「恵みと憐れみの神」
2008年6月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨナ書 4章1節~11節
物語のあらすじ
今日はヨナ書の最後の章をお読みしました。ヨナが怒っています。激しく怒っています。そのヨナに主は言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。
話の筋を見ておきましょう。物語は主の言葉がヨナに臨んだところから始まります。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」(1:2)。アミタイの子ヨナは列王記下に登場します。時代は紀元前8世紀。ヤロブアム二世の治世です。その頃オリエントを支配していた超大国アッシリアの首都ニネベに行って宣教することを命じられたヨナでした。
ところがヨナは主に従おうとはせず、「主から逃れようとして」タルシシュへと向かう船に乗り込んだのでした。しかし、主から逃れることができようはずもなく、彼の乗った船は大嵐に遭うことになります。人々は互いに言いました。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう」。そこでくじを引きますと、ヨナに当たった。ヨナは主の前から逃げてきたことを白状します。そして、ヨナは人々に言いました。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」(1:12)。とはいえ、すぐにヨナを海にほうり込むのはしのびなく、乗組員たちはなんとかこの危機を脱しようと努力します。しかし、海がますます荒れるにあたって、どうすることもできなくなり、ついにヨナを海にほうり込みます。すると荒れ狂っていた海は静まったのでした。
一方、海にほうり込まれたヨナは巨大な魚に呑み込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごすことになりました。三日後に魚はヨナを陸地に吐き出します。ヨナが腹の中で何を経験したのかは、二章に記されている祈りの言葉から分かります。神の御前から永遠に追放されてしまったと感じていたヨナは、その苦難の中で神の憐れみを知ったのです。いわば彼は自分の命を改めて神の憐れみの御手から受け取ったのです。
主によって生かされたヨナに再び御言葉が臨みました。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」(3:1)。今度は直ちに主の命令どおりにニネベに向かいました。そして、悪に満ちた都に主の裁きが臨まんとしていることを告げ知らせたのです。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と。すると、ヨナの宣教を通して、ニネベの都に悔い改めが起こったのです。身分の上下にかかわらず、王に至るまで、悔い改めて主の赦しを求めたのでした。すると主はどうされたか。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧いなり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(3:10)と書かれています。以上が、3章までのあらすじです。
ニネベに行くことを拒んだわけ
そこでヨナが怒ったというのが、今日お読みした箇所です。ヨナは自分の宣教が実を結んだというのに、いったい何が不満なのでしょう。なぜ怒っているのでしょう。そこで、なぜヨナが怒ったかに触れる前に、そもそもヨナがなぜ当初ニネベに行くことを拒んだかを考えてみましょう。
ニネベは異教の都です。その都に主の裁きを告げ、悔い改めを求める説教をすることは、確かに大きな危険を伴うことは想像できます。しかし、ヨナは迫害を恐れてニネベに行くことを躊躇したのではありません。第一章を読んで分かりますとおり、彼はなかなかのサムライです。嵐の中で船乗りたちでさえ慌てふためいていた時に、泰然として船底で高いびきをかいていた男です。そして、この嵐が自分のせいで引き起こされたことを知るや、他の人々を巻き添えにしてはならないと、自ら責任をとって身を献げ、「わたしを海にほうり込め」と言いのける男です。そのような預言者がニネベに行くことを恐れて、臆病風に吹かれてタルシシュへ逃げたなどとは到底考えられませんでしょう。
実は、彼が恐れたのはニネベの人々が神の言葉を受け入れないで敵意を向けてくることではなかったのです。むしろ、彼が恐れたのは、ニネベの人々が神の言葉を受け入れてしまうことだったのです。自分の宣教が実を結んで、人々が悔い改めてしまうこと、その結果彼らが救われてしまうことを恐れたのです。宣教の成功を恐れたとは奇妙に聞こえますか。しかし、そうではないのです。
先にも申しましたように、アッシリアは当時の超大国です。その存在は周辺諸国にとりましては常に脅威でありました。もちろんイスラエルにとってもそうです。(実際、ヤロブアムが死んだ後、間もなくアッシリアの王プルが攻めてきたことが記されています。)主を信じる人々は、異邦人の手からイスラエルを守ってくださいと祈っていたことでしょう。預言者ヨナもそのことを強く願っていたに違いありません。イスラエルを守ってくださいということは、要するに主がイスラエルの味方となって、アッシリアを滅ぼしてくださいということです。悪に満ちたニネベの都が主によって滅ぼされることこそ、ヨナの願いだったのです。
