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「生きるとしても死ぬとしても」

2008年9月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節~30節

キリストがあがめられるように

 「あなたの人生の目的は何ですか。最終的に何を求め、何を願って生きているのですか。」もし、皆さんが誰かに面と向かって大真面目に質問したら、多分相手は戸惑うか、あるいは「オレの人生のことなんかほっとけ!」という顔をされるに違いありません。これは歓迎されない質問の代表です。もしこれが「あなたの将来の夢は何ですか」あるいは「今の目標は何ですか」という質問ならば、相手はもしかしたら喜んで答えてくれるかもしれません。しかし、「人生の目的」とか「最終的に」という話になると、そうはいかなくなるのです。なぜでしょうか。事を突き詰めて考えざるを得なくなるからです。するとどうしても避けて通れないことがある。自分の人生は必ず死を持って終わるという事実を向き合うことです。ですから大抵はその問題は保留にしたままにしてあるのです。考えないようにしているのです。

 しかし、人はやはりいつかどこかで、この問いと向き合うことになります。他の誰かから質問されなくとも、自ら自分自身に質問することになるのです。様々な苦難の中で、試練の中で、あるいは挫折の中で、いったい何を求めて生きるのかという「生の意味」を問わざるを得ないことがあるでしょう。あるいは病気や怪我や危機的状況において人が自ら死と直面するような事態において、自分は何のために生きているのかを問わざるを得なくなることもあるでしょう。いずれにせよ遅かれ早かれその時は必ず来るものです。

 さて、今日はフィリピの信徒への手紙を読みましたが、この手紙を書きましたパウロという人もまた、生と死の意味を自らに問わざるを得ない状況に置かれていたと言えます。というのも、今日の聖書箇所に書かれていましたように、パウロはこの時、獄中にいたからです。この手紙を読みますと、パウロがはっきりと死を覚悟していることが分かります。実際、彼が処刑されるということがあり得たのでしょう。彼はそのように生と死との間に立たされていたのです。しかもパウロが獄中にいる間に、パウロに反対する人たちが一生懸命に動きまわり、パウロの働きの実りを破壊するようなことをしていました。今まで行ってきたことが無に帰するかもしれないとするならば、どうしたって人は自らの人生の意味を問わざるを得ないでしょう。

 しかし、そのようなところに身を置いていたパウロだったのですが、実はパウロは既に明確な答えを持っていたのです。いや、既にその答えをもってここまで生きてきた、と言った方が正確かもしれません。彼は今さら自らに問うまでもなかったのです。パウロの持っていた答えとは何でしょうか。20節に次のように記されています。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)。

 彼は何を願い求めて生きてきたのか。生きるにしても死ぬにしても、願い求めていた一事とは何であったのか。彼の人生の目的はどこにあったのか。「キリストがあがめられるように!」。そう彼は言うのです。「あがめられる」と訳されている言葉は、もともと「大きくされる」ということを意味する言葉です。彼はキリストが大きく大きくされることを求めていたのです。

 その言葉を用いて言うならば、一般的に人は「自分自身が大きくされること」を求めて生きている、と言えるでしょう。自分の心の中で自分が大きくなること。そして、人々の心の中で自分が大きくなること、大きい位置を占めること。そのことをひたすら求めて生きているのでしょう。善いことを行う時でさえ、往々にしてそうなのです。自分が大きくされることを求めている。その事実は、逆に自分のしていることが全く誰からも評価されないとき、認められないときに明らかになるでしょう。その時なお自分のしていることを確信をもって続けることが出来るでしょうか。馬鹿にされ、あるいは軽んじられる時、人々の心の中で自分が決して大きい位置を占めていないと分かった時、人は同じことを続けることができるでしょうか。できないものです。そのように、人は自分が大きくされることを求めて生きているのです。

 しかし、片や自分が大きくされることを願いつつ、もう一方において、人は自分の小ささと向き合わざるを得ないという現実があります。人生の途上において人は自分の弱さと幾度も向き合うことになります。さらには自分の人生が死をもって終わることを認めざるを得ない時、私たちは自分の小ささ、また儚さを思わずにはいられません。まさに聖書に書いてある通り、確かに人間は土から取られたものであり、地の塵に帰るのです。神がアダムにこう言われたとおりです。「お前は顔に汗してパンを得る、土に返るときまで。塵に過ぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)。その現実を前にするならば、自分自身をひたすら大きくする人生は最終的には意味を失ってしまいます。いや、「最終的に」などと言わずとも、人が一歩一歩死に近づいていくに従って、人生の終わりに近づくに従って、確実にかつ加速度的に意味を失っていくのです。

 ところが、人生の終わりに差しかかってなお、人生の意味を見失っていない男がここにいるのです。パウロはそこでなお「生きるにしても、死ぬにしても」と語っているのです。そこでなお何を求めて生きるべきかを知っているのです。「キリストがあがめられるように!」本当にあがめられるべき御方を知っている。本当に大きくされるべき御方を知っている。自分以外に、本当に大きくされるべき御方を知っているから、自分が小さくなっていくこと、終わりに近づいていくこと、それは全く問題にならなかったのです。最後まで願いをもって生きられる。彼は最後まで目的をもって生きることができたのは、そういうわけです。

