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「恐れるな」

2008年7月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 43章1節~7節

 今日の聖書箇所には「恐れるな」という言葉が二回出てきます。「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(1節)。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(5節)。私たちが信じている神様は、「恐れるな」と言われる神様です。私たちがどのような日常の中からここにやって来て、どのような思いをもってここに座っているのか、主はご存じなのでしょう。その主からの言葉を私たちは聞いているのです。主は「恐れるな」と言ってくださる。しかし、それはどのような意味においてなのでしょう。

目の見えない人よ、よく見よ

 そこで私たちは主がなぜ「恐れるな」と言っておられるのか、少し遡って見ておきたいと思います。42章18節以下を御覧ください。そこにはこう書かれています。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」(42:18‐20)。

 ここで「わたしの僕」「主の僕」と言われているのはイスラエルの民のことです。時代は紀元前六世紀です。そこで預言者の言葉を聞いていたのは、バビロニア軍によって祖国を滅ぼされ、エルサレムの都を破壊され、神殿を焼き払われ、バビロンに捕らえ移されて捕囚となっていたイスラエルの民です。深い悲しみを味わっていた人々です。捕囚と言いましても、奴隷にされていたわけではありません。住む場所が与えられ、家を建て、家庭を営むことが許されていた。普通の生活はできたのです。しかし、彼らの内には深い闇がありました。彼らがしばしば耳にした言葉が詩編に出てきます。「お前の神はどこにいる」という言葉です。イスラエルの民を嘲って戦勝国の人々が言うのです。「お前の神はどこにいる」。そのような異国の支配が何十年と続いたのです。そう言われれば、「私たちの神はどこにいる」と思わざるを得ないでしょう。「なにゆえ私たちは異国の民に支配されたままなのだ。主はどこにおられるのだ。いたとしても、主は目が見えないのではないか。主は耳が聞こえないのではないか。」そのような嘆きの声があがります。

 しかし、主は預言者を通して、そのような人々に言われたのです。「目の見えないのはどちらだ。耳が聞こえていないのはどちらだ。お前たちの方ではないか」と。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」とはそういうことです。人々の嘆きを聞きながら、実は主が嘆いておられるのです。「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」と主が嘆いておられるのです。

 いったい彼らは何を見なくてはならないのでしょう。何が見えていないのでしょう。聞こえていないのでしょう。預言者はこう言うのです。「あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(42:23‐24)。そうです、今こそ見なくてはならないのです。聞かなくてはならないのです。この惨めな捕囚という現実の背後に神様がおられるということをです。だからこそ、ただ嘆いているだけではなくて、自らの罪を認めなくてはならない。そういうことです。「わたしたちは罪を犯した。わたしたちは聞き従おうとしなかった」と。

わたしはあなたを贖う

 そこから43章に入るのです。そのように預言者を通して語られて、自らの罪を認めざるを得ない、まさに悔いし砕かれた魂に対して、主はこう言われるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。

 「贖う」とは「買い戻す」ということです。借金などの理由で奴隷になった者が自由になるには、その親族が代価を払って彼を買い戻さなくてはなりませんでした。「贖う」とはそういうことです。贖うのは解放するためです。主は彼らに捕囚からの解放を告げたのです。しかし、本当に喜ばしいことは、解放されること自体ではありません。それよりももっと大きなことが語られているのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのものだ」と。これこそまさに福音です。神に対して罪を犯した者に対して、神に聞き従おうとはしなかった者に対して、それでもなお神は「あなたはわたしのものだ」と言われるのです。

 しかも主は3節でこう言っておられるのです。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」どういうことでしょう。ここで大国エジプトをはじめクシュやセバまで《贖いのための代金》とすると言っておられる。それは要するに「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払うよ」ということです。神に背いた者たちに対して、どうしてそこまでなさるのか。罪に汚れた者ならば、どうして捨て去ってしまわないのか。――主は言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。

 主はかつて御自分に背いたイスラエルに対してこう語られました。しかし、そのような主の心はただイスラエルに対してのみ向けられたものではありませんでした。そうです、主の目に高価で貴いのは、イスラエルの民だけではないのです。イエスという御方がこの地上に現れた時、神はこの世に対して、「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払うよ」と言われたのです。そう言って神は独り子をさえ惜しまずに十字架にかけられたのです。神に背いたこの世のためにです。私たちのためにです。私たちを御自分のものとするために、独り子の命を支払われたのです。「あなたに背いてきた私のために、あなたはどうしてそこまでなさるのか。」あなたがそう問うならば、主は同じようにこう答えられるでしょう。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。

 そのように私たちを貴い存在として見て、贖ってくださる方が「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」今日もキリストの十字架のもとに集められた悔いし砕かれた魂に、主はそう語りかけておられます。これが第一の「恐れるな」です。

わたしはあなたと共にいる

 そして、主はもう一度「恐れるな」と言われます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(5節)と。主は2節でもこう言っておられます。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節)。

 「あなたを贖う。あなたはわたしのものだ」と言われる主は、共に歩んでくださる神様です。「あなたはわたしのものだから水の中を通るようなことはない。火の中を歩くようなことはない」とは言われないのです。そうではなくて、たとえ水の中を通ったとしても、火の中を歩くようなことがあったとしても、わたしはあなたと共にいる、と言われるのです。

 時代はバビロニアの支配からペルシャの支配へと移り変わって行きました。そして、ペルシャの王キュロスにより、捕囚の民はエルサレムに帰還し都を再建することを許可されたのです。確かに解放の時が来たのです。もし主によって贖われたことを信じるなら、罪が赦されたことを信じるなら、今こそ一歩を踏み出し、主と共に歩み出す時なのでしょう。背いてきた者であるにもかかわらず「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と語られていることを本気で信じるなら、主に贖われた者として、主のものとして歩み出すべき時なのでしょう。

 主と共に歩むということは冒険でもあります。水の中を通ることになるかもしれません。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の中を通されたように。あるいは火の中を歩くような、厳しい現実が待っているかもしれません。実際、バビロンを出て廃墟となっているエルサレムへと向かうならば、その先に多くの困難が待ち受けていることは火を見るより明らかです。しかし、主はそのただ中において共におられると言われるのです。主が共におられるならば大丈夫なのです。恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われる。大事なことは一つだけです。「わたしはあなたと共にいる」と言われる主に従うことなのです。離れることなく、信頼してどこまでも従っていくことなのです。

 「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」かつて主は捕囚の民にそう語りかけられ、主と共に歩む新たな一歩へと導かれました。そして、同じ言葉が、イエス様を信じる私たちにも与えられております。私たちを贖うために十字架にかかられたイエス・キリストは、復活して後、こう言われたではありませんか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。そうです。私たちもまた、この御方と共に歩んでいくのです。恐れることなく、この御方を信じて、どこまでも従っていくのです。

 
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