ところが、よりによってそのニネベに宣教に行けと主はヨナに命じられたのです。確かに、伝えるのは裁きの預言です。「ニネベの都は滅びる」という言葉です。しかし、ヨナには分かったのです。主はニネベを滅ぼしたいとは思っていない、と。もし主が滅ぼすつもりなら、「滅ぼすぞ」なんて言わないで、黙って滅ぼすわけでしょう。滅ぼしたくないから裁きの預言を語るのです。ご存じのとおり、旧約聖書の他の箇所にも恐ろしい裁きの預言が沢山書かれていますが、これらも皆、裏返して言えば神の愛の現れなのです。実際、後の時代にエゼキエルという預言者がイスラエルに対するこんな主の言葉を伝えています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル33:11)。これが主の心です。
神様は悪に満ちたニネベの都を憐れんでおられる。それが分かったからこそ、ヨナは逃げたのです。彼らが悔い改めて救われてしまうことを恐れて逃げたのです。神の憐れみが敵に及ぶことを恐れて逃げたのです。今日読んだ箇所でヨナが言っていますでしょう。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(4:2)。
今日の説教は「恵みと憐れみの神」という題です。「恵みと憐れみの神」とは良い言葉だと思いませんか。しかし、神が「恵みと憐れみの神」であるということは、時として非常にネガティブな心情を引き起こします。実際、皆さんにとても酷い仕打ちをした人に対して、神が恵みと憐れみを示したらどうですか。「あいつは絶対に赦せない!」と思っている人に対して、神様が赦しを宣言し、救いを宣言したとしたらどうですか。ヨナのように怒り狂うということはあり得ることではありませんか。ヨナは「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(4:3)とまで言ったのです。死にたくなるほど怒っていたのです。しかし、主はヨナにこう問われたのでした。「お前は怒るが、それは正しいことか」と。
お前は怒るが、それは正しいことか
神様は「お前は間違っている」とは言われません。神様は問いかけるのです。ヨナは自分で考えなくてはならないからです。ヨナは神様に答えることなく立ち去ります。そして、都を出て東の方に座り込みます。彼はそこからニネベの都を見ています。災いを免れたニネベの都を見ています。何を期待して?もちろん災いが降ることを期待してのことでしょう。たとえ悔い改めたとしても、ニネベの都がそのままであってよいはずがない。そこに住む右も左もわきまえないような人々が災いを免れて、何事もなかったかのような顔をして、幸福に過ごしていて良いはずがない。そうです。ヨナはあくまでも彼らが災いを刈り取らなくては気が済まないのです。依然として怒りに燃えたヨナは「都に何が起こるかを見届けようと」していたのです。
神様はそんなヨナのために、とうごまの木で日陰を作ってやりました。ところが翌日になると、なんととうごまの木が虫に食い荒らされて枯れているではありませんか。日が昇り、熱い東風が容赦なく吹きつけます。昨日まで有り難い日陰を提供してくれていた可愛いとうごまの木が、無惨にも食い荒らされて枯れてしまったことに、ヨナは猛烈に腹を立てていました。主は再びヨナに問いかけます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。
「お前は怒るが、それは正しいことか。」神様の度々の問いかけに、ついにヨナは答えます。「もちろんです」と。ヨナは言いました。「怒りのあまり死にたいくらいです」。すると、主は言われました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)。「惜しんでいる」というのは「可哀想に思う」という言葉です。ヨナは自分で育てたのでもないとうごまの木のために心を痛めているのです。「ならば、わたしも同じだよ」と主は言われるのです。「それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずに(可哀想に思わずに)いられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(11節)。神様も心を痛められるのです。もしニネベが滅びてしまうならば。たとえそこにいるのが右も左もわきまえぬ人間であろうが。
ヨナはこの言葉をどう聞くべきなのでしょう。そこでヨナは大切なことを思い起こさなくてはならなかったのです。そのように主がニネベのためにも心を痛められる「恵みと憐れみの神」であるからこそ、ヨナもまた今なお預言者として生かされているのだ、ということを思い起こさなくてはならないのです。ヨナが滅びることに心を痛められる神様であるからこそ、ヨナは主の御前から永遠に追放されることなく、主の御前に残されているのだ、ということを。そのように「恵みと憐れみの神」によって救われた私なのだ、ということを思い起こさなくてはならないのです。
ヨナ書はこの主の言葉をもって唐突に終わります。ヨナだけでなく、読者である私たちもまた、この主の言葉の前に取り残されることになります。そこに立たされて、私たちもまた答えなくてはならないのです。「お前は怒るが、それは正しいことか」。このヨナ書の最初の読者たちは、捕囚後のイスラエルの民でした。バビロン捕囚という、魚の腹の中を経験して、ただ主の憐れみによって残された人々です。彼らはきっとこの物語を通して、自分たちを取り巻く諸国民をどう見るべきなのかということを問われたのでしょう。
そして、ただキリストの十字架のゆえに罪を赦され、神の憐れみによって集められている私たちもまた、周りの人々をどう見るかということを問われているのでしょう。主が望んでいるのは、主の憐れみにあずかった者たちが、主の憐れみを共有することなのです。そして、どんな人であっても主の憐れみのもとにある人として見ることを学ばねばならないのです。そうです。そのように主に愛されている人として見なくてはならないのは、あなたの最も身近な人であるかもしれません。