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「光のあるうちに」

2008年3月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 12章27節~36節

まさにこの時のために来たのだ

 「今、わたしは心騒ぐ。」そうイエス様は言われました。イエス様は心騒がせておられます。苦難の時が近づいていたからです。イエス様ともあろう御方が苦難を前にして心を騒がせている。不思議なことでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様だからこそ、心を騒がせているのです。御自分の受けるべき苦難の大きさを本当に知っているからこそ、心を騒がせているのです。イエス様が負うべき苦難、それはすべての人の救いのために負うべき苦難でありました。それは、すべての人の罪を代わりに担い、罪の贖いの犠牲として死んでいくことを意味していたのです。私たちは人間の罪の重さというものを本当には分かっていないのだろうと思います。それが分かっていたのはイエス様です。罪を代わりに負うということがどれほど重いことか、すべての人を救うために負うべき苦しみがどれほど大きなものか、それを知っていたのはイエス様です。だからこそ、イエス様は恐れおののいていた。心騒がせていたのです。

 他の福音書においては、このイエス様の苦悩を「ゲッセマネの祈り」として描き出しています。ゲッセマネの園において、苦しみもだえながら、イエス様はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)。そのとき、汗が血の滴るように地面に落ちた、と書かれています。今日お読みした箇所でもイエス様は言っています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」。このイエス様の苦悩。恐れ。イエス様の心の内にあったものを、私たちには恐らく決して知ることも想像することもできないでしょう。

 しかし、キリストの祈りは「この時から救ってください」で終わらなかったのです。「この杯をわたしから取りのけてください」で終わらなかった。ゲッセマネの園において、主は最終的にこう祈られたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と。今日お読みした箇所においても、主はやがて迎えるべき苦難の時を、《父から与えられている時》として、しっかりと受け止めておられるのです。主は言われます。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」

 「父よ、わたしをこの時から救ってください」ではなく、あえてそこで「御名の栄光を現してください」と祈られた御方、そのようにして、あの大いなる十字架への道を歩み続けた御方、それが私たちの主キリストです。その御方が「わたしを信じなさい」と言ってくださった。「わたしについて来なさい」と言ってくださった。私たちは、そのような御方を信じ、そのような御方について行こうとしているのです。

 「ニーバーの祈り」として知られる、こんな祈りの言葉があります。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

 変えることのできること、また変えなくてはならないことがあります。また変えてくださいと祈り求めるべきことがあります。しかし、変えることの出来ないこと、変えてはならないことがあります。しっかりと受け止め、受け入れるべきものとして神から与えられているものがあります。どうしても歩まねばならない道、担がなくてはならない重荷、逃げ出してはならない持ち場があるのです。

 イエス様は、「まさにこの時のために来たのだ」と言われました。それは決して「あきらめ」の言葉ではありません。受容することはあきらめることではありません。キリストは十字架への道に立ち、そこを進むことによって《神の栄光が現れること》を求めたのです。「御名の栄光を現してください」と。その時、父なる神はキリストに応えられました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。「再び栄光を現そう」とは十字架の時を指しています。神がよしとされるなら、十字架の上で惨めに死んでいくことを通してさえ、神は栄光を現わされるのです。十字架でさえ、神の栄光に変わるのです。

 苦しみからは逃げたい。逃げ出したい。悲しみは避けて通りたい。重いものはできるだけ早く降ろしたい。そんな私たちであることを、神様はご存じです。イエス様は私たちと同じ肉となられた。人間となられた。だからそんな私たちの思いを理解してくださるでしょう。ですから苦しみは取り除いていただき、悲しみは癒していただき、重荷は降ろさせていただくことを願ってもよいのです。そのことを願ったり、望んだりして責められることはないでしょう。泣きながら「この苦しみから救ってください」と祈り続けることだってあるでしょう。それでよいのです。しかし、それでもなお、時として私たちには、「苦しみから逃れさせてください」ではなくて、「神様の栄光を現してください」と願うべき時、本当にそのことを願い求めるべき時あるのです。確かにあるのです。

地上から上げられるときに

 ならばそこで大事なことは何なのでしょう。苦難に負けない強さを持つことでしょうか。強靱な精神力を持つことでしょうか。イエス様はどうだったのでしょう。イエス様は強かったから、あのように祈り得たのでしょうか。そこで一つのことに気付きます。ここで繰り返されている「父よ」という言葉です。この呼びかけは、ヨハネによる福音書に繰り返し現れます。「父よ。」――そうです、十字架の時を目の前にして、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と主に言わしめたのは、他ならぬ「父」への信頼であり、「父」との不断の交わりだったのです。「父よ」。イエス様はそのようにひたすら父を呼び求めながら生きていたのです。イエス様は強い。確かに強いと思います。あの御方のように強くなれたら、とも思います。しかし、その時主を支えていたのは、堅固な信念であるとか、強靱な精神力などではなかったのです。そうではなくて、父との生きた交わりだったのです。愛と信頼に満ちた交わりだったのです。

