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「正しい人は信仰によって生きる」

2008年6月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ハバクク書 2章1節~4節

 今日の第一朗読はハバクク書でした。全体で3章しかない小さな書物です。イザヤやエレミヤの名前は知っていてもハバククという預言者の名前は知らないという人はおられるかもしれません。しかし、今日お読みした最後の言葉、「神に従う人は信仰によって生きる」は、新約聖書に三回も引用されている言葉です。しかも、その引用箇所の一つであるローマの信徒への手紙1章17節は、宗教改革者マルティン・ルターが福音を再発見する契機となった聖書箇所です。今日は、そのようなハバクク書を通して、神様の語りかけに耳を傾けたいと思います。

主よ、いつまでですか

 預言者ハバククについてはほとんど何も知られておりません。ただハバクク書の内容から、紀元前600年頃に活動した預言者であることは分かります。ユダの王ヨヤキムの時代です。預言者エレミヤと活動期間が重なります。

 ところで預言者と聞きます時、どのような人物像を思い描きますでしょうか。神に背いた時代の人々に対して、ただ一人信仰に堅く立ち、神の言葉を大胆に確信をもって語り聞かせた人物。そのようなイメージでしょうか。しかし、このハバクク書を読みますと、最初に目にしますのは彼の嘆きの言葉なのです。

 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか」(1:2‐3前半)。

 ハバククは神の前で嘆きます。預言者ともあろう人が嘆いているのは不思議でしょうか。しかし、この嘆きは信仰者であるがゆえの嘆きであるとも言えます。信じて祈り続けてきた者だから嘆いているのです。祈り続けてきたのに現状は何も変わらないように見える。だから嘆いて、神に訴えているのです。

 「暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:3後半‐4節)。

 ヨヤキム王の時代は、まさにこの預言者の言葉どおりの時代でした。実は、彼の父親はヨシヤと言いまして、そのヨシヤ王は主に従う信仰の人だったのです。彼は宗教改革を行った王としても知られています。ヨシヤ王の時代にユダは神の民としての秩序を取り戻しつつありました。しかし、ヨシヤ王が死んだ後、改革は暗礁に乗り上げ、すべては振り出しに戻ってしまったのです。支配者層による弱者の抑圧、果てしなく繰り広げられている争い、神に逆らう者によって絶えず曲げられていく正しい裁き。主に従う人々は圧倒的少数であり、全くの無力でした。そのような中にハバククもいたのです。

 彼は神に祈り叫び求めました。混沌に再び秩序を回復させることの出来る方を信じて祈り続けました。しかし、彼は祈り続けることに倦み疲れてしまったのです。いつまで経っても何も変わらない。だから「いつまでですか」と神に訴えているのです。

 ここにハバククが経験していることは、また私たちが祈り続ける時に経験することではありませんか。事態が何も変わらないように見える時、私たちもまた祈ることに倦み疲れてしまいます。神は聞いていてくださらないかのように思える。祈りの言葉は虚しく宙に消えていくかのように思えてくるのです。

 しかし、「いつまでですか」と嘆き訴えるハバククに、神はこのように答えられたのです。

 「諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、わたしはカルデア人を起こす。…」(1:5‐6)。

 祈りの言葉は聞かれていなかったのではありませんでした。否、神は既に働いておられたのです。しかし、ハバククが考えるような仕方においてではありませんでした。告げられても信じられないような仕方で神は働いておられたのです。それはカルデア人を起こすということでした。

 カルデア人とは当時支配を広げつつあったバビロニア帝国のことです。ハビロニアは既にニネベを陥落させていました。そのバビロニアがユダにとっても大きな脅威となっています。そのことがこそが、神のなしたもう御業であると言うのです。それだけではありません。神は彼らが諸国を占領し、さらに速やかに来てユダまでを蹂躙し、暴虐を行うであろうことを語ったのです。

 「彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。彼らの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早く、その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て、獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き、砂を集めるようにとりこを集める」(1:7‐9)。

 預言者は神の秩序の回復を願い、祈り続けてきたはずです。しかし、神は今やその秩序をカルデア人を用いて徹底的に破壊しようとしているのです。暴虐と不法が満ちるユダに対して、今度はカルデア人が来て暴虐を行うというのです。

 一見するとますます悪くなっていくように見える現実。しかし、それは決して神が祈りを聞き給わないからでもなく、神が不在であるからでもないのです。ユダの国の現状に対して嘆き祈り続けてきたハバククの祈りは確かに聞かれていたのです。主は既に動き始めておられた。しかし、それは彼が考えるような仕方においてではなかったのです。