これまでのように今も

 そこで私たちが今日どうしても心に留めなくてはならない言葉は、「これまでのように今も」という言葉です。パウロはこれまで、各地を駆けめぐって御言葉を宣べ伝えて来ました。人々を救いに導き、教会を建て上げ、牧会者を指導し、見える形において人々に仕えてきたのです。いわば、目に見える様々な働きによって人々の役に立ってきたのです。それがパウロの「これまで」でした。しかし、「今」は違うのです。パウロは捕らえられて牢獄にいるのです。今までにように各地を駆け巡ることはできないのです。いやそれどころか、獄中におけるパウロの必要を満たすために、様々な形で諸教会の兄弟姉妹が仕えていたのです。物質的にも人々からの支援を受けなければ生きていけなかったのです。そのような「今」です。あと何を成し遂げられるだろうか、などと考える余地もない「今」なのです。

 考えてみますなら、私たちの一生にも、そのような「これまで」と「今」があるのでしょう。激しく動き、働くことの出来るときもあれば、何かに束縛されて動きようのない時があります。明らかに人々の役に立っていて賞賛されている時もあれば、見える形では何も人々に貢献できないような時もあります。人々の重荷を一心に担える時もあれば、人々の重荷になってしまう時もあります。支えられなくてはならない時があるのです。しかし、パウロはそのような「これまで」だけでなく、「今」も「わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」と切に願っているのです。生きることによってのみならず「死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」と願っているのです。

 そこで大きな意味を持つのは、「わたしの身によって」という言葉です。彼は「わたしの働きによって」とは書いていないのです。私たちの「働き」は「身」という言葉が現している事柄のごく一部でしかないのです。働きがすべてであると考えている人は不幸です。なぜなら、働きがすべてであると考えている限り、「これまでのように今も」とは言えないからです。

 皆さん、キリストがあがめられることを求める人生において、最後に意味を持つのはその人の「働き」ではないのです。その人にとってキリストがどれほど大きな存在であるか、ということなのです。その人にとって、キリストが成し遂げてくださったことがどれほど大きいことなのか。キリストの十字架がどれほど大きなことであるのか。そういうことです。その人自身がキリストをあがめていないのに、その人の身によってキリストがあがめられるようになることはあり得ない。その人にとってキリストがちっぽけな存在でしかなかったら、その人の身を通してキリストが大きな存在として現されることはあり得ないのです。その人にとって、他の何かがキリストよりもずっと大事であるならば、その人の身によってキリストが本当に大事な存在であることが現されるはずはありません。パウロにとって、キリストは全てだったのです。わたしにとって、生きるとはキリストである、とパウロが21節で言っているとおりです。

 人は自ら動いて為しえることによってキリストの栄光を現すことができます。しかし、捕らえられている時にもキリストの栄光を現すことができるのです。動くことの出来ない病床においてキリストの栄光を現すことができます。健康な体をもってキリストの栄光を現すことも出来れば、様々な障害の中でキリストの栄光を現すことも出来るのです。若さの中でキリストの栄光を現すことができると同じように、老いの中でキリストの栄光を現すことが出来るのです。その人にとってキリストが大きな存在であるならば、です。「わたしにとって、生きるとはキリストである」と言うほどに、キリストが大きな存在であるならば、その人は死によってさえキリストの栄光を現すことができる。実際その死に際して、キリストの大きさを現し、キリストを人の心の中に深く刻みつけて世を去った人々は決して少なくはないのです。そうです、パウロを初めとして、そのような人々によってキリストは伝えられてきたのです。

 「わたしにとって、生きるとはキリスト」とパウロは言いました。さて、私たち自身にとってそれは真実でしょうか。それとも「わたしにとって、生きるとは《わたくし》」でしょうか。もし「わたしにとって、生きるとは《わたくし》」であるならば、その先に「死ぬことは利益なのです」という言葉はやはり続かない。「わたしにとって、生きるとは《わたくし》」であるならば、死ぬことは絶対に損失でしかないからです。その一生は損失へと向かう旅路にしかなりません。しかし、「わたしにとって、生きるとはキリスト」であるならば、死は損失ではなくて利益となります。なぜなら、そのようにあがめてきたキリスト、慕い求めてきたキリストと永遠に共にあることになるからです。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節)。そう言ってパウロが熱望していたように。

 「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」この言葉の前に私たちもまたパウロのように「わたしにとって」と書き加えることが出来るようになるために、私たちは主のもとに導かれたのです。キリストの十字架によって、私たちの罪が赦され、新しく生きる者とされたのは、そのためです。今、獄中のパウロのように、様々な制約のもとにおかれている人があるでしょうか。自分の小ささ、儚さを思っている人があるでしょうか。キリストに思いを向けましょう。キリストをもっともっと知るものとならせていただきましょう。私たちにとってキリストが大きな大きな存在となることを求めていきましょう。そして、この身によって、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、キリストがあがめられることを求めて生きようではありませんか。

 
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