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クリスマス主日礼拝 「救い主の誕生」

2007年12月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節

 今日の午後2時から聖誕劇(ページェント)が上演されます。昨日も子どもたちが一生懸命に練習していました。ページェントには、丁度今日お読みした聖書箇所の場面が出てきます。イエス様の誕生の場面は、実に可愛らしく微笑ましい場面として演じられます。またこの季節になりますと、クリスマスカードなどで、馬小屋にマリアとヨセフがいて羊飼いたちも集まっているという絵を目にいたします。どれも皆、美しく描き出されております。

 しかし、その場所は実際には決して美しい場所ではあり得なかったことを忘れてはなりません。聖書は淡々と、その悲惨な状況を次のように伝えているのです。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と。

聖書の描き出すこの世界

 そこには非常に不幸な仕方で誕生した一人の男の子がいます。産まれた時から命の危険にさらされている可哀想な男の子がそこにいるのです。それはこの子自身の責任でしょうか。いいえ、そうではありません。人は、自分の親と誕生の場所、誕生の仕方を選べません。では、親が悪いのでしょうか。確かに親は安全な出産の場所を確保することはできませんでした。しかし、それは仕方がなかったのです。彼らは、産まれて来る子どものためにも、自分たちのためにも、精一杯努力したことでしょう。いったい誰が産まれてきた自分の子を飼い葉桶に寝かせたいなどと思うでしょうか。けれども、人がどんなに努力してもできないことがあるのです。親が子のためにどんなにしてやりたいと思っても、できないことだってあるのです。

 では、彼らを宿屋に泊まらせてあげなかった人々が悪いのでしょうか。確かに彼らには身重の娘に対する思いやりが、余りにも欠けていたかも知れません。場所を少しずつでも分かち合えば、小さな一家族が一夜を過ごせる余地を作ることは不可能ではなかったはずでしょう。しかし、それもまたある意味で仕方のないことだったのです。人々もまた自分たちのことで精一杯だったからです。その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出ました。この住民登録についての詳細は不明ですが、恐らく課税のための登録であったろうと思われます。新たな重荷がずっしりと彼らの生活にのしかかっていたに違いありません。そのような登録のために、人々は自分の故郷へと旅立つことを強制されました。こうした状況において、人々がこの家族に思いやりを示せなかったと言って、いったい誰が彼らを責めることができるでしょう。

 そのように「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉は、誰を責める言葉でもなく、まさにこの世界の現実を言い表しているのです。この世で生きるかぎり仕方がないとしか言いようがない、そのような現実描写です。そのような世界の中に、わたしも皆さんも生きているわけです。

 そして、そのような世界のただ中で、世にも悲惨な出産がなされた。それが先ほどお読みした聖書の言葉が伝えていることです。聖書にはそこが馬小屋であったとは書かれておりません。しかし、飼い葉桶があるのですから、いずれにせよ、それに類する場所であったと思われます。それが何であれ、どう考えても出産に相応しい場所ではありません。必要なものが何一つ揃っていないところで、マリアは出産をしなくてはなりませんでした。

 聖画を見ますと、そこに美しい顔をして、慈愛に満ちたまなざしでイエスを見つめるマリアが描かれていたりします。しかし、常識的に考えたら、そんなことはまずあり得ないでしょう。この場面に美しいマリアの笑顔を描くのは、あまりにも非現実的です。むしろそこに想像できるのは、辛うじて赤ん坊を飼い葉桶に寝かせて安全を確保し、極度の緊張と疲労でぐったりとした、ドロドロに疲れ果てた男と女の姿以外の何ものでもないと思うのです。そうではありませんか。

 これが聖書の描き出すこの世界の現実なのです。聖書が描き出すこの世界は、貧しい夫婦が家畜のいるところで子どもを産まなくてはならないような世界です。そのような小さな家族に思いやりが示せないほどに、人々の心が圧迫されている世界です。そして、それはまた、全く罪のない方が、不当な裁判によって十字架にかけられてしまうような世界です。聖書の語り口はあまりにも極端でしょうか。いいえ、決してそんなことはないと思います。今も、世界のどこかで、同様のことが起こっています。また、多かれ少なかれ、私たちはそのような世界を身近に感じていますし、経験もしています。「なぜこんな酷いことが起こるのか!」と叫ばざるを得ないようなことが確かにあるのです。皆さんのこの一年間を振り返っても、そう思いますでしょう。この世界がまさに全人類の罪が淀んだどぶ川のような世界であることを、私たちはどうしたって認めざるを得ないのです。

