「御言葉を聴き続ける」
2008年2月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章60節~71節
命を与えるのは“霊”である
イエス様は言われました。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」(63節)。“霊”というのは目に見えない神の霊、聖霊のことです。「肉」というのは、もちろん食肉のことでも肉体のことでもありません。目に見えない神の霊に対比されているのですから、目に見えるこの地上に属するものを指しています。
この章の始めの方には、人々がイエスを王にしようとしたという話が出てきます。なぜ王にしようとしたのでしょうか。イエス様には力があったからです。人々はローマ人の支配からの解放を願っていたことでしょう。安定した豊かな生活を願っていたことでしょう。いずれにせよ、イエス様は人々の具体的な必要を満たすことができる御方と見なされた。いわば「肉」を与えることのできる御方として映っていたのです。しかし、イエス様は言われるのです。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」。
こういうことを言いますと、つまずく人が出てくるものです。現に既に弟子たちがつまずき始めています。66節では、「弟子の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と書かれています。「弟子」でありイエス様を信じた人たちです。その彼らが離れて行ったのです。「肉は何の役にも立たない」などというと、そういうことが起こるのです。
実は、この箇所はわたしにとって大変思い出深い聖書箇所でもあります。以前一度だけ、この同じ箇所から説教をしたことがありました。1995年1月29日の日曜日です。1995年の1月に何が起こったか覚えていらっしゃいますでしょうか。阪神淡路大震災です。わたしはその時大阪に住んでいました。地震が起こった日には宝塚にいました。倒壊した建物の間を道路の地割れを必死で避けながら家に辿りついたのを今でも思い起こします。その頃、毎日のように耳にした言葉は「緊急物資」と「ライフライン」という言葉でした。それはまさに命をつなぐものだったのです。またライフラインが寸断された時、水や電気やガスを供給するために、多くの人が夜を徹して懸命に働いていました。それらは絶対に必要だったからです。しかし、イエス様に言わせれば、それは皆「肉」に過ぎないのです。そのような非常事態のただ中で、この「肉は何の役にも立たない」という言葉をわたしは読んでいたのです。
ここを読んで抵抗を覚えないはずがないでしょう。教会員やその家族の中には、地震に直撃された被災地に住んでいた人も少なからずいたのです。そのような中で、ここから何を話せというのでしょう。わたしはイエス様に文句を言っていました。「イエス様、それはあんまりじゃないですか。そんなことを仰るから、キリスト教はこの世から遊離しているなどと悪口を言われるのです。キリスト教は現実の苦しみに対して何の力もないなどと言われるのです。雲の上の宗教だ、などと言われるのです。」
しかし、そのようなことを考えながらブツブツ言いながら読んでいた時に、一つの事実が鮮やかに示されました。人々の苦しみや痛みに目を留めておられるイエス様の姿、まさに「肉」を必要としている人間の現実を心にかけておられるイエス様の姿です。今日お読みしましたヨハネによる福音書6章は、イエス様の奇跡物語から始まるのです。イエス様が大群衆に食べ物を与えられたという話から始まるのです。人々が空腹であるのを一番気遣っておられたのはイエス様だったのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とフィリポに言ったのはイエス様だったのです。弟子たちには群衆が空腹であることなんか、どうでもよかった。早く解散させたらよいのに、と思っていたのです。しかし、イエス様は違っていました。群衆に食べさせることを考えていた。その他の場面でもそうです。イエス様はいつだって「肉」を必要としている、目に見える現実の助けを必要としている人々のただ中にいたのです。イエス様は雲の上などにはおられなかったのです。
わたしはブツブツ言っていた自分が恥ずかしくなりました。イエス様は分かっておられる。むしろ、人々が本当に「肉」を必要としていることに無関心なのは私の方じゃないか。そう思えたからです。イエス様は分かっておられるのです。私たちに「肉」が必要だということ。時として死にものぐるいで目に見えるものを追い求めざるを得ないこと。目に見える具体的な助けが必要であること。それを得た時に私たちがどんなに嬉しいか、ということも。
そうです。そんなことは百も承知であるイエス様が、あえて言われたのです。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」と。ならばそれは何を意味しますか。それほどまでに、命を与える“霊”に目を向けて欲しいということでしょう。それほどまでに神の霊による本当の命を与えたいということでしょう。
考えて見れば、イエス様があえて「肉は何の役にも立たない」と言われたのは、私たちのためなのです。実際、「肉」を求めて終わりということが私たちにはあるからです。現実の問題を抱えていて具体的な助けが必要な時には必死で神を求めキリストを求めるけれど、必要な「肉」を得てしまったらその心が神を離れキリストを離れてしまう。そういうことが起こるのです。本当はそこからが大事なのでしょう。そこから本当に神と共に歩む生活が始まらなくてはならないのでしょう。「肉」は得たとしても、信仰によって歩み、本当の意味で神と共に生きる生活を得、“霊”による命に満たされた生活を得るのでなかったら、イエス様から見るならば、一番大事なものを受け損なっているということなのです。
