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「起き上がりなさい」

2008年1月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章1節~18節

罪という病の話

 今日の福音書朗読の前半部分は、38年間も病気で苦しんできた人がイエス様 によって奇跡的に癒されたという話です。しかし、この後半まで読みますと、ど うもただ「病気が治って良かったですね」という話ではなさそうです。というの も、そこには殊更に「その日は安息日であった」と書かれていまして、そのゆえ に癒された本人も癒したイエス様もトラブルに巻き込まれるという話になってい くのです。

 癒された人が床を担いで歩いているのをユダヤ人たちが見かけました。癒され た人は元気になって喜びに溢れて床を担いで歩いていたのですが、誰も一緒に喜 んでなどくれません。ユダヤ人たちはいいました。「今日は安息日だ。だから床 を担ぐことは、律法で許されていない。」そう言って彼を咎めたのです。そして さらには、「床を担いで歩きなさい」と命じたのがイエスだと判明すると、今度 はイエス様を迫害し始めた。このように安息日も安息日律法も、病んでいたこの 人を助けることにならなかったばかりでなく、かえってこの人とイエス様を苦し めることになったのです。

 そしてもう一つ。イエス様のとても気になる一言があります。イエス様はただ この人を癒しただけでなく、癒された後にもう一度出会って、こう言っているの です。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、 もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。

 「もう罪を犯してはいけないって、いったい何の話ですか?」と問い返してい ないところを見ると、この人には思い当たることがあるのでしょう。私たちには 分かりません。しかし、少なくともこの人とイエス様には分かっていることがあ るのです。つまりイエス様はただこの人の肉体的な病気を癒されただけでなく、 その背後にある罪の問題に関わられて、この人を解放し、もう一度立ち上がらせ たのだ、ということなのです。

 もちろん、このような言葉には十分な注意が必要です。あらゆる病気が常に何 らかの罪の結果であるかのように、病気と罪を単純に結びつけることは避けねば なりません。例えば、この福音書の9章には、弟子たちが生まれつき目の見えな い人について、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を 犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたという話があ ります。そのとき主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからで もない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)と言われたのです。そ のように、病気や様々な苦しみを単純に因果応報として説明してはならないので す。

 しかしもう一方で、人間の病や苦しみが人間の罪とは《全く無関係》であると 論じることは現実的ではありません。というのも、明らかに自分の罪の結果とし て病気に限らず多くの苦しみを身に招くことが実際にあるからです。しかも、長 い間苦しみ続けることがあるからです。いや、さらに言うならば、罪によって病 気になるというよりも、罪そのものが人間にとって大きな苦しみをもたらす根元 的な病に他ならないのです。罪という病は、人間が力強く立ち上がって活き活き と前進していくことを阻み、最終的には人間を滅ぼしてしまう恐ろしい病なので す。そうしますと、ここに登場する人の姿は、そのようなすべての人に関わる根 元的な「罪」という病に冒されている人間の姿を象徴的に表しているとも言える でしょう。単なる病人の癒しの話なら、病気でない人には関係ありません。しか し、罪という病の癒しの話なら、ここにいる私たちすべての者に深く関わる話で あるに違いありません。

救いをもたらさないベトザタの池

 はじめに1節から3節までをお読みします。「その後、ユダヤ人の祭りがあっ たので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブ ライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この 回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、 大勢横たわっていた」(1-3節)。

 その人は、エルサレムの羊の門の傍らにあったベトザタと呼ばれる池の回廊に 横たわっていました。そこには他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由 な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたと書かれています。なぜ、彼ら はそんなところにいたのでしょうか。理由が書いてありません。しかし、よく見 ると新共同訳では4節が抜けていますでしょう。その節はヨハネによる福音書の 一番最後に付記されています。このように書かれています。「彼らは、水が動く のを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことが あり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、 いやされたからである」(3節後半-4節)。

 これはヨハネによる福音書に後の時代につけ加えられた説明書きでです。要す るに当時の迷信です。真っ先に水に入る者はいやされるという迷信のゆえに、皆、 自分が一番最初に飛び込もうと思って池の回廊にいたのです。38年もの間病気 に苦しんできたその人もまた、癒されるつもりでそこにいたはずでした。しかし 現実には、その人にとってベトザタの池は全く救いにはならなかったのです。  さて、この池には「五つの回廊」があったと記されております。池を四角く取 り巻く四つの回廊があり、その真ん中を横切る五つめの回廊があったということ でしょう。そのように、回廊が五つあったことを殊更に記しているのは、それが モーセの五書、モーセの律法を象徴しているからであると、古くから理解されて きました。先にも触れましたように、この後には安息日律法の話が続くことから も、それは正しい理解であろうと思います。

 律法を象徴する五つの回廊を持つベトザタの池は、38年間苦しんできたその 人の助けにはなりませんでした。これは律法の無力さを象徴的に表していると言 えるでしょう。律法というものは、確かにそれ自体としては、何が正しいことか を教える良いものです。しかし、正しいことを教えて命じる律法は、罪とその結 果に悩み苦しむ者を、癒したり生かしたりすることができないのです。律法それ 自体は良きものであっても、それが罪人にとって救いにはならないのです。

