「あなたの罪は赦された」 2007年7月15日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ルカによる福音書 7章36節~50節  シモンというファリサイ派の人がイエス様を食事に招待しました。イエス様はその家に入って食事の席に着かれました。イエス様がファリサイ派の人たちと一緒に食事をしたという場面はこの他にも何度か出てきます。イエス様は罪人たちとだけでなく、ファリサイ派の人たちとも食事を共にされたのです。  罪人と共に食事をするイエス様に対して、ファリサイ派の人々は当然批判的です。このシモンにもイエス様に対する批判的な態度が見え隠れしています。そもそもなぜ食事に招いたのかもよく分かりません。大歓迎しているようには見えません。家に入る時に足を洗う水もくれなかった、というのですから。イエスという危険人物を批判的に観察するため、あるいは偽預言者の尻尾をつかんでやろう、とでも思ったのかもしれません。しかし、そんなファリサイ派の人たちとの交わりをイエス様は拒絶されませんでした。どんなに嫌な思いをさせられても、イエス様はなぜかファリサイ派の人たちに関わり続けられます。イエス様は徴税人や罪人を愛された。そして、ファリサイ派の人々を愛された。主はファリサイ派シモンの家の客となりました。  すると、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきました。そして、後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めたというのです。それが今日の聖書箇所の伝える出来事です。 イエス様に近づく罪人として  ともすると聖書に出てくる人物や場面は、聖書に書かれているというだけでやたらに美化されてしまうものです。例えば、これと似たような話がマルコによる福音書14章に出てきます。そこでは一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った壺を持ってきて、それを壊して香油をイエスの頭に注いだと書かれています(マルコ14:3)。普通に考えるなら、変な人が食事中のイエス様の頭をベタベタにして迷惑をかけただけの話です。しかし、香油が高価で純粋だったものですから、その女性はいかにも純粋な愛のすべてをイエスに向けた人、愛の人の模範であるかのように語られてしまいます。今日お読みした箇所もそうです。この人をファリサイ派のシモンと対比して、イエス様を純粋に愛している模範的な人と見てしまう。これがいかにも美しい場面であるかのように語られてしまうことがあります。  しかし、そのように殊更に彼女の行為を美化するのは差し控えるべきでしょう。普通に考えるならば、彼女がしていることは極めて異様なことなのです。確かに当時の習慣としては、客を招いて食事をしている席に余所の誰かが入ってくることは珍しいことではありませんでした。この女性が勝手に入ってきたこと自体は不思議なことではありません。また食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではありません。横になって肘をつきながら食事をしています。ですからこの女性が後ろから足もとに近寄ることも、それ自体は不自然な行為ではありません。何もテーブルの下に潜り込だわけではないのですから。しかし、それらの事情を差し引いたとしても、やはりこの場面はどう考えても異様です。  実際、同じことがこの教会で起こったとしたら、どうでしょう。それはかなり怖いことです。罪深い罪深い女と言えば、恐らくは娼婦です。その町で娼婦として知られている人です。もし牧師が皆と食事しているところに、娼婦のような身なりをした人が突然泣きながら入ってきて、足に香油を塗って自分の髪をほどいて拭い始めたら、皆さん、どう思いますか。「ああ、なんと美しい光景か!」って言いますか。言わないだろうと思います。当時は、普通のユダヤ教のラビならば、道で会った時でさえ自分から女性に声をかけたりしない。そういう時代です。そのようなユダヤ人社会においてこんなことが起これば、アッという間に悪い噂が立ちかねない。これは異様な行為であるだけでなく、当のイエス様にとっても本来ならば非常に迷惑極まりない行為なのです。  しかし、その行為をイエス様は喜んで受け入れられたのです。その事実こそが重要なのです。その女性の行ったことを指して、イエス様が「この人は多くの罪を赦された人なんだよ。それはわたしに示した愛の大きさでわかるよ」と語られたのです。この女性のしたことが美しかったからではありません。この場面の中心にイエス様がおられて、そのイエス様が受け入れてくださっているからこそ、この女性のしたことも意味を持つのです。  今申し上げたことは、私たちがこの女性の中に、私たち自身の姿、救い主に近づく罪人の姿、こうして救い主のもとに集まり、礼拝している私たちの姿を見いだす時に、大きな意味をもってまいります。  先ほど、ここに描かれているのは「異様な光景だ」と申しました。もう一方において、ここに集まっている私たちの姿を私たちはどう見ているでしょうか。私たちは自分たちの姿を異様だとは思いません。私たちは町に知られた夜の女ではありませんし、私たちは食事に入り込んだ闖入者でもありませんから。私たちは、それなりの身なりをし、礼拝堂に整然と座り、オルガンの伴奏で讃美歌を歌い、声を揃えて信仰告白を唱え、牧師はこんなガウンを着て説教を語り、会衆も真面目にそれに耳を傾け、聖餐式も秩序正しく行われる。いつの間にか、私たちは何かたいそう立派なことをしているかのように思っているかもしれません。  しかし、今日の聖書箇所を読んで改めて思います。ああ、私たちが毎週していることは、こういうことなのだ、と。この場面の中心にいるのは、この女性ではありません。キリストです。罪の女がキリストに近づき、接吻して香油を塗るということを為しえたのは、彼女の行為が立派だったからでも、香油が高価だったからでもありません。