 私たちに必要なのは、私たちの強さではありません。苦しみの中にある時、私たちを本当に支えるのは私たち自身の精神力などではありません。そうではなくて、天の父を呼び求める生活です。父なる神への信頼です。変えることのできることは変えなくてはならない。解放されるべきことからは解放されなくてはなりません。しかし、既に触れましたように、私たちには変え得ないことがあるのです。どうしても担わざるを得ない重荷、担うべき重荷がある。その時、なおすべてが父なる神の御手の内にあることを信じるなら、そしてその父に信頼するならば、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるのです。そして、父は言ってくださるのです。「栄光を現そう」と。そのように、私たちに必要なのは、天の父を呼び求め、天の父に信頼して生きることなのです。

 それは、言い換えるならば、父の御名を呼び、父に信頼して生きることを見せてくださった、イエス様と共にいることです。御子と御父との交わりの中に、私たちもまた身を置くことなのです。イエス様はそのためにこそ、十字架におかかりくださったのではありませんか。32節で主はこのように言っておられます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。「地上から上げられるとき」とはいつのことですか。十字架にかけられる時です。ですから「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33節)と書かれているのです。しかし、イエス様は十字架に上げられて終わりではないのです。さらに父なる神のみもとにまで上げられるのです。そのイエス様が言われるのです。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。父のみもとにいるイエス様が、自分のもとに引き寄せてくださるのです。十字架におかかりくださったイエス様が、「あなたの罪は贖われた。あなたの罪は赦された」と言って、御自分のもとに、また父のもとに引き寄せてくださるのです。そのようにして、私たちもまたイエス様と共に父のみもとに身を置くことができるのです。父との交わりに生きることができるのです。

光のあるうちに

 「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と主は言われます。それはキリストがしてくださることです。その一方で私たちが為すべきことがあります。イエス様は次のように言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35‐36節)。

 「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」と書かれています。どこにいるのかも分からない。どこに向かっているのか分かっていない。確かに暗闇の中にいるとはそういうことでしょう。しかし、当然のことながら、キリスト御自身はそのような暗闇の中にいる御方ではありませんでした。キリストは自分がどこにいるかを知っていた。キリストは自分がどこに向かっているかを知っていた。父なる神に信頼し、与えられている十字架の道を受け止め、ただ父の栄光が現れることを祈りつつ、まっすぐに命の道を進んでいたのです。そのように光の中を歩んでいたのです。

 そして主は、私たちもまた、暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩むように招いておられるのです。つぶやきながら、不平を言いながら、嘆きながら、腹を立てながら、憎しみを抱きながら、諸々の罪に振り回されながら、どこへ向かっているのかも分からないままに滅びに向かって歩いていく、そのような暗闇の中を歩くのではなくて、父なる神の名を呼びながら、父なる神に信頼しながら、父が栄光を現してくださることを求めながら、父の御もとに向かって歩いていく、そのような光の中を私たちが歩いていくことを主は望んでおられるのです。だから「光のあるうちに」そのように光の中を歩み始めなさいと主は言われるのです。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい、と。

 「光のあるうちに」とは、キリストが共におられ、御言葉を語っておられるその間に、ということです。それは第一には、キリストがこの地上におられた期間を指すのでしょう。キリストが十字架にかけられて死なれるまでの期間です。しかし、私たちはキリストが死んで終わりではなかったことを知らされているのです。十字架の後には復活が来る。そして、聖霊の降臨があり、教会の時代へと続いていくのです。「光のあるうちに」――その期間はキリストの死をもって終わりはしませんでした。キリストは復活し、教会を通して御言葉は語られ続け、今日に至っているのです。「光のあるうちに」。その光は今日に至ってなおわたしたちの間にある、とも言えるでしょう。

 しかし、イエス様は言われたのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と。それはやはりあくまでも「いましばらく」なのであって、永遠に続くわけではありません。人が御言葉を聞くことができるのは、限られたある期間に過ぎないのです。ですから、いつでも重要なのは《今》です。御言葉が語られているその時が信ずべき時なのです。キリストが招いていてくださるその時が従うべき時なのです。「光のあるうちに、歩きなさい。光のあるうちに、光を信じなさい」と主は言われます。皆さん、キリストが招いていてくださる今日という日を大切にしましょう。光のあううちに、光の中を歩み始めるならば、暗闇が私たちに追いつき、暗闇が私たちを捕らえて滅ぼすことは決してありません。光なるキリストを信じ、光の中を歩いていきましょう。

 
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