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「真理による自由」

2008年1月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 8章31節~36節

 今日はヨハネによる福音書8章31節からお読みしました。その直前には、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(8:30)と書かれています。たいへん喜ばしい報告です。イエス様の伝道が実を結んだわけです。多くの人が信じた、というのですから。

 しかし、イエス様はその事を手放しで喜ぶことをなさいませんでした。今日お読みしたところにおいて、イエス様はこのように語っておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31‐32節)。わざわざ「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と書かれていることに注意してください。信じた人です。信じない人ではありません。

 人がある時、ある過程を経てイエス様に出会い、イエス様を信じるに至る。イエス様を信じて洗礼を受ける。教会では「入信」と言いますが、それはそれとして素晴らしいことですし、大切なことでもあります。しかし、実はその先においてもっと大切なことがあるのです。「わたしの言葉にとどまるなら」とイエス様は言われるのです。大切なことは、イエス様の御言葉にとどまることであり、本当の弟子となることであり、真理によって自由にされることだと言うのです。

わたしの言葉にとどまるならば

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とイエス様は言われました。イエス様は「とどまる」人を求められた。それが本当の弟子だ、と言われたのです。一時的に感動する人を求められたのではない。単に「信じる」という一つの決断を求められたのでもない。「とどまる」ことを求められたのです。

 先週も申しましたが、この「とどまる」という言葉はヨハネによる福音書に繰り返し現れるキーワードです。これは継続的な結びつき、つながり、交わりを意味する言葉です。後になって同じ言葉が、ぶどうの木と枝のたとえの中に出てきます。「わたしにつながっていなさい」(15:4)と主は言われるのです。「つながる」「とどまる」――原語では同じ言葉です。枝が幹につながっているのは一時的なことではありません。枝と幹の関係。それが「とどまる」という言葉のイメージです。信仰生活は継続です。一時的な興奮でも、熱狂でもありません。キリストとの絶えざる交わりであり、結びつきです。信仰においてはいつも大事なのは「現在」です。継続があってこそ弟子なのです。

 また、イエス様は「わたしの言葉に」とどまるならば、と言われました。「言葉」にです。キリストとの交わりはキリストの御言葉を通して成り立つのです。ただ漠然とキリストを信じるのではなくて、ただ自分の信じたいように信じるのではなくて、イエス様の言葉にとどまるのです。私たちは耳を傾けることによって、そして御言葉を心に受け入れることによって、御言葉を心に宿すことによって、キリストとの交わりに留まるのです。ですから、教会はその礼拝においては「聴く」という要素を大切にしてきたのです。信仰者の生活の大事な要素として「聴く」ということを大切にしてきたのです。御言葉を聴くために聖書は開かれてきたのです。

罪を犯す者は罪の奴隷である

 さらに主は、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。この「真理」、私たちを自由にする「真理」とは何かと問う前に、私たちはそもそも本当に自由になりたいと思っているかを問う必要があろうかと思います。どうでしょう。あなたは本当に自由になりたいと思っておられますか。

 今日の説教題は「真理による自由」です。頌栄教会は説教題を外に張り出します。果たして、この説教題に引きつけられた人、魅力を感じた人はどれほどいるでしょうか。恐らく今日の日本という国の多くの人は、自分がそれなりに自由だと思っていることでしょう。あるいはもし自由を必要としているならば、それは自分で勝ち取らなくてはならないと考えていることでしょう。いずれにしてもキリストによって自由を与えてもらおうなどとは考えていないに違いありません。

 イエス様の前にいたあのユダヤ人たちも同じでした。彼らには「自由になりたい」という切なる願いはなかったようです。彼らは何と言っていますか。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」そう言っているのです。

 厳密に言うならば、先にユダヤ人たちが口にした言葉は正確ではありません。彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と言いました。しかしもとを辿れは、彼らはかつてエジプトにおける奴隷だったのです。また、ユダヤ人の長い歴史を見るならば、彼らは繰り返し超大国の支配下に置かれてきたのです。しかし、イエス様はそのような歴史的な事実を引き合いに出して彼らに反論しようとはなさらないのです。イエス様はこう言われました。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)。人間を不自由になるのは、その人の置かれている環境によるのではなく、政治的な抑圧によるのでもなく、自分自身の罪によってなのだと言うのです。罪が人間を奴隷にする。罪が人間を不自由にする。そうイエス様は言われるのです。

 その意味するところは、その後に続くイエス様の激烈な言葉によって次第に明らかにされてまいります。自分は自由だと主張する人間の仮面がはぎ取られていくのです。今日はお読みしませんでしたが、39節以下においてユダヤ人たちは自分たちを「アブラハムの子」と呼んでいます。さらには自分たちの父は神であるとさえ言うのです。それがユダヤ人の自己理解でした。しかし、イエス様は言います。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(44節)。なんと激しい言葉でしょう。イエス様は彼らを「悪魔の子」と呼ぶのです。だから悪魔の望んでいることを行っているではないか。そのようにイエス様は言っておられるのです。

