「キリストの日に備えて」
2007年10月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章1節~11節
 もしある二人が結婚式を挙げようとしているならば、一生懸命に結婚式の準備をするに違いありません。しかし、考えてみれば、結婚式の準備も大事ですが、それ以上に大事なことは結婚の日に向けて自分自身を備えることでしょう。では、結婚式ではなくてお葬式であったらどうでしょうか。最近では「自分らしい葬儀」を希望して、生前から葬儀の準備をする人が増えてきました。しかし、これも考えてみれば、葬式の準備以上に大事なことは、葬式の日に向けて、正確に言えば人生の終わりの日に向けて、自分自身を備えることであると言えるでしょう。結婚の日と違いまして、人生の終わりの日にはすべての人が等しく向かっていますから、これは皆に当てはまるわけです。
 しかし、人生の終わりの日に向けて自分自身を備えるとはどういうことでしょうか。人生がただ《終わり》に向かっているだけならば、そこで考えられるのは、せいぜい心の準備をするという程度のことでしょう。もちろん、それもまた決して小さなことではありませんが、実はもっと大事な準備があるのです。なぜなら人は単に《人生の終わりの日》に向かっているのではないからです。そうではなく、それとは別なもっと大事な日に向かっているのだと聖書は語っているのです。
 聖書はそれを「キリストの日」と呼んでいます。今日の第2朗読ではフィリピの信徒に宛てたパウロの手紙を読みましたが、そこに繰り返し語られていました。6節では「キリスト・イエスの日までに」、10節では「キリストの日に備えて」と。それはキリストの再臨の日、すなわち、要するにキリストにお会いする日です。私たちの人生をすべて携えて、キリストにお会いする日です。
愛が豊かになるように
 キリストの日に備えるということならば、どのような準備が必要なのでしょうか。パウロは次のように祈っています。9節を御覧ください。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9-11節)。
 まず、「愛がますます豊かになるように」と書かれています。愛が豊かになるということはどういうことでしょうか。パウロは「知る力と見抜く力とを身に着けて愛がますます豊かになるように」と言っているのです。「知る力」というのは「知識」とも訳せる言葉です。「見抜く力」というのは、鋭い感覚をもって判断することのできる判断力です。この二つが必要なのは、そこに書かれているように「本当に重要なことを見分けられるように」(10節)なることが必要だからです。
 「愛が豊かになるように」ということで、「知識」とか「判断力」の話が出てくるのは、ある意味で意外なことではないでしょうか。「愛が豊かになるように」と言うならば、そんな知的作業のような話ではなくて、もっと感情に関わることが先に来るような気がしませんか。私たちが《愛の人》という言葉でイメージするのは、どのような人でしょうか。他者のために後先のことを考えず、打算を越えて行動する人を考えるのではないでしょうか。時には愚かにさえ見える人、それが愛の豊かな人であると考えているだろうと思うのです。
 それは、必ずしも間違ったことではないでしょう。愛は確かに打算を越えます。愛は時として愚かになることでもあります。しかし、私たちはやはりパウロが言うところの、もう一つの面を忘れてはならないのだと思うのです。愛とは時に愚かになることであるとはいえ、単なる熱狂や暴走とは一線を画すのです。本当に愛が豊かとなるためには、知る力と見抜く力が必要なのです。時として感情に振り回されない冷静な鋭い判断力が必要とされるのです。これは神に対する愛であっても、人に対する愛であっても同じです。実際、どうでしょう。それらを抜きにした「愛」なるものが、単に人迷惑なだけであったり、あるいは人をだめにしてしまうことがどれだけあることでしょうか。あるいは、神に対する愛や献身の名のもとに、今日に至るまでどれだけ思慮を欠いた破壊的な行為がなされてきたことでしょう。最終的に何が本当に重要なことかが分からないままで、「愛が豊かになるように」なることはないのです。
 そして、その「本当に重要なことを見分けられるように」ということに続いて、先に申しました「キリストの日に備えて」という言葉が続くのです。そもそも、本当に重要なこと、とは何でしょうか。それは最終的に「キリストの日」において、キリストが重要と見なしてくださることではないでしょうか。それゆえパウロは、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」と続けるのです。
 「愛」について語られる時、そこでまた「清さ」が語られるということは大事なことです。なぜなら、この世においては、愛の名の付く愛ならぬものがいくらでもあるからです。不倫の関係でさえ「純粋な愛」と呼ばれてしまうような時代に私たちは生きているのです。周りの人間を傷つけ苦しめるエゴイズムでさえ愛の名で呼ばれてしまうのです。先にも触れましたように、破壊的な熱狂的行為でさえ愛の名のもとに行われることがあるのです。ですからパウロは、ただ「愛がますます豊かに」なるように、というだけでなく、「清い者、とがめられるところのない者」となるようにと語っているのです。
 「清い者」と訳されている元の言葉は、「太陽のもとにおいて調べられたもの」を意味する言葉です。光にさらされても大丈夫なもの、ということです。私たちが愛と呼び、本当に重要だと呼んでいるもの、それが太陽のもとにさらされても大丈夫であるのか、ということです。愛そのものであるキリストの光に照らされて、それでも大丈夫であるのか、ということです。それでもなお愛と呼べるのか。そのことが問われるのです。
