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「キリストの業を行うために」

2008年5月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章8節~17節

もっと大きな業を行うようになる

 フィリポはイエス様に言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」するとイエス様はこう言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」(9節)

 「わたしを見た者は父を見たのだ」。そうです。イエス様は父を見せてくださったのです。父なる神がどのような御方であるのか、独り子なる神がこの地上において見せてくださったのです。神様の勝手なイメージを造り上げて、怯えてみたり、逆に侮ってみたり、あるいは心の内で神を憎んでいたり、そんなことをしているこの世に対して、「あなたがたが信ずべき神様は、このような御方なのだよ」と見せてくださったのです。単に言葉をもって教えてくださっただけではありません。その生活をもって見せてくださった、その身をもって現してくださった、その御業をもって現してくださったのです。

 ですから主はこう言われるのです。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(10節)。「業そのもの」とは、イエス様のなさった奇跡の業に限りません。イエス様のなさったこと全てです。イエス様のなさったことは全てこの世への語りかけなのです。イエス様のなさった業は、人間を救おうとしている父なる神の愛を語っているのです。イエス様の御生涯、十字架からさらには復活へと至るその歩み、そのようなイエス様の存在そのものが神の愛を語っているのです。神に背き、神から離れてしまっているこの世を、それでもなお愛しておられる神の愛を語っているのです。「わたしを見た者は父を見たのだ」。父なる神はこれほどにあなたがたを愛しておられるのだ。あなたがたを愛している父が、わたしの内にあって業を行っておられる。その業を通して信じなさい。そう主は呼びかけておられます。

 しかし、そのように父を見せてくださったイエス様が、父のもとへ帰る時は刻一刻と近づいていたのです。そこで主はさらに弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。

 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行うようになる!そうイエス様は言われたのです。「わたしを見た者は父を見たのだ」と言われるイエス様の働きを誰が引き継ぐことになるのか。この世界に父の愛を現し、神の救いをもたらす働きを誰が引き継ぐことになるのか。それは他ならぬイエス様の弟子たちだというのです。すなわち、彼らから始まる教会です。イエス・キリストを信じる群れが引き継ぐのです。

 しかも主は、「もっと大きな業を行うようになる」と言われるのです。イエス様のお働き、それはある意味では極めて狭い地域に限定されていました。イエス様はその公の働きにおいてパレスチナから外へ出ることはありませんでした。しかし、イエス様が天に帰られた後、その働きはもっともっと大きく広がっていくことをイエス様はご存じだったのです。やがてユダヤから出てサマリアへ、さらにはギリシャ、ローマへと広がっていく。神の救いの御業は広がっていく。弟子たちは、「もっと大きな業を行うようになる」と主は予告されたのです。そして実際にそのとおりになりました。神様の救いの御業はこうしてこの日本にまで至りました。極東に住む私たちにも及びました。

 もちろんイエス様が言われる「もっと大きな業」は、私たちのところを終着点とするのではありません。神の計画はもっともっと大きいのです。この日本においてイエス様を信じる私たちに主は同じように言われます。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。

 皆さん、イエス様は「わたしを信じる者は」と言っておられるのです。「特別なある人々は」と言っているのではないのです。特別に有能であるかないか、関係ありません。若者であるか年老いているか、関係ありません。健康な人であるか、病の床に伏している人であるか、関係ありません。「わたしを信じる者は」としか言われていないのです。それで十分なのです。どんな人でも、キリストを信じるならば、その人を通して神様は御自身の愛をこの世界に現そうとされるのです。どんなに小さく貧しい群れであっても、キリストを信じる教会を、神様は救いの御業を進めるために用いてくださるのです。キリストを信じる者は、キリストの業を行い、もっと大きな業を行うようになる。それが神様の御心です。私たちはそのために召されたのです。教会はそのために存在しているのです。

イエスの御名によって願う

 しかし、「キリストの業を行い、もっと大きな業を行う」ためには、さらにイエス様が言っておられることに耳を傾けなくてはなりません。

 主はまず次のように言っておられます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13‐14節)。私たちはこのイエス様の約束の言葉をしっかりと心に留めなくてはなりません。教会がただ単に「人間の業」を行うのではなくて、「キリストの業」を行うとするならば、どうしても重要になりますのは「祈り」です。イエス様の名によって願うことです。私たちが「願い」、キリストが「かなえる」という仕方において、キリストの業がなされていくのです。