 悪魔は人殺しだとイエス様は言われます。人殺しという行為の根っこはどこにありますか。それは《憎しみ》にあるのです。「悪魔は人殺しだ」とは、要するに悪魔は憎しみと敵意の源だということです。殺人という行為は内にあるものが外に現れたものです。内にあるもの、それは憎しみです。「あんなやついなければよいのに」と心の中で呪ったことはないでしょうか。それは言い換えるならば「死んだらいいのに」というのと同じです。それは存在を抹殺することであり、それが外に現れると殺人となります。条件がそろってそれが外に現れると殺人という行為になるのです。まことにイエス様が言われるように、悪魔は憎しみと敵意の源であり、人殺しなのです。そしてさらに、悪魔は偽り者だと言われています。悪魔の内には真実がありません。悪魔はあらゆる偽りの源であり、偽り者の父なのです。

 イエス様の前に立っていたユダヤ人たちは言いました。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と。しかし、その心の内はどうだったでしょう。敵意と憎しみで満ちていました。イエス様は分かっておられるのです。どんなに外側を宗教的に見せていても、外側は繕うことができても、内側にあるものは憎しみと偽りでいっぱいであることを。だから、人殺しであり偽り者である悪魔の望むことをあなたがたはしているではないか、そのことによって悪魔の子になっているではないか、とイエス様は言われるのです。

 このような「悪魔」という言葉に抵抗を覚える人もあろうかと思います。あるいは前近代的な思想と笑い飛ばす人もいるのでしょう。しかし、仮にそうする人であっても、人間が確かに憎しみに振り回され、敵意に引き回され、自らの偽りによって翻弄されているという現実そのものは否定できないでしょう。笑い飛ばせないでしょう。わたしは自由だと言うかも知れない。「何をしたって自由じゃないか」と言うかも知れない。「人に迷惑さえかけなければ自由じゃないか」と言うかも知れない。そう言いながら、人は欲望の奴隷となり、やがて憎しみの奴隷となり、偽りが偽りを生んで偽りの奴隷となるのです。

 罪を犯す者は罪の奴隷である。それは本当です。罪の奴隷となり悪魔の奴隷となるよりは、人間によって拘束されているほうがまだましかも知れません。肉体的に拘束されたとしても、心は自由であり得るからです。しかし、罪の奴隷となり悪魔の奴隷となるならば、心と生活そのものが束縛されることになるのです。私たちを本当に不自由にするのは外的な束縛ではありません。私たちの内にある罪なのであり、罪をもたらす悪魔なのです。

真理はあなたたちを自由にする

 そうしますと、イエス様はここで実は驚くべきことを語っていることが分かるのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」そう主は言われるのです。真理はあなたたちを自由にする!「真理」とは「真実」とも訳せる言葉です。真理はキリストによって現された神の真実です。真実なる神の愛です。キリストの言葉が、そしてイエス・キリスト御自身が、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちに永遠の命を与え、私たちを救おうとしておられる神の真実そのものなのです。それゆえ、「真理はあなたたちを自由にする」と言われたイエス様はさらに具体的に「だから、もし子(すなわちキリスト)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(36節)と言われるのです。キリストが私たちを罪から、悪魔から解放してくださるのです。

 そう言いますと、「キリストを信じたら、クリスチャンになったら、もう二度と罪など犯さなくなるのか」と問う人もいるでしょう。いいえ、イエス様の言っておられるのは、そのようなことではありません。その前にイエス様が、「わたしの言葉にとどまるならば…」と言われたことを忘れてはならないのです。ある時キリストを信じた。それは一つの重大な決断でしょう。しかし、繰り返しますが、問題は今ここで、キリストの言葉にとどまっており、キリストと共に歩んでいるかどうか、ということなのです。イエス様が自由にしてくださるのです。イエス様によって、その御言葉によって、私たちが神の愛と真実に触れ、聖霊に満たされ、神の命に満たされ、私たちは自由にされるのです。逆に言えば、私たちが罪によって捕らわれている時、それはキリストを離れている時なのです。御言葉にとどまっていない時なのです。その時、私たちは命もない、力もない、罪の奴隷になっているのです。

 ですから、洗礼を受けてからどれだけの年月が経ったか、どれだけ過去において熱心に活動してきたかは問題ではありません。キリストにある自由を求めましょう。必要なのは日々主と共に歩む生活、キリストとの交わりにある生活です。キリストにある自由を求めましょう。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」そう主は言われるからです。

 
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