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「新しく生まれる」

2008年5月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 3章1節~15節

教えを請いに来たニコデモ

 ニコデモという人がいました。ファリサイ派に属するユダヤ人であり、ユダヤ人たちの議員でありました。そのような人物が、ある夜、イエスを訪ねて言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。

 「ラビ!」彼はそのように呼びかけました。「ラビ」と言えば、律法の教師のことです。彼は律法の教師に教えを請いにやってきたのです。実は、このニコデモ自身もまた「教師」なのです。10節でイエス様自身がニコデモを「イスラエルの教師」と呼んでいます。イエス様自身もご存じであられた、いわば名だたる教師だったのです。そのようなニコデモが人目を避けてまでして夜にわざわざやってきたのは、イエス様をただ者ではない特別な教師と見なしていたからでしょう。彼がイエス様を「神のもとから来られた教師」と呼んでいるとおりです。ニコデモは、イエス様の数々の御業の中に、「神が共におられる」という明らかなしるしを見たのです。そのような、神が共におられる特別な律法の教師に、どうしても教えて欲しいことがあったのです。

 彼は何を知りたかったのか。「ラビ」と言って教えを請いに来たのですから、それは明らかです。「何をすればよいのか」ということです。マタイによる福音書に、ある富める青年がイエス様のもとにやってきて、こう言ったという話が出ています。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。このニコデモも同じです。彼は教師ですから、これまで教えてきたことがあったのでしょう。もちろん、教えるだけでなく、自ら実行してきたことがあったのでしょう。神の律法に従い、善いことを行ってきたに違いない。しかし、このナザレのイエスという教師を見る時に、自分とは明らかに違う。そのことに気付いたのです。「神が共におられる!」

 神が共におられる教師に教えを請いに来たということは、同じ律法の教師である自分については「神が共におられる」と思えなかった、ということでしょう。律法を教え、律法を実行していながら、それでもまだ神は共におられない。神に受け入れられているとは思えない。神に愛されていると思えない。まだ足りない。まだ神に認められるには十分ではない。このままでは救われない。神の国にも入れない。私が聞かなくてはならない教えがあるはずだ。そう思ったからこそ、人目をはばかるようにしてでも、イエスという教師の教えを請いに来たのです。

新たに生まれる

 そのようなニコデモに対して、主はこう答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。イエス様は、今まで行ってきたことに、さらに何か善いことを付け加えたらよいとは言われませんでした。「あなたがより善い人間になったら、神に受け入れられ、神が共にいてくださるようになり、神の国にも入れてもらえるよ」とは言われなかったのです。そうではなくて、「あなたに必要なのは新たに生まれることだ」と主は言われたのです。

 「新たに生まれなければならない」とはどういう意味でしょう。「あなたは人生そのものをやり直さなくてはならない」という意味でしょうか。ニコデモにはそう聞こえたようです。それは実に厳しい言葉であると言わざるを得ません。つまりそれは「何かこれから善い行いを付け加えるぐらいで、神の国を見ることができると思うな」ということですから。皆さんならどうでしょう。「あなたは人生そのものを全部やり直さなくてはならない」とイエス様に言われたら、なるほどもっともだという気がしませんか。実際、私たちもそうですし、ニコデモも同じだったと思いますが、人生においてやり直したいことは山ほどあるものです。あんなことしなければよかった。こんなことしなければよかった。ましてや、最終的に神様の前に立つとするならば、そして最終的に神の前に問われる時が来るとするならば、やり直さなくてはならないことは、いくらでもあるはずなのです。

 しかし、現実には人生をやり直すことなんてできないでしょう。拭われないまま残された汚点、放り出してしまったままの問題、神様から問われたら申し開きができないようなこと、いくらでもある。それをやり直す時間なんて残されていないのです。それこそ、ゲームのようにリセットして、初めからやり直せたらどんなにいいか。しかし、そんなことはできないのです。私たちはよく知っているのです。人生やり直しが利かない。年を取れば取るほど、まさに人生のやり直しは利かないということを、いやというほど痛感させられるものです。

 ですからニコデモは言ったのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。議論のための議論をしているのではありません。これはいわば人間の悲痛な叫びです。後戻りができないという現実と向き合わざるを得ない人間の悲痛な叫びです。「『人生やり直せ』と言われても、できるわけないじゃないか!そんな時間、残されていないんだよ。母の胎に戻ってもう一度出てこいとでも言うのか。そんなことできるはずがないじゃないか!」彼はそう言っているのです。

