「大宴会のたとえ」 2007年6月3日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ルカによる福音書 14章15節~24節 招待を断った人々  今日の福音書朗読では、イエス様のなさった一つのたとえ話が読まれました。イエス様がこの話をされたのは、「ファリサイ派のある議員の家」においてでした。食事に招かれたのです。その他にも招かれた人々がいたようです。ファリサイ派の議員が招いた客たちですから、戒律やしきたりをきちんと守っている、善良で評判の良い同胞であったことでしょう。そのような人々にイエス様がこのたとえ話をされたのは、その中の一人がイエス様にこう言ったからです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう!」そこに集まっていた面々を考えますならば、彼がどのような意味合いにおいてこう言ったかはすぐに分かります。「神の国に入れる人はうらやましい」と言っているのではありません。「神の国で食事をする人」の中には当然自分も含まれているのです。「今ここで食事をしているように、神の国においても食事ができる私たちはなんと幸いなことでしょう」と言っているのです。そこに集まっていた他の人たちもまた、この言葉を頷きながら聞いていただろうと想像します。  「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉は、もう一方において「神の国で食事ができない人」がいることを考えての言葉です。彼がどのような人のことを考えていたかは、だいたい想像がつきます。ファリサイ派の人が絶対に食事に招かないような人々です。例えば、徴税人や罪人です。あるいは町の広場や路地において物乞いをしている体の不自由な人たちです。彼らは罪を犯したために神の呪いを受けているのだと考えられていたからです。そのような人々を尻目に、自分たちは神の国に入れる人間だと見なしている人たちが、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言っていた。だからイエス様は、このようなたとえ話をされたのです。その場面を想像しながら、もう一度、イエス様のたとえ話の前半部分に耳を傾けてみましょう。  「そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言った。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言った。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った』」(16-20節)。  神の国が、「盛大な宴会」に喩えられています。しかし、私たちにとって、この「宴会」という言葉が本来持っていたであろうイメージを捉えるのは、少々難しいかもしれません。というのも、「宴会」そのものが、今日の私たちにとっては少しも珍しいものではなくなっているからです。社会人であるならば、もしかしたら「宴会なんてもううんざり」という人さえいるかもしれません。楽しくもないのに楽しそうにしていなくてはならないし、やりたくもない一芸も披露しなくてはならない。そんな宴会ならば、確かにうんざりもするでしょう。  しかし、イエス様の時代の人たちが「宴会」と聞くならば、全くイメージが違うのです。概して人々の通常の食事はとても質素であり、魚がせいぜいのご馳走であったのですから。しかも、ユダヤ人にとりましては、食事を共にする人と人とのつながりは、直接的に人間の幸福と結びついていたのです。ですから彼らが「盛大な宴会」と聞いて真っ先に連想する言葉と言えば、それは「喜び」なのです。その場面を想像するならば、そこには食事を分け合いながら喜び楽しんでいる人々の笑顔が満ちあふれているのです。  ということで、私たちが多少でもそのイメージを捉えようとするならば、いわゆる「宴会」ではなくて、「ああ、幸せだなあ」と感じたこれまでの食事の場面を思い起こすのが良いでしょう。家族と一緒に食卓を囲んで幸福を感じた瞬間。あるいは恋人と一緒に食事をした時。「ああ、幸せだなあ」と感じた食事が一度でもあったなら、それをそのまま何十倍かに拡大してみてください。それがこの「盛大な宴会」という言葉の持っているイメージです。  イエス様は、神の国をそのような「盛大な宴会」に喩えられたのです。神様自らが用意してくださって、神様自らが喜びを共にしてくださる。その祝宴への招き。それが神の国への招きなのです。そのことを考えますとき、イエス様の語られたこの話は、どう考えてもあり得ない話であることが分かります。  喜びそのものである宴会へと人々が招かれました。当時の習慣に従って、招待は丁重に二回行われました。宴会の主催者は、食事がすべて準備が整ったところで、もう一度使いを送るわけです。当然のことながら、二回目の招待を断ることは極めて失礼なこととなります。既に食事が用意されているからです。にもかかわらず、この話では、皆が次々に断ったというのです。こんなことは、どう考えてもあり得ません。  しかももっと驚くべきは、その断りの内容です。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」。「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」。「妻を迎えたばかりなので」。確かに、それぞれ大事なことなのかもしれません。しかし、招かれている宴会に出席しようと思えば、すべて一時的に横に置くことのできる事柄です。にもかかわらず、彼らは要するに、宴会に出席するよりも、《今》畑を見に行くことの方が大事だ、《今》牛を調べに行くことの方が大事だ、《今》妻の機嫌を損ねないことの方が大事だ、と言っているのです。