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「愛とはあえて損をすること」

2008年7月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 13章5節~18節

あえて損をしたアブラム

 今日の第一朗読では創世記13章をお読みしました。ここには裕福な人々が出てきます。ひとりはアブラハム。この時点ではまだ「アブラム」という名前です。2節には「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」と書かれています。もうひとりはロト。アブラムの甥です。「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた」(5節)と書かれています。

 富や長寿は旧約聖書においてしばしば神の祝福として語られています。ですから、アブラムは神によって祝福された。ロトも神によって祝福されたと言うことができます。しかし、私たちは知っています。富は必ずしも常に人に幸いをもたらすとは限らない。その意味では、富が本当の意味でその人にとって祝福となるかどうかは、受け取る側の問題でもあると言えます。そこでその人自身が問われるのです。貧しさや窮乏が試練となることはもちろんあります。しかし、人が何かを与えられた時、豊かにされた時、それはさらに大きな試練でもあると言えるのです。そこでその人が本当の意味で試されるからです。

 アブラムもロトも豊かになりました。しかし、その結果困った事態が起こりました。「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」(6‐7節)。財産と言えば主に家畜です。家畜を飼う半遊牧民にとって、牧草と水の確保は死活問題です。しかも、そこにはもともとカナン人もペリジ人も住んでいた。そのような土地に寄留しながら、牧草と水を確保するのです。ですから、そのような争いはしばしば血で血を洗う壮絶な戦いとなります。この場面でもそのようなことは十分に起こり得ました。アブラハムの一族が勝つのか。それともロトの一族が勝つのか。いずれにしても、骨肉の争いほど不幸なことはありません。確かに彼らは財産を得ました。しかし、それは彼らにとって呪いともなり得たのです。

 しかし、この事態をアブラムの提案が救いました。「アブラムはロトに言った。『わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう』」(8‐9節)。アブラムはロトよりも年長者であるにもかかわらず、先にロトに選ばせました。これは古代の社会においては、現代の私たちが考える以上に大きな譲歩であったに違いありません。アブラムはあえて損をする道を選びました。そして、彼らの争いは終結したのです。

 さて、これは大変分かりやすい話です。実際にこのようなことは私たちの身近にもあると思いませんか。私たちがあえて労苦を引き受ける、あえて侮辱に甘んじる、そのように私たちが少しでもあえて損をする決断ができたなら解決する問題はいくらでもあるだろうと思うのです。今回の説教題は「愛とはあえて損をすること」としました。私たちがこの世界の中に平和を作りだそうとする時、まず私たちが愛する者とならねばならない。そして、その愛とは「あえて損をする」という選択であると言われれば、なるほどと思います。

 しかし、もしそれだけならば、何も聖書の中から話さなくてもよいでしょう。童話を題材に似たようなことを申し上げることはできるだろうと思います。神様が登場する話である必要はありません。また、何も教会で語られる必要もないのです。この話が聖書に書かれており、教会でこの話が語られているのは、これが単なる教訓話ではないからなのです。これはあくまでも信仰の話なのです。「愛とはあえて損をすること」という題にしても、これはそんなに単純ではないのです。これを信仰の事柄として理解しなくてはならないのです。

アブラムと共に旅をしていたロト

 そこで私たちはしばしアブラムからロトに目を移すことにしましょう。聖書がロトをどのように描いているか。5節では先ほど読みましたように「アブラムと共に旅をしていたロト」と表現されています。12章4節ではこう書かれています。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」。「共に行った」。誰とですか。アブラムと共に、です。主の言葉を聞いて、主の約束を信じて、主に信頼し従って行くアブラム。そのアブラムにくっついているだけのロト。そのような構図です。

 アブラムの旅において特徴的なのは、繰り返し用いられている「祭壇を築いた」という言葉です。今日お読みした18節にも出てきました。そこに表現されているのは自ら主に向かい、主を信頼し、主を礼拝して生きている姿です。一方、ロトについては一回も「祭壇を築いた」とは語られていません。自ら主に向かい、主に信頼し主に従い、主を礼拝して生きている人がいます。そして、その一方で、自ら主に向こうとはしないで、主を信じて生きている人間の方しか見ていない人もいる。要するにそういうことです。

