐強く走り抜こうではありませんか」と。
私たちが走り抜くべき人生を、聖書は「自分に定められている競争」と表現しています。確かに、人には自分で選び取ったのではない、定められている競争があります。そして、それは「競争」と書かれていますけれども、他人と競い争うのではありません。他の人には他の人の走るべき競争があります。その人の「定められた競争」はその人独自のものであって、他の人の代わることの出来ないものです。私たちの一生とはそういうものです。
いずれにしても、競争にはゴールがあります。ゴールにおいて、競争は完結します。ゴールを見失ったなら、どれほど長く走ったとしても、それらが全て無駄になってしまうのです。ゴールはどこでしょう。それは神の国です。ヘブライ人への手紙で用いられている表現で言えば「天の故郷」です。神の与えてくださる安息です。そのゴールに向かっているからこそ、そのスタートも意味を持つのです。ゴールに向かっているからこそ、その過程の労苦も意味を持つのです。ゴールに向かっているからこそ、労苦の中でも喜びを得るのです。ゴールに向かっているからこそ、倒れても倒れても立ち上って走るのです。私たちはゴールに向かっていることを忘れてはならないのです。
重荷や罪をかなぐり捨てて
そのような走るべき競争を走るに当たって、聖書は特に二つのことを勧めていま す。その第一は、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」ということで す。長距離をゴールに向かって走るときに、宇宙服のようなものを着て、ごてご てと色々なものを身につけて走る人はいません。しかし、こと人生のレースにお いてはそのようなことをしている人があまりにも多いのです。現代人は心を惹く 様々なものに囲まれています。そしてまた、多くのものが必要であるように感じ ながら生きています。あれも、これも、と言いながら身にまとい、それがあたか も豊かな人生であるかのように思うものです。しかし実際には、生活がシンプル でなくなればなくなるほど、様々な思い煩い、不要の労苦、負わなくてもよい重 荷も増えていくのです。そうしているうちに、本当に自分に定められた走るべき 競争を走れなくなるのです。
いや、それだけではありません。「絡みつく罪をかなぐり捨てて」と書かれています。こちらの方が深刻な問題でしょう。足に何かが絡みついてきたら、そのままでは走れません。同じように信仰をもってゴールに向かって走っていこうとする時、足に絡みついてくるものがあるのです。それが「罪」です。ところで、足に絡みついてくる「罪」ということで、具体的にはどのようなことが考えられているのでしょうか。実は、ヘブライ人への手紙が「罪」という時、そこにはある姿が念頭に置かれているのです。それはこの手紙の前の方に書かれています。それはかつてイスラエルの民がエジプトから導き出され、荒れ野を旅した時の彼らの姿です。
奴隷であったイスラエルの民は神によって解放され、エジプトから導き出されました。彼らは大喜びで意気揚々とエジプトから出て行きました。神に感謝し、神の大いなる力を誉めたたえて歩いて行きました。しかし、荒れ野の旅路において様々な困難や苦しみに直面しますと、彼らはすぐにつぶやき始めたのです。不平を言い出したのです。主は本当に我々の間におられるのか、と言い出したのです。主に信頼するのでなく、主に対して心をかたくなにしたのです。主に反抗したのです。「絡みつく罪」ということで思い描かれているのは、そのような姿なのです。
実際、この手紙を最初に受け取った読者たちにとって、これは極めて身近な問題でありました。というのも現実に信仰をもって生きることは決して容易なことではなかったからです。既に迫害も少なからず起こっていました。さらに大きな迫害が予期されました。度々試練が襲ってきました。そのような彼らが自分の置かれている現実を見て、不平を言い、心をかたくなにし、本当に主はおられるのかと言い、生ける神から離れてしまうということは、いつでも起こり得ることだったのです。
いやそのような嵐の中にある時だけではありません。平和な時は平和な時で、ちょっとしたつまずきや不愉快な経験をしただけで、人はブツブツ言い始めるものです。不平や不満や神に対する反抗心が足に絡み付いてくるのです。その意味において、私たちもこの「絡み付く罪」については、いくらでも思い当たることがあるのではありませんか。そして、明らかなことは、そのような罪が足に絡み付いていたら、もう走れないということです。だから走るためには「絡みつく罪をかなぐり捨てて」ということが大事なのです。そうです。神に対するつぶやきは、自らの手をもって、あえてかなぐり捨てなくてはならないのです。
そして、私たちがそのように為し得るように、もう一つのことが勧められているのです。忍耐強く走り抜こうではないか。どのようにして?「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(2節)。「信仰の創始者また完成者であるイエス」「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」そのようなイエスに目を向けて走るのです。
キリストは真に「生きる」ということがどういうことか、示してくださった方でした。走るということがどういうことかを教えてくださったのはこの方でした。そして、この方は、私たちの信仰の創始者であり完成者でもあります。「創始者」というのは「先導者」という意味の言葉でもあります。私たちの前を走り、私たちをゴールへと導いて下さる方なのです。信仰者が走る力を失い、真の希望と喜びを失うのは、キリストから目を離している時です。「イエスを見つめながら。」これは継続です。一時的なことではありません。信仰生活は継続です。常にイエスを見つめて生きるのです。
父の訓練として
そしてさらに、聖書はもう一つのことを語り始めます。私たちの前に立ちはだかる困難や降りかかる苦難がどのような意味を持っているのか、ということです。すでに見てきたように、苦難は神に対して心をかたくなにしたり、反抗したりする罪を引き起こします。そのような意味で罪への誘惑となります。しかし、困難や苦難はそのような否定的な意味合いを持つに過ぎないのではありません。いや、むしろ私たちの一生において非常に大事な、積極的な意味を持つのです。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」(7‐8節)。
同じ苦難を経験しても、人は二通りに分かれます。そこで神に向く人と神に背を向ける人に分かれます。人生を決定するのは苦難そのものではありません。神に対する態度が人生を決定するのです。苦難そのものが不幸をもたらすのではありません。そうではなくて、神に対する反抗心、そこから来る不満や自己憐憫、神に対する不信仰と罪、それらが人間を不幸にするのです。苦難や困難があることは、私たちが神に見捨てられたことを意味しません。神の愛が失われたことを意味しません。神は変わることなく慈愛に満ちた父なのです。父なる神は私たちを愛しておられます。愛をもって私たちを子として取り扱っておられるのです。
父なる神の訓練を知るときに、そこに父の目的があることを見いだします。聖書は私たちに、地上における父親と神様を対比してこう語ります。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(10‐11節)。
神様の目的は、私たちを罪から清め、私たちが平和に満ちた実を結ぶようになることにあります。聖書が語る「平和(シャーローム)」とは、神と共にあって命が満ち溢れている状態を表します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神様は訓練されるのです。私たちが神を離れ、罪を犯し、罪の実ばかりを実らせる者であることを神様が放っておかれるとしたら、それこそ恐ろしい裁きであるに違いありません。しかし、神様は私たちをそのような状態に放ってはおかれません。神様は私たちを清めてくださいます。神様は何が大切であり、何が大切でないかということも気づかせてくださるのです。そのようにして、神様は私たちに働きかけてくださり、神様の聖さに与らせ、平和に満ちた実をもたらし、神の国への備えをされるのです。神は確かに私たちを子として扱っておられます。