 ですから、誰でもこの世に生きることは、時としてとても困難になります。時として逃げ出したくなる。現実逃避したくなる。そして実際に様々な仕方において、そこから逃避しようと試みるのでしょう。ある人は悩みを束の間でも忘れさせてくれる享楽に走ります。それがどれほど不道徳なことであっても、危険なことであってもかまいません。それが自分を傷つけることであっても、他者を傷つけ、苦しめることであってもかまわないと思ってしまう。苦しい現実からほんのひと時でも逃れることさえできれば良いのです。ある人は、アルコールに、あるいは危険な薬に手を伸ばします。酔っている時には、ハイになっている時には、少なくともこの世に責任的に関わる人間ではありません。少なくとも自分の意識の上では、この世界の中に生きる一人の人間ではなくなることができるのです。

飼い葉桶の中に救い主がおられる

 しかし、そんな私たちに聖書は語りかけているのです。ごらんなさい。私たちが放棄したくなるような、逃げ出したくなるような、この世界のただ中に、救い主が来られたよ。ドロドロに疲れ果てた男と女の傍らに、汚い飼い葉桶の中に、救い主がおられるよ、と。 羊飼いに現れた御使いたちはこう言っていますでしょう。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(11‐12節)。

 これは奇妙な話です。天使の大軍が現れたことのほうが、よほどメシア誕生のしるしらしいではないですか。しかし、そうではないと言うのです。神様が救い主を与えてくださったしるしは、この世離れした出来事の中に救い主がいることじゃなくて、むしろこの世離れしていない出来事の中に救い主がいることだったのです。不潔な場所で悲惨な仕方で産まれた赤ん坊が、世にも惨めな姿でそこに寝ていることがしるしだと。

 そのように、私たちが逃げ出したくなるようなこの世界に、いわば神は逃げ出さずに入ってこられたのです。私たちが放棄したくなるようなこの世界を、神は放棄しませんでした。見捨てたりはしなかった。神は汚いこの世界を、それでもなお愛されたのです。神の独り子、キリストが、小汚い飼い葉桶の中に寝ているとは、そういうことです。それが神の与えられたしるしだったのです。

 ならばどういうことが言えますか。神がこの世界を放り出さなかったのだから、私たちが諦めて放り出してはならないということです。神がこの世界から逃避されなかったのですから、私たちはこの世界から逃避してはならないということです。この世に生きることがどんなに辛かろうが、苦しかろうが、悲惨なことがあろうが、この世の現実から逃げ出してはならないのです。この世に生きることを放棄してはならないのです。

 わたしはかつて、宗教なんてみんな現実逃避の手段に過ぎないと思っていました。だから信仰は持ちたくないと思っていました。両親をはじめ、信仰を持っている大人たちに対しては批判的でした。わざわざ他の教会の集会まで論争をしかけに行ったこともありました。わたしは今でも、宗教が現実逃避の手段となることがあり得ると思っています。キリスト教も例外ではありません。人は日常の世界とは別の世界を宗教に求めるものです。宗教的な陶酔や熱狂の中に、この世とは別の世界を求める人もいることでしょう。この世界での様々な困難な人間関係から逃れて、浮世離れした者同士の親密な心の交流を求めてカルトに走る若者は少なくありません。

 しかし、本当はそうではないのです。キリスト教信仰というものは現実逃避のための手段なんかじゃありません。むしろ現実逃避しないために、そう私たちが逃げ出さないために、神を信じるのです。あえてこの世のただ中に独り子を遣わし、この世に産まれた人間の一人として汚い飼い葉桶の中に寝かされることをよしとした神を信じるのです。そこまでこの世を、そして人間として生きている私たちを愛して心にかけてくださっている神を信じるのです。これは神が愛して御子を送られた世界です。独り子を十字架にかけてもよしとするほどに、神が愛された世界です。そして、今も愛しておられる世界です。だから、その神を信じて、この世界のただ中を、神と共に生きていくのです。

 冒頭でページェントの話をしました。美しく描き出される馬小屋の場面。でも、実際は決して美しい場所ではなかったことを忘れてはならないと申しました。しかし、実は全く逆のことも言えるのです。それは美しい場所ではあり得ない。しかし、それは美しい場所ともなり得る。そうです、この世界を愛してキリストをこの世に誕生させた、そのような神と共にあるならば、神が愛しておられるこの世界を、私たちも愛して大切にして、隣人を愛して大切にして、私たち自身をも愛して大切にして、この地上を生きるこの人生をも愛して大切にして、生きていくことができるはずなのです。馬小屋にキリストを置かれた神と共にあるならば、汚い馬小屋もまた美しい場所となり得るのです。

 
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