彼女の心が純粋だったからですらありません。キリストがそれをお許しになったからです。キリストが受け入れてくださったからです。イエス様が彼女の行為を受け入れられた。それはファリサイ派のシモンがつまずきを覚えるほどの異常事態だったのです。彼は心に思います。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と。それは実に驚くべきことだったのです。皆さん、私たちがこうして礼拝していることは、なんと驚くべきことだろうか、と思ったことありますでしょうか。私たちがこうして主を礼拝することを主がお許しくださっていることについて、私たちはいささかでも驚きを覚えたことがあるでしょうか。  間違ってはなりません。私たちの礼拝が成り立つのは、良く準備され整っているからではありません。私たちの讃美が純粋な心から出た美しい讃美だからではありません。私たちが、立派な礼拝者だからではありません。人間の目から見て最も崇高な礼拝行為でさえ、神の御前にあっては、闖入者が涙でベタベタにした足に香油を塗り始めるようなことでしかないのです。そのような礼拝が意味を持つのは、主が憐れみ深く受け入れてくださるからなのです。その行為をイエス様が、御自分への愛の表れとして見なしてくださるからです。そのように、私たちがこうして、ここにいることができること、主によって斥けられないで礼拝をさせていただけること自体が、実は驚くべき恵みなのです。 借金を帳消しにしてくれた金貸しを愛する  さて、イエス様がこの女の行為を受容しておられることを、理解し難く思っていたシモンに対して、主は一つの例え話を語り始められました。  「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(41‐42節)。この喩えの意図は、その後の展開によって明らかにされます。《借金を帳消しにされた者が金貸しへ抱く愛》という例をもって、イエス様への愛について語ろうとしておられるのです。  それにしても、なぜここで、よりによって借金踏み倒しの話なのでしょうか。借金を帳消しにしてくれた金貸しを愛することと、キリストを愛することとを一緒くたにして良いのでしょうか。そもそも、借金を帳消しにしてくれた金貸しに対する思いなど「愛」の名に値するのでしょうか。そのような低次元の泥臭い話をもって、「キリストを愛すること」を喩えて良いのでしょうか。私たちは通常、キリストを信じて、キリストを愛して生きるということを、せめてもう少し崇高なことと考えているのではないでしょうか。  しかし、この箇所を読みますと、改めて気付かされます。イエス様を愛するとはこういうことなのだ、と。クリスチャンになる、クリスチャンであるとはこういうことなのだ、と。信仰生活が長くなると、いつの間にか忘れてしまっているのです。私たちは、自分が罪の負債を払いきれずに最終的には帳消しにしていただくしかない碌でなしに過ぎないことを知って、救い主であるキリストを信じたのだということを。私たちがキリストを愛する愛とは、その碌でなしが借金を帳消しにしてくれた金貸しを愛する愛のようなものでしかないのです。そして、それでよいのです。主が自らそのように喩えられたのですから。  主はシモンに言われました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。金貸しへの愛は、確かに帳消しにされた額の大きさによって左右されます。しかし、厳密に言いますならば、その多い少ないは絶対量ではありません。金貸しへの愛は、赦された額をどれほど大きいと自覚しているかによって決まります。  主が借金を例えとして語られたのは、この時が唯一ではありません。実は、もっと高額の借金の話が他にあります。ここでは五百デナリオンと五十デナリオンでありますが、マタイによる福音書18章には一万タラントン(六千万デナリオン)の借金をしている人が出てきます(マタイ18:24)。貸したのは王様、借りたのは家来です。かなり極端な話ですが、その家来もまた、借金を帳消しにされます。ところが、その物語は次のように続くのです。「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」(同18:28‐30)。  このように、問題は借金の大小ではありません。どれほど大きな借金が赦されたのかという自覚の深さの問題です。客観的に見て多くの罪を犯している人が、必ずしも自分を罪深いと自覚しているとは限りません。むしろ多くの罪を犯して心が鈍くなることの方が多いのかもしれません。繰り返します、イエス様の愛が金貸しへの愛に喩えられるなら、それは赦された額をどれほど大きいと自覚しているかによって決まるのです。  主は「この人を見ないか」と言って、シモンの目をその女性に向けさせました。シモンは罪の負債の大きさを自覚するその女の姿をしっかりと見なくてはならなかった。その女性に何が起こるのかを見なくてはならなかったのです。そして、シモンにもいつか同じことが起こってほしいと願っておられたのでしょう。  イエス様はシモンや他の人々の前で、この女性に宣言しました。「あなたの罪は赦された」と。彼女は恐らく、これまで人々に語られる主の言葉を聞き、「徴税人や罪人の仲間だ」(34節)と呼ばれたイエス様の姿を見、そこに罪からの救い主の姿を見てきたのだろうと思います。しかし、今や、彼女は他の罪人に対する言葉ではなくて、彼女自身に対する主の言葉を耳にします。「あなたの罪は赦された」と。そしてさらに主は言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。  願わくは、私たちもまた彼女と同じように、払いきれない負債を赦された者としてキリストに近づき、キリストを愛し、彼女が聞いたのと同じ言葉を私自身への語りかけとして聞いて、ここから出て行く者でありたいと思います。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。