「神の計らい」
2007年11月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 2章1節~10節
誰でも良き時代に生きたいと思います。親は生まれくる子どもたちの時代が、良い時代であって欲しいと願います。しかし実際には、私たちは自分の産まれてくる時代を選べませんし、子どもたちの生きる時代についても私たちの願いの通りにはなりません。これからこの国はどうなってしまうのだろう。なんと悲惨な時代を子どもたちは生きていかなくてはならないのだろう。そのことを思います時に、私たちの心は暗くなります。無力さを覚え、嘆きを口にいたします。
しかし、そのような私たちであるからこそ、今日お読みしました第一朗読の言葉は大きな励ましとして響いてくるのでしょう。今日はモーセの誕生にまつわる物語をお読みしました。皆さん、モーセという人物がこの世に生を受けたのは、イスラエルの民にとって最も暗い時代だったのです。神はあえてそのような時代を選ばれたのです。悲しみと嘆きに満ちた《最悪の時》こそが、モーセという人物を未来に向かって備えるために、神が選ばれた《最善の時》だったのです。
信仰によって
それは今から三千数百年前のことでした。イスラエルの先祖であるヤコブとその一族がエジプトに移住しまして既に四百年以上経った頃です。その頃既にイスラエルの民は、エジプト人が無視できないほどに増え広がっていました。エジプト人は外来の民の増加に危機感を覚えていました。そこでイスラエルの民の増加をくい止めるために、エジプトの王は彼らに苛酷な強制労働を課したのです。しかし、イスラエルの民は虐待されればされるほど、ますます増加していきました。そこでついにファラオは恐るべき命令を下しました。出エジプト記1章22節にはこう記されています。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」。――先に申しましたように、モーセという人物が生まれたのは、実にそのような暗黒の時代、悲しみと嘆きに満ちた時代であったのです。
本日の聖書箇所は、モーセの誕生の次第を次のように伝えています。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」(1‐2節)。
生まれてきたのは「男の子」でした。その日は悲しみの日となりました。王の命令によればその子は死ななくてはなりません。しかし、母はその子を王の命令どおりにナイル川にほうり込んで殺しはしませんでした。三ヶ月の間隠しておいたと書かれています。かわいい我が子を殺すことは忍びない。当たり前の話です。しかし、彼らが子どもを隠したのは、単に親の情によってではありませんでした。ヘブライ人への手紙には次のように書かれています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」(ヘブライ11:23)。つまり聖書はモーセの両親の行為を《信仰による行為》と見ているのです。彼らは「王の命令を恐れなかった」と言っているのです。王を恐れなかったということは、言い換えるならば、本当に畏れるべき方を畏れていたということです。
実は、そのような人々は、モーセの両親だけではありませんでした。出エジプト記に戻りますが、その1章にはヘブライ人、すなわちイスラエル人の助産婦たちが登場します。王は彼女らに命じました。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子どもの性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」。しかし、彼女たちはどうしたでしょう。次のように書かれています。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)。
つまりこの助産婦たちにしてもモーセの両親にしても、彼らはまことの支配者が誰であるかを知っていたということです。それはエジプト王ファラオではなく、神であることを信じていたのです。生命は神の支配のもとにあるのであって、王の支配のもとにあるのではないことを、それゆえに人間が自由にしてはならないということを、彼らは認めていたのです。彼らは神を畏れるゆえに、王の命令よりも命を守ることを重んじたのです。
しかし、いくら「信仰によって」と言いましても、エジプトの王ファラオの強大な権力の前に、奴隷の民の一夫婦の為しえることなど、たかが知れています。エジプト王の支配体制を覆すほどの力など持ってはいません。彼らにできることは、せいぜい赤ん坊を隠すことぐらいでした。それも三ヶ月ほどのことです。三か月後には、隠しきれなくなりました。モーセを三か月間隠しておいた両親は、ついにモーセを手放すべき時が来たことを悟ります。彼らはアスファルトとピッチで防水したパピルスの籠に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。
信仰のゆえに手放してはならぬ時があります。信仰のゆえに、決して諦めてはならない場合があります。その時、人は信仰によって、ありとあらゆる手だてを用い、為しえる最大限のことをしなくてはなりません。しかしまた、信仰によって手を放し、神に委ねなくてはならない時があります。手放さないにせよ、手放すにせよ、いずれにせよ、大切なことは、それを信仰によって為すということです。すなわち、まことの支配者なる神への畏れと信頼をもってそれを為すということが重要なのです。
神の御手に触れた人
さて、事態はどのように展開していったでしょうか。ナイル河畔の葦の茂みに置かれた赤ん坊の籠を、姉のミリアムが遠くから見守っておりました。すると、折しもそこにファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来たのです。よりによって、命令を下した王の娘がやってきたのです。しかも、その王女によって、いともたやすく葦の茂みの間に置かれていた籠は見出されてしまいました。最悪の展開です!