 実は、これと似たような表現が16章に出てきます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23‐24)。そこでは、「父はお与えになる」となっています。「キリストがかなえてくださる」というのは、「父がお与えになる」ということでもあるのです。私たちが「祈り」、キリストが「かなえてくださる」という仕方において、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。

 どうですか。聞いていて、とてもまどろっこしいと思いませんか。不思議なことです。神様はどうしてそんな回りくどいことをなさるのでしょう。どう考えても効率が悪い。そんな回りくどいことをなさらないで、私たちが願うとか祈るとかそんなこととは無関係に救いの御業を進めたら良いと思いませんか。

 しかし、これが神様のやり方なのです。神様が効率重視の御方ではないのです。神様は効率よりも、私たちの存在というものを重んじてくださるのです。私たちの意志を、すなわち願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志をも重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさらない。あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。何のため?16章でイエス様ははっきりと言っています。「あなたがたは喜びで満たされる」と。神様は、私たちの喜びのことを考えていてくださるのです。実際、そうではありませんか。人が救われることに関心のない人は、人が救われる喜びをも知ることはないでしょう。私たちが誰かの救いを心から願い、切に切に祈り続け、そしてイエス様御自身が神の愛をその人に現して救ってくださったなら、そこに大きな喜びが満ち溢れることでしょう。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」それは第一に私たちの祈りを通して実現していくのです。ならば、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、キリストの御業が現れるように、大いに祈り求めようではありませんか。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と主は言ってくださるのですから。

真理の霊があなたがたの内に

 そして、イエス様が与えてくださっているもう一つの約束は、イエス様が父に願い、私たちに聖霊を与えてくださるとの約束です。主は言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。

 天に帰られたキリストが聖霊を送ってくださる。その聖霊がここでは「弁護者」と表現されております。なぜここにいきなり「弁護者」が出てくるのか、不思議に思われた方があるかもしれません。実は、これは「パラクレートス」という言葉なのです。そして、私は、「弁護者」ではなくて、「パラクレートス」とカタカナのままにした方が良いのではないかと思うこともあります。なぜなら、この言葉は一つの日本語では表現しきれないほど、とても広い、内容豊かな言葉だからです。

 もちろん、法廷用語としては「弁護者」で良いのでしょう。しかし「弁護者」といいましても、今日のような職業的な弁護士を想像してはなりません。そもそも国家資格ではないのですから。弁護者というのは要するに味方になってくれる人です。それは多くの場合、身内であったり、親しい友人であったりしたのです。あるいは、「助け主」などとも訳している聖書もあります。「慰め主」という訳もあります。要するに、味方になってくれる方であり、親しい友達であり、助け主であり、慰め主である、そういうパラクレートスを遣わしてくださるとイエス様は言われたのです。聖霊というお方は、そのようなお方なのだ、というのです。それが弟子たちに与えられた約束です。主を信じる者に与えられた約束です。

 そのパラクレートスなる聖霊は、「真理の霊」と呼ばれています。17節を御覧ください。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(17節)。

 聖霊は「真理の霊」として、私たちに真理を悟らせてくださるのです。その真理とは何ですか。それはイエス・キリストであり、キリストを通して現された神の愛です。愛なる神による救いの真理です。実際、その聖霊のお働きによって、イエス・キリストを信じたのでしょう。その真理の霊のお働きによって、神の愛を知ったのでしょう。キリストの十字架によって罪が贖われ、神との交わりへと入れられたことを知ったのでしょう。そして、愛なる神はやがて完全に救ってくださることを知ったのでしょう。真理の霊のお働きによって、父なる神を喜ぶ者へと変えられたのでしょう。その真理の霊は、これからも真理を示し続けてくださり、私たちと共にいてくださり、私たちの内にいてくださって弁護者となり助け主となり慰め主となってくださるのです。

 私たちはいかなる意味においても孤軍奮闘することを期待されてはいません。真理の霊がいてくださるからこそ、私たちはキリストの業を継続することができるのです。パラクレートスなる御方がいてくださるからこそ、「もっと大きな業を行うようになる」とのイエス様の言葉を受け止めることができるのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」そう主は言われます。ならば、私たちは大胆にはばかることなくイエスの御名によって祈りましょう。願いましょう。そして、私たちの内にいてくださる聖霊の御業にもっともっと信頼して生きる者となりましょう。

 
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