 そのロトが選択を求められた。アブラムという人間しか見ていなかったロトは、大事な選択を迫られた時にどこを見るか。この世のことにしか目が行きません。「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」(10節)。ロトにはその土地の豊かさしか見えないのです。そちらを選んだ方が得だということしか目に入らないのです。この世に満ちている「お得な情報」にしか目が行かないのです。

 しかし、本当は見なくてはならないことがあるのでしょう。「主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので」と書かれているではありませんか。13節には「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と書かれている。どんなに豊かであっても、主がそこに厳しい目を向けておられるのです。主の忌み嫌われることがそこで行われているのです。そのことに目が向かない。なぜですか。そもそも主のことなど考えていないのだから無理もありません。だから豊かさしか見えない。人が何を見ているかによって、その人の行動は決まってきます。彼にはソドムの豊かさしか見えなかった。だから「彼はソドムまで天幕を移した」(12節)のです。

 ちなみに、そのロトはどうなるかご存じですか。この直後の14章で、ソドムの町は略奪に遭うのです。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた」(14:11‐12)。この時は、アブラムによってかろうじて救出されるのです。それは自分の歩みを省みるチャンスだったのでしょう。しかし、なんとその後もロトはソドムに住み続けるのです。ソドムが滅ぼされるまで住み続ける。ソドムが滅びた時に、彼は妻と全財産を失うことになるのです。祭壇を築くこともなく、主を思うこともなく、ただお得な情報にしか目が向かなかったロトは、結局のところ何も得をしなかったということです。

さあ、目を上げなさい

 一方アブラムは「あえて損をする」という選択をしたわけですが、14節でこんなことが書かれています。「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい』」(14節)。「さあ、目を上げなさい!」。そう主に言われて、目を上げたアブラム。それまで目を落としてうつむいていたのでしょう。その気持ち、分かるじゃありませんか。確かに争いを終結させるためには、あえて自分が損をするような提案をしなくてはならなかった。しかし、実際に先に選ばせてみたら、ロトは何の遠慮もなく豊かな方を取っていったのです。しかも、感謝もせずに!悔しいじゃないですか。

 さて、「愛とはあえて損をすること」という話がさほど単純じゃないのは、そのあたりなのです。愛が争いを終結させるなら、あえて損な選択もいたしましょう。それだけならばよいのです。しかし、実際にはどうですか。自分がどれだけ損をしたか、しっかりとカウントしているのです。「わたしが損をしてやった」「わたしが譲歩してやった」という思いがいつまでも内にふつふつと残っているのです。それでも相手が感謝の言葉一つでもかけてくれたり、あるいは周りの人が「あなたは偉いわねえ」などと言ってくれたら、損をしたという思いも埋め合わされてプラマイゼロになるかもしれません。しかし、そうなるとは限らないのです。相手が感謝もせず良いところを全部持って行き、他の人からはむしろ馬鹿にされたりしたならば、それこそ「こんなにしてやったのに!」という怒りと憎しみが湧き上がってくるかもしれません。そのように、「あえて損をしたのに愛からほど遠い」ということも起こってくるのです。

 そうです。私たちはそのような人間なのだということを神様はよく分かっておられるのです。アブラムだって例外じゃない。だから主が自ら「さあ、目を上げなさい」と言われたのです。そして、主は言われた。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」(15‐17節)。そうです。アブラムは少しも損などしていないのです。限りなく豊かな天の父と共にいるのですから。その御方を礼拝し、信頼し、従って生きているのですから。アブラムはそのような限りなく豊かな約束のもとにあることを神様はアブラムに再び思い起こさせてくださったのです。だからそこからアブラムは生き始めます。決して肥沃ではないヘブロンに天幕を張って、そこに住んだ。そして、そこにいつものように祭壇を築いたのです。

 「愛とはあえて損をすることです」。確かにそうなのでしょう。しかし、そのような愛に生きるためには、もっともっと神の豊かさを知ることが必要なのでしょう。イエス様はそのような愛に生き、仕える者として生きるようにと弟子たちをこの世界に送り出す前に、神が御子をさえ惜しまずに与えられた方であることを示されたのです。そうです、私たち自身がまずそのような神に向かい、祭壇を築く必要があるのです。

 
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