「永遠の贖い」
2008年10月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 9章11節~15節
聖書を初めから終わりまで通して読んだことのある方はどれくらいいますでしょうか。もちろんここには既に何度も読んでいるという方もおられることでしょう。しかし、その一方で、試みてみたものの途中で挫折してしまった、という方も少なからずおられるのではありませんか。だいたい最初に挫折する箇所というのは決まっているものです。創世記から読み始めるわけですが、創世記で挫折する人はあまりいません。出エジプト記までは行くのです。半ばぐらいまでは順調に進みます。しかし、20章に差しかかりますと律法の話になってきます。諸々の規定が続きます。このあたりから辛くなってくる。そして、ついに幕屋の作り方に入ります。幕屋というのは礼拝の場所です。その幕屋の作り方に関する細かい指示が延々と書かれているのです。そして、さらに祭司についての規定が続きます。祭司が着るものや祭司が行う儀式について書かれているのです。挫折するとするならば、たいていはこのあたりです。いったいこれを読むことに何の意味があるのか、と思ってしまいます。皆さん、そんな経験はありませんか。
神と人とを隔てる垂れ幕
しかし、今日お読みしました聖書箇所には、イエス様による救いの話が書かれているのですが、なんとそこに幕屋と儀式の話が出て来るのです。イエス・キリストという御方を理解するために、やはり旧約聖書を読んでいるということは大事なことのようです。今日、家に帰りましたら、ぜひ出エジプト記25章以下を読んでみてください。今日はその幕屋と祭儀に関わる話です。
礼拝の場所の作り方とそこにおける祭儀については、モーセの律法に定められた細かい規定がありました。自分たちの好きなように作ってはならなかったのです。また自分たちの好きなような仕方で主を礼拝してはならなかったのです。今日は出エジプト記を読むことはしませんが、今日お読みしました箇所の少し前には幕屋がどのように作られていたかが簡単に書かれていますので、そこを見ておきましょう。9章1節からお読みします。
「さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません」(1‐5節)。
「第一の幕屋」と「至聖所と呼ばれる幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が二つに仕切られているのです。入り口の垂れ幕とは別に「第二の垂れ幕」が中程にあります。それによって中が仕切られているのです。その手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、第二の垂れ幕の向こうは「至聖所」と呼ばれておりました。至聖所には契約の箱が置かれています。その中には十戒が記された石版などが入っていました。そして、その蓋が「償いの座」もしくは「贖いの座」と呼ばれていたのです。
この「贖いの座」については、出エジプト記において次のように語られています。「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25:21‐22)。つまり一番奥の至聖所にある「贖いの座」こそ、神の臨在するところであり、人間が神とお会いする場所として定められていたのです。
しかし、その神の臨在の場、贖いの座がある至聖所には、通常、人々が立ち入ることはできません。礼拝を司る祭司たちでさえ入ることができません。先ほどお読みしましたヘブライ人への手紙9章5節までお読みしましたが、その先はこのように続いているのです。6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。
祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の至聖所には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が至聖所に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。大祭司はその血を携えて至聖所に入ります。自分と民の罪の贖いをするために、贖いの血を携えていくのです。そうです。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式をきちんと行い、血を携えて至聖所に入るのです。
しかし、逆に言えば、そのように定め通りに罪の贖いがなされたとしても、祭司たちでさえ「第一の幕屋」までしか入れないということなのです。ましてや祭司以外の人々は入れない。つまり本当の意味で神の御前には出られないのです。神の臨在の前に立つことはできない。人々の前には常に隔ての幕があるのです。