しかし、神はしばしば最悪の展開をさえ用いて、事を先に進められるのです。王女は仕え女をやって籠を取ってこさせました。開けてみるとそこには赤ん坊がおり、泣いています。王女の内に憐れみの情が起こりました。彼女はふびんに思って言います。「これは、きっとヘブライ人の子です」。するとその子の姉は、すかさず近づいて王女に申し出ます。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」王女はこの申し出を快く受け入れます。娘が連れて来たのは、その赤ん坊の実の母親でありました。王女は言います。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」。なんと赤ん坊は実の母親に育てられることになったのです。
皆さん、これを読んでどう思いますか。「そんなうまい話があるものか」と思いますか。しかし、この話を読んでそのように思う人は、仮にここに書かれているようなことを自ら体験したとしても、それを「うまい話」や単なる「幸運」程度にしか考えないでしょう。しかし、信仰によって決断し行動したモーセの母は、これを単なる幸運として受け止めることは決してなかったでしょう。「信仰によって」モーセを手放した彼女は、この出来事に震えを覚えたに違いありません。生ける神の御手が動いたことを見て、畏れの念に打ち震えたに違いありません。そしてなお彼女の内に喜びがあったとするならば、それは単にモーセを再び手に出来た喜びではなく、生ける神の御手に触れた者としての畏れに満ちた喜びであったろうと思うのです。
そして、生ける神の御手に触れた人は、ただ「ああ、よかった」では終わらないのです。モーセを再び抱くことができた時、この母親はただ喜んでいたのではありません。そこにある神の御心、神の御計画ということを考えざるを得なかったことでしょう。そして、与えられたのは《子どもそのもの》ではなくて、《子どもを育てる責任と務め》であることを、深く受けとめたことでしょう。それは、彼女が王女からあずかったモーセをどのように育てたか、ということからも伺い知ることができます。王女は彼女に、「わたしに代わって乳を飲ませておやり」と言ったのです。その男の子はファラオの王女に拾われたのであって、いわば既に王女の子となるよう定められているのです。この母親は、エジプト王女の子の養育を託されたのです。――しかしモーセの母は、その赤ん坊をエジプトの王女の子として育てることはしませんでした。あくまでも生ける神に仕えるヘブライ人として育てたのです。それは11節を読むと分かります。モーセは、王女の子としてエジプトの教育を受け、成人したころにになってなお、ヘブライ人たちを同胞として見ているのです。彼はあくまでもヘブライ人として、信仰の民として生きているのです!
そのように、この母親はモーセの養育を神から与えられた務めとして受けとめたのでした。そして、神から与えられた務めを全うした時、再びこの母親は神の御手にその子を委ね、その子を手放します。「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった」(10節)と書かれているとおりです。その後、この母はもはや物語の表舞台には出て来ません。それで良いのです。大事なことは、神がこの母親を用いることによって、人間の知恵によっては決して実現しないようなことが実現したということだからです。
考えてみてください。エジプトの王女の子として教育を受け、エジプトの宮廷と社会事情に精通した者となることと、ヘブライ人として信仰を受け継ぐこと――この二つはどう考えても同時に成り立つはずはないのです。しかし、神はこのことを実現されました。なぜですか。必要だからです。後の展開のためにどうしても必要だったからです。神はこのモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトから導き出そうとしておられたのです。すなわちこのモーセは、後にエジプトの王と交渉をし、イスラエルの民をエジプトから導き出す人となるのです。そのためにモーセは、エジプトの宮廷の人間であり、同時に信仰を受け継いだヘブライ人である必要があったのです。ですから神は、本来あり得ないこのことを実現させたのです。そもそも、「エジプトの王女の子であるヘブライ人」などというものは、歴史上に現れるはずがないのです。そのような歴史上に現れるはずのない人物を、神はこの一連の出来事を通して準備されたのです。
そのことを実現するために神があえて選ばれたのは、――繰り返しますが――イスラエルの民にとって、最も暗い時代でありました。そして、神が用いられたのは、大きな力に翻弄され、悩み苦しみ、大きな不安をかかえた小さな一つの家族だったのです。神が用いられたのは、大きなことは何一つできない、無力な一人の母親だったのです。その母が、与えられた務めを信仰によって受けとめた時、その小さな信仰の行為が、神の大きな御計画の中において用いられたのです。
私たちもまた、この時代にあって、様々な力に翻弄されながら生きています。それゆえに、時として大きな悩みを抱きながら、嘆きながら、くやし涙を流しながら、多くの不安を抱えながら、生きております。しかし、そんな私たちと同じような人間が神の御計画のために用いられた物語を読みます時、私たちの小さな家族も、私たちの小さな人生もまた、生ける神の大きな御手の中にあることを思わされるのです。神は人の目から見て最悪の時代における最悪の展開をも用いて、御自身の御業を進められるのです。ならば大切なことは、あのモーセの母がそうであったように、どんな時にも、まことの支配者なる神への畏れと信頼とをもって生きることなのです。