この断りの理由から見て、これらの人々が招かれた「盛大な宴会」を心待ちにしてはいなかったことは明らかです。彼らは祝宴の食事にあずかることを切望してなどいなかった。そもそも招かれたことをさほど大きなこととして考えていなかったのです。  イエス様は、なぜこのような人々の話をされたのでしょう。ーーあなたたちも同じではないか。そう言っておられるのです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」そのように、その人はイエス様に言いました。神の国に招かれていることを、さも当然のことのように。しかし、イエス様は言われるのです。「そういうあなたは、神の国を切望などしていないではないか。神の国に憧れても、待ち望んでもいないではないか。それよりも、この世のこと、今、目の前にあることの方が、ずっとずっと大事であるかのように生きているではないか。畑見にいきますから。牛を調べに行きますから。妻をもらいましたから。そう言いながら、それらの方が神の国よりもずっとずっと大事だと表明しながら生きているではないか。」  どうでしょう。こうして読んでいきますと、このアリエナイお話は、決して他人事ではないことが分かります。神の国を本当の意味で知る御方、神様自らが用意してくださって、神様自らが喜びを共にしてくださることがどういうことかを知っている御方から見るならば、私たちたちもまた、このたとえ話の中の人々と同じように見えるに違いありません。 祝宴を取りやめにしない神  しかし、話はこれで終わらないのです。イエス様はさらに話を続けます。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』」(21-24節)。  ここにはもう一つのテーマが語られています。それは神の熱情です。どういうわけか神は祝宴を取りやめにしないのです。人間の救いを取りやめにしないのです。なんとしてでも神の国の祝宴を実現したい、神と人とが喜びを共にする祝宴を実現したいと思っておられる。その神の熱情が、この喩えには描かれているのです。それは、神の国へと招き給う神の善意がどんなに踏みにじられても、侮られても、拒絶されても、それでもなお人間を招き続ける神の熱情です。「この家をいっぱいにしてくれ」と叫ぶ主人。ここに神の心が描き出されているのです。  実は、この喩えに語られている神の熱情に基づく招きは、イエス様の周りに既に実現し始めていたのです。ファリサイ派の人たちが、「神の国で食事ができない人」と見なしていた人たちが、イエス様の周りに続々と集まってきた。罪人が徴税人が、貧しい人が、体の不自由な人が、目の見えない人が、足の不自由な人が、イエス様の周りに集まってきたのです。神の国に憧れて、神の国を知りたくて、神の愛に触れたくて、彼らはやってきたのです。そのようにイエス様は彼らを招き、彼らと共に食事をし、彼らを癒し、彼らと共にいることを喜んだ。ファリサイ派の人たちが、絶対に招かない人たちです。でもイエス様は彼らを招いた。なぜですか。イエス様は父なる神の心を知っていたからです。痛いほどに知っていたからです。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。イエス様の為された行動はすべて、この神の叫びの現れだったのです。  そして、この神の国の祝宴への招きは、その後もずっと継続されました。今日に至るまで継続されているのです。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ!」ーーそうです、通りや小道でウロウロしていた私たちまでも、祝宴への招きの言葉が届けられました。本来なら神の国に絶対に招かれるはずのないような私たちまでもが、神の国に招かれているのです。神様御自身が用意してくださって、神様が私たちと喜びを共にしてくださる祝宴へとその食卓へと招かれているのです。私たちが、今こうして、聖餐卓という食卓の周りに集められているのは、今ここにこうして座っているのは、そのしるしなのです。「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ!」そう、確かに最初は無理矢理連れて来られた人も、ここにはいるのではありませんか。そのような形において、神の国に招かれているのです!  いや、私たちは来るべき神の国に招かれているだけではありません。私たちは今、私たちの生活において、神の国を味わうことが許されているのです。私たちにこうして教会が与えられていること、御言葉が語られていること、洗礼が与えられていること、聖餐が与えられていること、聖霊が与えられ、聖霊に導かれての信仰生活が与えられているとは、そういうことなのです。  そもそもあの人たちが、どうして宴会への招きを断ったのか考えてみてください。どうして、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」、「妻を迎えたばかりなので」などと言って、宴会への招きを断ってしまったのですか。それは詰まるところ、用意されている盛大な宴会がどれほど素晴らしいかを知らなかったからでしょう。そこに満ちあふれている喜びを想像することができなかったからでしょう。だから、祝宴を心待ちにすることができなかったのでしょう。今目の前にあることの方が重要に思えたのでしょう。  信仰生活は神の国の前味です。聖霊によって与えられる神の国の前味です。教会において、他でも得られるような楽しみや気休めや心の慰め程度のものしか求めていないとするならば、それは本当にもったいないことだと思います。神の国の味わいを求めましょう。もっともっと神の国を味わわせていただきましょう。天からのものを味わいましょう。神の愛と神の与えてくださる喜びを味わいましょう。そして、来るべき神の国に憧れましょう。神の国を慕い求めましょう。せっかくこうして神の国へと招かれているのですから。