水と霊とによって生まれる

 しかし、イエス様はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(5‐8節)。

 主はあくまでも「新たに生まれなければならない」と言われる。ただ、ニコデモが考えていることとは意味合いが違うようです。「人生初めからやり直せ」と言っているのではないのです。実はこの「新たに」と訳されている言葉には、「上から」というもう一つの意味があるのです。「上から」とは「神から」あるいは「神によって」ということです。要するに、イエス様は「あなたは神によって新たに生まれなければならない」と言っているのです。

 人は神によって新しく生まれることができるのです。母の胎からやり直さなくてもよいのです。イエス様はそれを「水と霊とによって生まれる」と表現しました。この「水」とは「バプテスマ」を指していると考えて良いでしょう。イエス様の時代から二千年を経た今日もなお、教会は水を用いてバプテスマを授けます。そのように教会は水を用いたバプテスマを大切にしてきました。しかし、バプテスマがいかに重要な聖礼典であろうと、その水そのものが、人を新たに生まれさせるのではないことは言うまでもありません。水はあくまでも水です。人を新たに生まれさせるのは、そこに働く神の霊、聖霊です。

 上からの聖霊によって人は新しく生まれることができます。「生まれる」というのですから、私たちは赤ん坊になるのです。子どもになるのです。上から、神の霊によって生まれたのですから、神の子どもたちになるのです。水と霊とによって新しく生まれて、イエス様が「アッバ、父よ」と呼んでいた神を、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼んで生きるようになるのです。この恵みを経験したパウロは、後にローマの信徒に宛てた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。

 ニコデモに必要だったのは、まさにそのことだったのです。教えと戒めを受けてより善い人間になることではない。ましてや、人生を最初からやり直すことなどではない。上から新しく生まれること、神の恵みによって新しく生まれること、神の霊によって神様の子どもにしていただくことです。そして、神を「アッバ、父よ」と呼んで生き始めることなのです。まだ神に愛してはもらえない。まだ神に受け入れてもらえない。まだ足りない。まだ十分ではない。――そのように打ち叩かれることを恐れる奴隷のように生きる必要はないのです。人は神の子とする霊を受けて、神の子として親に信頼し、親を呼び求めながら生きることができるのです。神の子どもとして神の国を見るのです。

上げられた人の子

 しかし、ニコデモは言いました。「どうして、そんなことがありえましょうか」と。それに対して主イエスは長い答えを返されます。特にその中の14節と15節をご覧ください。こう書かれています。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14‐15節)。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章に出ている話です。概略は次のとおりです。――イスラエルの民は神の救いによってエジプトにおける奴隷生活から解放されたのでした。しかし、人々は長い旅の途中で神の恵みを忘れ、耐え難くなって不平を言うようになったのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(民数記21:5)などと言い出したのです。すると「炎の蛇」と呼ばれる毒蛇が民を襲撃して多くの人々が命を落とすということが起こりました。彼らは自らの罪に気づき、罪を悔い、モーセのもとに来て言います。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」(同21:7)。そこでモーセが主に祈ると、主は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(同8節)と言われました。さっそくモーセは青銅の蛇を造って掲げます。すると「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(同9節)のでした。これが主の引用された物語です。

 蛇にかまれた者に対して、神はただ青銅の蛇を仰ぎ見ろと言われたのです。それが「わたしたちは罪を犯しました」という彼らの言葉に対する神の答えでした。すなわち、掲げられた蛇は、罪が赦され、罪が取り除かれたしるしなのです。それゆえに、彼らは、神の言葉を信じてただ仰ぎ見るだけでよいのです。そして、あの蛇と同じように、イエス様も上げられなくてはならない。そう主は言われたのです。旗竿の上ではありません。十字架の上にです。そして、実際イエス様は、あの呪われた蛇と同じように、まさにそこで私たちの代わりに呪われたものとなられ、私たち全ての者が仰ぎ見ることのできる、罪のゆるしのしるしとなられたのです。

 人はなぜ水と霊とによって新しく生まれ、神の子どもとして生き始めることができるのか。なぜ人生を最初からやり直さなくてもよいのか。それは私たちの罪が赦されるために必要なすべてを、既にキリストが成し遂げてくださったからなのです。このイエスの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、私たちは今日読みましたイエス様の言葉を、次のような私たちへの語りかけとして聞くことができるのです。「あなたは新たに生まれて、神の国を見ることができる。」「あなたは水と霊とによって生まれて、神の国に入ることができる。」「信じる者は皆、人の子によって永遠の命を得ることができる。」

 
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