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「私たちは負けません」

2008年7月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1節~5節

神から生まれた者

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。本日の第2朗読で読まれたヨハネの手紙に、そのように書かれていました。イエスがメシア、すなわちキリストであると信じているならば、あなたは既に神から生まれた者なのだ、と語られているのです。

 私たちは、イエスをメシア=キリストと信じて集まっています。私たちが教会であるとはそういうことです。イエスをメシアと信じないならば、私たちはもはやキリストの教会ではありません。私たちは今日も「我らは、我らの主イエス・キリストを信ず」と信仰を言い表しました。私たちは確かに、イエス・キリスト、すなわちキリストであるイエスを信じているのです。

 ならば、私たちは明確な自己認識を持たなくてはなりません。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」私たちは単に「教会に行っている人」ではありません。私たちは単に「ある特定の教えを受け入れた人」ではありません。私たちは単に「ある特定の組織に属する人」ではありません。今日の御言葉によるならば、私たちは「神から生まれた者」なのです。

 イエス・キリストを信じる信仰を持つということは、単なる心理的な変化ではありません。イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということ、それは単なる入会の儀式ではありません。それは一つの出来事です。人がこの世に誕生するということが、ある一つの決定的な出来事であるように、キリストを信じる者となるということ、それは人間がこの世に誕生すること以上の大きな一つの出来事なのです。

 「神から生まれた者」であるということは、神が親であるということです。神が本当の親であるということです。私たちがこの世に生まれてきた時のことを考えてみてください。私たちは、それぞれ自分の親の子供として生まれてきました。ある特定の親との親子関係の中に生まれてきました。それが第一の誕生です。しかし、私たちにはもう一つの誕生があります。神との親子関係の中に生まれる誕生です。私たちはそのように誕生して、今、こうしているのです。イエス様がこの地上において「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼びかけることができます。「天にまします我らの父よ」と祈ります。私たちは神を「天地の造り主」として礼拝するだけでなく、「全能の父」として礼拝しています。そのように私たちは、神から生まれた者として生きるようになったのです。神から生まれてそうなったのです。それは霊的な出来事です。

 繰り返します。信仰は単なる心理的な変化ではありません。それは私たちがこの地上に誕生したことよりも大きな出来事です。そのような出来事こそが聖書の語っている「わたしたちの信仰」なのです。

 そして、これが「生まれる」と表現されていることを心に留めなくてはなりません。この世における親子の関係は、私たちが自分の力で獲得したものではありません。一方的に与えられたものです。私たちは何もできない赤ん坊として生まれてきたのです。そのようにして親子の関係が与えられたのです。もし私たちが王の子として生まれたとしたら、何もできないうちから既に王子です。頑張って王子らしくなったら、王子にしてもらえるのではありません。それがある親から「生まれる」ということです。同じように、神から「生まれる」のです。神の子らしくなったから、神の子にしてもらえるのではありません。人間の側の努力によるのではありません。「生まれる」ことについては全くの受け身です。それは神の恵みによるのです。一方的な恵みなのです。人はただ信じてその恵みを受るだけなのです。

兄弟を愛する

 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただきました。ならば、そのような私たちにおいて最も大事なことは何でしょう。まことの親である神を愛することです。しかし、父である神様を愛するということは、ただ単に「神様、大好き」ということではありません。皆さん、「好きである」ことは必ずしも「愛する」ことではありません。それは世の中に「ストーカー」なるものが存在することからも分かりますでしょう。どんなに大好きであっても、相手を自分の思い通りにしたいという欲求しかなければ、ストーカーのようなものにもなるのです。それは明らかに愛ではありませんでしょう。

 本当に愛するならば、相手が何を大切にしているかを知って、自分もそれを大切にしたいと願うはずです。相手が何を望んでいるのかを知りたいと願うはずです。そして、相手が望んでいることを実現したいと願うはずです。愛においては「相手」が中心です。神を愛するということについても同じことが言えるでしょう。それを聖書はこう表現しています。「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(3節)。「掟を守る」という表現はたいへんにいかめしい感じがしますが、要するに「お父さんが願っていることを行う」ということです。

 そのお父さんの願いの中心には何があるのでしょう。実は、今日お読みした箇所の直前にはこう書かれているのです。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。これは父を愛する子供としては、当然心に留めるべきことです。今日お読みした1節の後半にも次のように書かれているとおりです。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。これは一般的な話です。この世においても、もし親を愛するなら親から生まれた自分の兄弟を愛する、ということは言えます。それが本来の姿であるはずです。そのように一般的に言えることから明らかなこととして2節にこう言われているのです。「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(2節)。

 神を愛する。それゆえに、神から生まれた神の子供たちをも愛する。この順番と筋道は大事です。まず父なる神を愛する。「わたしたち」が先に来るのではないのです。「わたしたちはお互いに愛し合いましょう」から始めてもうまくいかないのです。「仲違いすることは良くないことです。愛し合うべきです」というところから始めてもうまくいかないのです。私たちがお互いのことしか見ていないなら、愛し合って生きることは困難なのです。私たちがどんなに「一つになりましょう」と言っていても、父親に無頓着な子供たちが集まっているならば一つになれるはずがありません。

 お父さんのことを考える子供たちになりましょう。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることをもっと意識しましょう。そうすれば、他の人も「神から生まれた者」であることが見えてきます。神が愛してやまない神の子であることが見えてくる。父にとって大切この上ない父の子であることが見えてくる。「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」と。

世に打ち勝つ勝利

 さて、ここで「世に打ち勝つ」という言葉を聞きます時に、私たちは一つの場面を思い起こすことができるでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の場面です。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」と言われたイエス様。その「世」とは何ですか。その「世」とはまさにイエス様を捕らえ、よってたかって十字架にかけようとしている「世」です。イエス様を憎み、十字架の上で血祭りに上げようとしてる「世」です。そのようなことを実現してしまう「世」です。そのように、愛よりも憎しみの方が勝っているように見える「世」です。命よりも死の方が勝っているように見える「世」です。神様よりも悪魔の方が勝っているように見える「世」です。この世とは、まさにそのような「世」ではないですか。そのような「世」に、イエス様を信じる者も生きていくのです。信仰を持つということは世捨て人になることではありません。そのような「世」に生きる時、弟子たちには苦難があることをイエス様はご存じだったのです。だから言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

 自分がまさに捕らえられて十字架にかけられようとしている時に、弟子たちを思って「勇気を出しなさい」と言われたイエス様。「わたしは既に世に勝っている」と高らかに勝利を宣言されるイエス様。そのイエス様の強さはどこから来ていましたか。イエス様の強さはどこにあったのですか。そのことについて、イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 そうです、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、最強のお兄さんがいます。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子供たちがいます。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいます。

 ならば、私たちは負けません。世に負けることはありません。世にあるいかなる苦難にも負けることはありません。いかなるものも神の子供たちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。

 
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