義の実をあふれるほどに受けて
 さて、こうしてみますと、「愛が豊かになる」とサラリと書かれていますが、とてつもなく大きな課題であることが分かります。果たして、私たちはこの言葉を受け止めきれるのでしょうか。実際、私たち自身の現実を考えるならば、そしてキリストの光にさらされるなら、私たちの愛の貧困さばかりが目立ちます。クリスチャンをへこませるのは難しくありません。「あなたには愛がない。クリスチャンのくせに愛がない」と言えばいい。簡単にへこみます。言われたこと、ありませんか。わたしは一度ならず言われたことがあります。クリスチャンのくせに、ではなくて、牧師のくせに、となりますが。
 しかし、自らの愛の乏しさをつきつけられる時、私たちはへこんだり、落ち込んだりしていてはならないのです。私たちはパウロがこのことを「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。それはとりもなおさず、このことを神に求めてもよいのだ、ということを意味するのです。諦める必要は無いのです。望みを失ってはならないのです。望みがなくなった時に祈りは消えてしまいます。そうあってはならない。求め続けるべきなのです。自分についても、他の人についても、これらのことをひたすら神に求め続けたらよいのです。
 このように書いているパウロ自身、「キリストの日への備え」が人間の努力によっては完成され得ないものであることを良く知っているのです。ですから、パウロは祈りの最後をこう締めくくるのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と。ここには「私たちの努力が実を結んで」とは書かれていないのです。「義の実」はイエス・キリストによって与えられるのです。私たちはそれをあふれるほどに「受ける」のです。あくまでも「受ける」のです。
 「義の実」というのは、「救いの実」と言い換えてもよいでしょう。私たちはキリストの贖いによって義とされ、救われました。愛のない者、罪に汚れた者、清くない者、とがめられるところだらけの者が、ただ神の恵みによって赦され、受け入れられたのです。救いは私たちの努力によって獲得すべきものでではなく、ただ恵みによって与えられる賜物です。私たちは完全に受け身なのです。そして、そのように、ただ恵みとして与えられた義が、義にふさわしい実を結ぶのです。これも私たちが「受ける」べきもので、私たちが自分の力で造り出すものではありません。だからパウロは祈っているのです。同じように私たちも祈るのです。祈り続けるのです。
 それゆえにまた、「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と続くのでしょう。神の恵みを知れば知るほど、私たちは神に栄光を帰し、神の誉れをたたえる者となるからです。「愛」や「清さ」が人間の努力によって実現すべきものであると思っている人は、結局は神の誉れをたたえるようにはならないのです。自分に栄光を帰し、人を裁く者として終始することになるのです。
いつも喜びをもって
 ここまでパウロの祈りの言葉を読みますと、彼がなぜ3節、4節において次のように書いているのかがよく分かります。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」パウロがフィリピの教会のことを思い起こす度に感謝と喜びをもって祈っているのは、彼らが問題のない理想的な教会だからではありません。教会の人々が、愛に満ちた、清い人ばかりであるから、喜びをもって祈れるというのではないのです。むしろ、この手紙を読みますと、教会自体にも、また教会とパウロとの関係にも、問題があったことが分かります。
 例えば、2章2節でパウロは次のように書いております。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」ということは、現実にはそうなっていないということなのでしょう。4章2節では「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と語っています。要するに、同じ思いになれなかった人々がいた、ということです。
 しかし、それでも、パウロは喜びをもって祈ります。なぜなら、すべては神から来るからです。彼はこう言っています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(1:5-6)ここに、喜びをもって祈り続けることができる理由があります。
 善い業を始められたのは神様です。私たち自身ではありません。信仰へと招いてくださり、導き入れてくださったのは神様です。自分が始めたのではないのです。自分に絶望したり、教会に失望したり、自分についても他の人についても、諦めてしまったり見限ってしまったりすることは、ある意味では極めて傲慢なことなのです。人間が始め、人間が完成すると思っているということを意味しているからです。思い違いをしてはなりません。神様が善い業を始めてくださったのです。だから、そのままで終わるはずはないのです。神様が始めてくださったのですから、神様が成し遂げてくださるのです。そうでありますならば、私たちに一番必要なのは、成し遂げてくださる神への信頼なのです。
 「キリストの日に備えるということならば、どのような準備が必要なのでしょうか」という問いをもって、この聖書箇所を読みました。ここまでのところで既に明らかにされたましたように、私たちにとって最大の備えは、善い業を始めてくださり、成し遂げてくださる方に信頼して福音にあずかり続けることなのです。福音の内に留まり、キリストの恵みの内に留まり、信頼してたゆまず神に祈り、救いの御業の完成を求め続けていくことなのです。