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「荒れ野で叫ぶ声」

2007年12月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章19節~28節

 今日の聖書箇所にはヨハネという人物が登場いたします。このヨハネは、他の福音書においては「洗礼者ヨハネ」と呼ばれています。この福音書を書いたと言われている使徒ヨハネとは別人物です。この人については、例えばマルコによる福音書には次のように描写されています。「…洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1:4-6)。

 かなり誇張した表現であるにせよ、ユダヤの全地方とエルサレムの住民が皆、彼のもとに来たと言うのですから、これは大変な影響力です。まさに一世を風靡した大説教家であり、大預言者でありました。その影響がいかに絶大であったかは、その後二十年ほど経た時点でエフェソにヨハネの弟子がいたことからもうかがえます(使徒19:3)。いや、それどころか、さらに二百年を経た紀元3世紀の中頃においてさえ、ヨハネの弟子たちが存在し、あの洗礼者ヨハネこそまことのメシアであると宣べ伝えていたのです。

 いずれにしましても、そのような人物でありますので、彼については様々な噂が飛び交ったようです。ある人々は、この人こそメシアに違いないと考えました。そのような人たちが二百年後にさえいたのですから、多くの人々がそのように考えていたのでしょう。また他の人々は、この人こそ世の終わりに再来すると信じられていたエリヤという預言者だと考えました。あるいは、かつてモーセが語った、来たるべき特別な預言者であると考えました。申命記18章15節に次のように書かれているのです。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」ですから、人々は、約束された来たるべき人物を「あの預言者」と呼んで、待ち望んでいたのです。そのようなわけで、ヨハネこそ「あの預言者」であると人々がいたのです。

 さて、そのような状況のもとで、祭司やレビ人たちがヨハネのもとにやってきて、「あなたは、どなたですか」と尋ねた。それに対してヨハネが答えているのが今日お読みしました場面です。私たちはこの物語において、特に二つの点に注目したいと思います。

わたしは荒れ野で叫ぶ声である

 その第一は、ヨハネが「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と自らについて言い表しているということです。

 ユダヤ人の宗教的な社会の中心はエルサレムにおけるサンヘドリンと呼ばれている議会でした。それは既に確立されている秩序でありました。しかし、エルサレムから離れたヨルダン川の辺りからヨハネによる運動が起こり始めていたのです。もっともエルサレムから離れて活動していた集団は他にもありました。エッセネ派と呼ばれる人々です。ヨハネもこのエッセネ派に属していたのではないかと考える学者もいます。しかし、いずれにしても、隠遁生活を旨とする他の集団には、このヨハネ程の影響力はありませんでした。そういう意味で、ヨハネは特別だったのです。

 議会の面々はヨハネに関心を持ったようです。あるいは脅威を感じのかもしれません。いずれにせよ、この人物について調査するために視察団を送りました。遣わされた人々はヨハネに尋ねました。「あなたはどなたですか。」今や広い範囲に大きな影響を与えている人物です。一応は敬意を払ったかとも思います。しかし、腹の中にはこれほど丁寧な問いかけは持ち合わせていなかったでしょう。要するに、「お前は何者だ」ということです。「エルサレムから離れて、いったい何の権威でこんなことをしているのだ。周りの連中はお前のことをメシアだと言っているようだが、本当にお前はメシアなのか。」彼らはそのように尋問しているのです。

 それに対して、ヨハネは答えました。「わたしはメシアではない。」すると、彼らは「エリヤか。それともあの預言者か」と問いかけます。ヨハネはこれらの可能性も否定します。「そうではない」と言うのです。業を煮やした彼らは、「それではいったい、だれなのか」と問いかけます。そこでヨハネが答えたところの答えが23節です。ヨハネは言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」これは、旧約聖書のイザヤ書40章3節の引用なのです。それを用いて、ヨハネは自らを「声」として表現しているのです。

 その時の状況を想像してみてください。少々大袈裟な言い方をしますならば、今やユダヤの民衆はヨハネを中心として動き始めているのです。確かにユダヤが変わりつつあるのです。しかも大きく変わりつつあるのです。いや、ユダヤの民衆だけでなく、ローマの兵士たちでさえもヨハネのもとに来たとルカによる福音書は伝えているのです。これは驚くべきことです。しかし、ヨハネは、自分は単に「荒れ野で叫ぶ声」に過ぎないのだ、と言うのです。「声」です。「荒れ野で叫ぶ人」ですらないのです。「声」です。「声」というのは、メッセージを伝えて消えていくのです。それだけのものなのです。メッセージそのものでもないのです。

 誰が儚く消えて行く「声」などになりたいと思うでしょうか。しかし、ヨハネは自分が何であるか、そして何でないかをわきまえている人でありました。自分が何で有り得るのか、そして何で有り得ないのかを知っている人でありました。そして、自分の成り得るものとして百パーセント生ききることの出来る人であったと言えるでしょう。ヨハネは自分がメシア、救い主に成り得ないことを知っていたのです。1章8節には、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と書かれています。そのような言い方をするならば、まさに《自分は光にはなれないのだ》ということを重々承知していたのがヨハネでありました。ですから、ヨハネは謙って光をひたすら指し示すのです。光になれない自分が無理に光になろうとはしないのです。光を証しするのです。ここでもヨハネは言っています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(1:26-27)と。