イエス様は、「肉は何の役にも立たない」と言い切るほどに、「命を与えるのは“霊”である」ということの重みが分かっておられたのです。いや、イエス様だけではありません。その後に生きた人たち、かつて困難の中に生きてきた多くの信仰者たちもまた、そのことが見えていたのでしょう。実際に、迫害の時代を生きた人たちは、肉なるものを全部奪われても惜しくないと思っていたわけですから。それほどに「命を与えるのは“霊”である」ということが見えていたということなのです。
わたしの言葉は霊であり命である
逆に言えば、私たちはまだその絶大なる価値のごくごく一部しか見えていないのだということなのでしょう。私たちもまた、見えるようにしていただきましょう。「命を与えるのは“霊”である」という言葉の重みを味わわせていただきましょう。確かに肉なるものは必要です。私たちの具体的な必要を主はご存じです。主は目に見えるこの地上の生活に伴う様々な必要を満たしてくださいます。主は憐れんでくださる。だから必要なものは求めてよいと思います。しかし、だれでも人生の最後には肉なるものをもはや必要としなくなる時が来るのです。確かに「肉は何の役にも立たない」ことが目に見えて明らかになる時が来るのですから。
週報に報告されていますように、先週の木曜日に一人の方が病床洗礼を受けられました。重い病気を患っています。その方の地上の命は、確かに医療現場における肉なるものによって保たれていることは事実です。しかし、当の本人は肉なるものが究極的に必要なのではないことは重々分かっているのです。これから洗礼を授けますと伝えた時、もうほとんど開けられなくなった目から涙がこぼれ落ちました。その美しい涙が雄弁に物語っていました。その方に本当に必要だったのは、神御自身であり、神の霊によるまことの命、絶対に奪われない命だったのです。そして、命を与える“霊”は、その方はまことの命を与えてくださいました。
もちろん、命を与える“霊”を知るために、“霊”の与える命を体験するために、自分が病床に横たわる時まで待つ必要はありません。今、こうしてここに集まれる時に、私たちはひたすら求めるべきなのです。“霊”の与える命を知る者とならせていただきましょう。たとえ肉なるもの全てを奪われても大丈夫、この地上の命さえ失われても惜しくないと思えるほどに、聖霊による永遠の命の豊かさを経験させていただきましょう。
そのために大事なこと何でしょう。イエス様は続けてこう言われました。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と。大事なことはキリストの言葉を聞くことです。これは神の言葉を聞くこと、と言い換えてもいいでしょう。ヨハネ3章34節には「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」(ヨハネ3:34)とあります。キリストの言葉、キリストが語られる神の言葉を離れて“霊”の与える命はないのです。
さて、毎週ここにおいて、聖書が朗読され、説教がなされます。皆さんはこれをどのように聞いておられますでしょうか。聖書の朗読についてはさておき、説教については、毎週それぞれの感想を抱いて帰られるに違いありません。「今日の説教は退屈だった」「今日の説教はよく分からなかった」と思う人があるかも知れませんし、「今日の説教は良かった」と思って帰る人も、あるいはいるかも知れません。しかし、仮に私が感動的な説教をしたとしても、あるいはとても“参考になる”示唆に富んだ話をしたとしても、それが清弘という人間の言葉でしかないならば、イエス様に言わせればそれは「肉」に過ぎないのです。そして、イエス様は言われるでしょう。「肉は何の役にも立たない」と。
しかし、教会が本当にキリストの体であって、ここに神の霊が働いておられて、キリストが現に語っておられるならば、神が語っておられるならば、話は別です。ここで読み上げられる聖書の言葉も、その解き明かしである説教も、何の役にも立たない肉ではありません。御言葉が語られるなら、そこでは神の霊によって人が本当に“生かされる”ということが起こるのです。人は永遠の命を体験することになるのです。そのことを信じてこそ、私がここに立っていることにも意味がありますし、そのことを信じてこそ、ここに私たちが集まっていることにも意味があるのです。
弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、主はあの弟子たちにこう尋ねられました。「あなたがたも離れて行きたいか」と。これは「あなたがも離れて行きたいか。もしそうならば去ってもいいんだよ」という意味ではありません。そうではなく、「あなたがたも離れて行きたいか。いやあなたがたは決して去ることはないだろう」という意味合いの表現が用いられているのです。「あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼をもってイエス様は語っておられるのです。その言葉に対して、シモン・ペトロは、先のイエス様の言葉を全面的に受け入れて、こう答えるのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。
キリストが教会を通して私たちに御言葉を語ってくださる時も、「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して語ってくださっているのです。そのように、命の御言葉を語っていてくださるのです。それゆえに、私たちもペトロと共に信仰を言い表したいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられれます」と。そして、御言葉に留まる。御言葉を聴き続ける。すべての肉なるものが役に立たないものとして取り去られる時まで、命を与えるのは“霊”であると信じて、御言葉を聴き続ける者でありたいと思うのです。