このように、いわば神と人との間には隔ての幕がある。この旧約の時代の幕屋の構造はいったい何を意味していたのでしょうか。実は、これは幕屋ではなく神殿が建設されてからも、この構造は変わりませんでした。ソロモンが建てた神殿においても、後に再建された神殿においても、至聖所の前には隔ての幕が厳然として存在していたのです。神と人々の間には隔ての幕があったのです。それはいったい何を意味していたのでしょうか。
礼拝と良心
この幕屋の構造は、「今という時の比喩」(9節)であると書かれています。それは何かの喩えなのです。何かを意味しているのです。実は、その「何か」とは良心の問題なのです。続いてこう書かれているとおりです。「すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです」(9節)。
さて、礼拝のことが語られているところに、どうして良心の話が出て来るのでしょうか。「礼拝」と「良心」とは関係があるのでしょうか。皆さん、どう思われますか。これは実は逆に考えてみると分かり易いのです。良心とは全く関係のない礼拝というものを考えてみてください。極端な例を挙げます。ある人が自堕落な生活をしていたとします。明らかに悪いことを行っていたとします。その人が神を礼拝するために聖所に行きます。彼は何の良心の痛みをも覚えずに、神を讃美し、神に祈って帰っていきました。その人が神を礼拝することは、彼の良心とは何の関係もありませんでした。――さて、その人は本当に神を礼拝していたのでしょうか。彼は本当に神様の御前にいたのでしょうか。どう考えても、それはまことの神の御前にある礼拝ではないでしょう。
今日は詩編51編を交読しました。その詩編はどのような言葉から始まっていましたか。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(詩編51:3‐4)。これがまことの神の前に出ようとしている人の姿です。単なる宗教的な儀式ではなく、人が生けるまことの神を求める時、人間の良心は赦しと憐れみを求めて叫ぶのです。人間は心の深いところにおいて、神の前にはすべてが明らかであることを知っているからです。神に赦していただくことなくして、どうして神の御前に出ることができるでしょう。
ですから礼拝の場である幕屋においては、動物が屠られ、罪の贖いの儀式が繰り返し行われたのです。しかし、この旧約の祭儀では、良心の求めが完全に満たされることはなかったのです。至聖所の前の隔ての幕が象徴しているように、どんなに動物の血が流されても、贖いの儀式がなされても、良心は満足しないのです。まだ神との間に幕が掛かったままなのです。近づくことができないのです。それが人々の良心に関わる経験だったのです。その意味で、旧約の時代の祭司制度も動物犠牲による祭儀も、不完全なものでしかなかった。幕屋の構造は、そのことを明らかに示していたのです。
しかし、その不完全なるものの終わりの時がついに来たのです。ヘブライ人への手紙は、大きな喜びをもってそのことを語っているのです。不完全な旧約の時代の大祭司ではない、真の大祭司が来られた、と。そして、不完全な罪の贖いの儀式ではない、永遠の贖いが成し遂げられたのだ、と。11節以下を御覧ください。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11‐12節)。
その意味では、旧約の時代に幕屋や神殿において繰り返されてきた動物犠牲による罪の贖いの儀式は、いわば「予告編」に過ぎなかったと言えるでしょう。祭司たちによって繰り返された儀式によって幾度となく予告されていた、「ただ一度」にして永遠なる祭儀が、ついに執り行われたのです。それは完全な贖いです。それはもう二度と繰り返される必要のない永遠の贖いなのです。
そして、このキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのだと語られています。既に神と人とを隔てる幕は裂かれて落とされました。だから私たちは安心して、まっすぐに神様に向かうことができます。罪を罪として認め、罪に対して痛む正しい良心、清められた良心を求めながら、なおも神に向かうことができる。罪に対して痛む良心は真に神の御前に立つことをもはや決して妨げることはないのです。既に完全な贖いがなされたから。十字架のもとには完全な赦しがあるから。
それはつまり、もはや私たちは自分の良心をねじ曲げて罪を罪でないと言い張ったり、悪い自分を誤魔化して正当化したりする必要はないということでもあります。罪を罪であると感じないように一生懸命に良心を麻痺させる必要もない。良心と無関係な偶像礼拝を求める必要もない。良心の咎めを覚える必要のない神ならぬ代替物を求める必要もない。キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めます。そのようにして人は真の礼拝へと導かれていきます。このキリストの血によって、確かに神との真実な交わりへと導かれ、生ける神を礼拝して生きることができるのです。