 罪ある人間はまことの光にはなれません。罪の世にあって苦しんでいる人を、同じく罪の内にある人間が救うことはできません。死によって限界づけられた人間を、同じく死によって限界づけられた人間は救うことはできません。牧師は光にはなれません。私たちは愛する誰かが苦しんでいたとしても、自分自身が光になることはできません。親は子の光にはなれません。また実際、どうですか。光だと思われても困りますでしょう。いつ失われるかもしれない人間や何か他のものを光としているならば、その人はとても不幸なことになってしまいます。なぜ教会は人に洗礼を授けるのですか。人間は他の人間を究極的には救えないからなのです。だから洗礼を受けて神の懐に身をゆだねて、キリストに結ばれて、神と共にキリストと共に生きてください、と言うしかないのです。キリストにつながり続けて、聖餐を受け続けて、神の恵みを受け続け、恵みに身をゆだねて生きていきましょう、と言うしかないのです。

 救いは罪に満ちたこの世界の中からではなく、外から来なくてはなりません。人を本当に救いうるのは、神だけです。神が遣わされた独り子、イエス・キリストだけです。私たちは光そのものにはなれないけれども、光を指し示すことはできます。光について証しすることはできます。ヨハネは言いました。「あなたがたの知らない方が、あなたがたの直中におられるではないか!」と。「救い主は私たちの直中に、もうすぐ側に来てくださっているのだ」と、この方を指し示し続けるのです。その御方を信じよう、と。それがヨハネのしたことであり、私たちにも出来ることなのです。

主の道をまっすぐにせよ

 第二に私たちが心にとめたいのは、ヨハネが、「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声であった、ということです。

 ヨハネはメシアとして来られた方を証ししました。救い主は来てくださったのです。まことの光は世に来てすべての人を照らします(9節)。メシアはすべての人の救い主として来てくださったのです。しかし、救い主によって救いがもたらされるためには、備えがなされなくてはなりません。「主の道をまっすぐにする」とはそういうことです。救い主である主の道を備えなくてはならないのです。

 「主の道をまっすぐにする」とは、いったい何を意味するのでしょうか。24節以下には次のようなことが書かれています。「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと…。」

 (細かいことを申し上げますと、ヨハネのもとに来た人々がファリサイ派に属していたということはまず考えられません。彼らは祭司とレビ人たち、すなわち神殿に仕える人々でありまして、ほとんどが「サドカイ派」に属しているのです。ですから、ここは「ファリサイ派の人々のもとから遣わされていた」と訳した方が良いでしょう。いずれにしましても、「ファリサイ派」の人々が、この「なぜ洗礼を授けるか」という問いの背後にいることは確かです。)

 ヨハネが洗礼を授けていたことが、どうしてファリサイ派の人々には引っかかったのか。実はそれには訳があるのです。もともと、洗礼という儀式はヨハネが考案したわけではありません。その前からありました。異邦人がユダヤ教に改宗するときに洗礼を受けたのです。それは異邦人がまことの神に従って生きようとするときに、今までの罪の汚れを洗い落として新しく生まれることを意味したのです。しかし、ヨハネはこれをただ異邦人に授けていたのではありません。むしろユダヤ人に授けていたのです。そして、それはエルサレムの宗教的な権威、特にファリサイ派の人々には受け入れがたい行為と映ったのです。なぜなら、ヨハネの洗礼は、はユダヤ人を異邦人同様に扱うことを意味したからです。いわば「ユダヤ人であっても神の前においては罪あるものとして異邦人と少しも変わらないのだ」と宣言しているに等しかったのです。このことは、少なくとも自分たちは律法を守って清い生活をしていると自負しているファリサイ派の人々には耐え難い屈辱でありました。だから、「なぜ、どのような権威によって、そのような洗礼を授けるのか」と問い質したのです。

 しかし、まさにそのような心こそが、「まっすぐにされなくてはならない道」だったのです。他人を裁き、見下し、罪に定めながら、自らは決して神の前にへりくだって罪を認めようとしない。――そのような傲慢な心こそ、まさに「まっすぐにされなくてはならない道」なのです。

 「主の道をまっすぐにせよ」と、ここで引用されているイザヤ書の言葉は、もともとは罪の赦しの預言でありました。ですから、主の道をまっすぐにするとは、罪の赦しという恵みを受け入れる心の準備をすることに他なりません。「主の道をまっすぐにせよ」とは、救いを受けるために、まず整えられた立派な人になれ、ということではないのです。そうではなくて、神の前にへりくだって罪を認め、自分こそが救いを必要としている罪人であると認めることなのです。そのように備えられて、初めて人は罪の赦しにあずかり、救いに与って、神と共にキリストと共に新しく生き始めることができるのです。

 
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