正しい人は信仰によって生きる

 ハバククは、神の言葉を正面から受け止めます。カルデア人の襲来を、ユダに対する裁きとして受け止めるのです。しかし、ハビロニアの軍事力の前にユダは滅びてしまうのか。神はユダをその罪ゆえに最終的に滅ぼしてしまうおつもりなのか。いや、そんなことがあろうはずがない。ハバククはあくまでも主への信頼を語ります。

 「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために、彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた」(1:12)。

 バビロニアさえ神の手のうちにある。神がバビロニアを用いるのはユダを懲らしめるためであって、滅ぼすためではない。神の意図はあくまでもユダを救うことにあるとハバククは信じているのです。

 しかし、ここでハバククははたと考え込んでしまいます。ユダは懲らしめるためとはいえ、バビロニアが支配するということは、ユダの悪よりももっと大きな悪が支配することになるのではないか。ハバククは神にその疑問を投げかけます。

 「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を飲み込んでいるのに」(1:13)。

 欺く者とはカルデア人のことです。考えて見れば彼らは懲らしめを受けるユダよりも悪い者であり「神に逆らう者」ではないか。どうして神は彼らの暴虐を許されるのか。それではこの世界に神の正義が真に実現していくことにならないではないか。このことをハバククは問題にしているのです。

 彼の疑問は容易に理解できるでしょう。いくら神が用いられるとはいえ、バビロニアが台頭して支配することは、神の良き計画が前に進むこととは到底見えないのです。仮にこのカルデア人の罪が裁かれるとしても、そこで別な帝国が用いられるとするならば、さらに悪しき者が台頭するだけに違いない。そうすると、結局はいつまで経っても神の支配は実現しない。神の正義は実現しない。神の望んでいる秩序も平和も実現しない。そういうことになりませんか。ハバククの問いかけは、代々の人々が抱いてきた疑問でもあるのです。要するに、神の為さることは結局一向に前に進んでないではないか、という問いです。今日でも、私たちはしばしばそのような思いを抱くのではありませんか。自分の人生についても、身近な現実についても、この世界全体についても、これが神の支配の完成、最終的な救いへと向かっているとは思えないのです。

 しかし、なおもハバククは神に向かい続けます。彼は希望を投げ捨ててはしまわないのです。ここからが今日の朗読箇所ですが、彼はあくまでも神の語りかけを聞こうとするのです。神が明らかにしてくださることを信じて!

 「わたしは歩哨の部署についき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる』」(2‐4節)。

 この「幻」とは、その後に書かれているように、神によって「定められた時」「終わりの時」に向かっている神の御計画です。最終的な救いに向かっている神の御計画です。神の救いの約束であり、神が与えてくださっている希望です。それを書き記せ、というのです。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと大きく書き記せ、というのです。なぜか。それは神の約束は終わりの時に向かって急いでいるからです。人間の目には、神の御計画は全く進んでいないように見えますし、むしろ救いのプロセスは逆行しているようにさえ見えるのです。しかし、そうではない!と神はハバククに告げられたのです。それは「定められた時」「終わりの時」すなわち救いの完成の時に向かってまっしぐらに進んでいるのだというのです。それならば、人のなすべきことはただ「待つこと」です。信頼して待つことなのです。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」そして、主は言われる。「神に従う人は信仰によって生きる」と。

 「神に従う人」と訳されている言葉は直訳すると「正しい人」「義人」です。「正しい人は信仰によって生きるのだ」と主は言われる。ハバククは、ユダの国に正しさがないことを問題にして嘆いていたのでした。「律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む」(1:4)と。そう、正しい人は圧倒的少数でしかないと訴えていたのです。また、バビロニアの台頭についても、やはりそこに正しさがないことを問題にしていたのです。「それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに」(1:13)と。そうです、私たちもまたいつでも問題にしているのは正しさがないことです。この世に、私たちの周りの人々に。

 しかし今、神はそのハバクク自身に、正しい人であることを求められるのです。神の求めておられる正しさとは何か。神が望んでおられる「正しい人」とはどのような人なのか。それは信仰によって生きる人だというのです。どこまでも神とその真実に信頼して生きる人なのです。「正しい人は信仰によって生きる。」かつて、神はその正しさを、アブラハムの中に見いだされました。創世記15章にこう書かれています。

 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 その信仰を主はハバククに求められた。パウロにも求められた。マルティン・ルターにも求められた。そして、私たちにも求めておられるのです。「正しい人は信仰によって生きる」。

 
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