 ある人がこんなことを書いていました。「病気で寝たきりで、点滴で栄養補給 を続け、かろうじて生きている人に、『バランスのよい食生活をしてスポーツで 体を鍛えなさい、そうすれば健康になれます』なんて勧めても、いっそう惨めな 思いを強いるだけでしょう」。本当にそのとおりだと思います。同じように、正 しいことを教えたり命じたりする律法なるものが、何の助けにも救いにもならな いことが確かにあるのです。

救いをもたらすキリストの言葉

 しかし、そのような人間の悲惨な現実の中にこそキリストが来られたのです。 物語は次のように続きます。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人が いた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気である のを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動く とき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、 ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは言われた。『起き上がりなさい。 床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き だした。その日は安息日であった。」(5-9節)。

 主はこの人が横たわっているのを御覧になられました。それがこの人の現状で す。しかし、主はただ今の彼の状態に目を向けておられただけではありませんで した。「もう長い間病気であるのを知って」と書かれております。その人の現状 の背後にある長い苦しみに心を留められたのです。彼が何年も何年も苦しんでき たことを、主は知っておられた。その上で主は言われたのです。「良くなりたい か」と。イエス様は、ここにいる私たちにも言われます。「良くなりたいか」と。

 良くなりたいに決まっています。しかし、この人の言葉を聞いください。彼は 「良くなりたいのです」と言っていません。「主よ、水が動くとき、わたしを池 の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降 りて行くのです」(7節)。そう彼は言いました。考えてみれば無理もないでしょ う。38年間、だめだったのですから。失望の連続だったのですから。

 もちろんそれなりに努力してきたのだと思います。しかし、努力してもだめだっ た。誰も助けてくれないし。誰も本気で私のことなど考えてなどくれないし。ど うせみんな自分のことしか頭にないから。??そのように、彼にはいくらでも言い 訳があるのです。諦めてしまっている自分について、いくらでも言い訳があるの です。

 彼の気持ち、よく分かります。私たちもしばしば同じことをしているから。努 力しなかったわけではありません。何が正しいかを知り、正しく自分を律するこ とができるなら、そこには健康な生活があるのでしょう。しかし、病気の人の体 が思うように動かないように、私たちもなかなか自分の思うように体が動きませ ん。正しいことが何であるか分かっていても、体が動きません。そこで失望しま す。落胆します。どうせ私という人間はこんなものなのだと思ってしまいます。 諦めてしまいます。そんな自分を、いろいろな言い訳をもって正当化します。そ もそもこんな私になったのは周りの人々のせいなのだと言うこともできます。誰 も本気で私のことなんか考えてくれない、と周りの人間の冷たさのせいにするこ ともできます。そんな言い訳をしても、何の役にも立たないことは重々分かって いるのに、言い訳せずにはいられないのです。言い訳しながら、今の自分に留ま り続けます。

 しかし、もう一度イエス様の声に耳を傾けてみましょう。イエス様は、どうし てこんな状態なのか理由を聞いているのではありません。「良くなりたいか」と 聞いておられるのです。私たちが言い訳として口にするようなことは、もうご存 じなのです。イエス様は、すべて分かっておられるのです。しかし、それでもな お、主は「もっともだね。仕方ないよね」とは言わないのです。私たちが罪の病 の床の上で諦めてしまうことを、イエス様は望んでおられないのです。イエス様 は私たちが良くなることを望んでおられるのです。だから、私たちにも、良くな ることを望んでほしいのです。主は私たちが癒され救われることへの強烈な願い を持つことを望んでおられるのです。

 それゆえにイエス様はこの人の言い訳の言葉をかき消すかのように、こう宣言 したのです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。その人にとって必 要なことは、今の自分について言い訳をすることじゃないのです。そうではなく て、目の前にいるイエス様を信じることなのです。「良くなりたいか」と言って くださるその御方を信じることなのです。もちろん、ここで彼はイエス様の言葉 を拒否することもできたわけでしょう。「起き上がりなさい」と言われても、起 き上がれないからこそ、今まで寝ていたのですから。しかし、彼はもう言い訳を しませんでした。彼はキリストの言葉を受け入れたのです。彼は信じたのです。 この御方こそ自分を立ち上がらせてくださると信じたのです。この御方こそ前に 向かって歩かせてくださると信じたのです。信じて立ち上がろうとした時、彼は 立ち上がることができたのです。彼は歩き出すことができたのです。

 病んでいた彼にとって、彼の留まり続けたベトザタの池は、まったく無力でし た。しかし、ベトザタの池のなしえなかったことを、神はキリストを通してこの 病人にしてくださいました。この出来事は、次のパウロの言葉を思い起こさせま す。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったので す」(ローマ8:3)。イエス様はここにいる私たちにも声をかけていてくださ います。「良くなりたいか」と。そう言ってくださるイエス様を信じましょう。 イエス様が立ち上がらせてくださいます。イエス様が歩かせてくださいます。

 
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