「だから、恐れるな」
2008年10月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章26節~33節
覆われているもので現されないものはない
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。そう主は言われます。これは当時の格言のようなものです。しかし、イエス様はこの格言を引用して、「隠されたスキャンダルもいつかは暴かれるものだ」ということを言っておられるのではありません。救いの話です。メシアが来られたということです。ナザレのイエスこそ人々が待ち望んでいた救い主であるということです。救い主が来られたということは、救いがこの世界に到来したということです。神の全き愛が到来したということです。
しかし、イエス様の言葉によるならば、それはまだ覆われているのです。ですから、まだ目に見えないのです。実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きています。多くの不条理を背負いながら生きているのです。
そのことについては、信仰者であるかないかは関係ありません。信仰者も他の人々と同じように、この世の苦しみと痛みを共有しながら生きています。実際に初期の教会は、私たちの置かれている状況よりも、もっともっと厳しかったと言えます。今日は26節からお読みしましたが、このイエス様の話は、迫害の話に続いているのです。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」ということが書かれています。このイエス様の言葉が残っているということは、実際にそのようになったということでしょう。信仰を持って生きるということは、決して苦しみを免れることを意味しなかったのです。
そのように目に見えるところだけを見ているならば、この世はいまだに救われていない世界であり、信仰者もまたこの世の苦しみを免れてはいない。しかし、イエス様は言われるのです。「覆われているもので現されないものはない」と。
太陽が厚い雲に隠れてしまって全く見えなくなったとしても、太陽が存在しないわけではありません。見えないだけ。ならば時が来れば見えるようになる。同じように、神の救いは既に到来しているのです。義の太陽は昇ったのです。メシアは来られたのです。キリストはこの世の罪の贖いを既に成し遂げられたのです。それゆえに、この世界はもはや有罪を宣告され死刑を宣告された世界ではありません。この世界は十字架が立てられた世界であり、罪の赦しを宣言された世界であり、神と和解させられた世界であり、既に神の救いの中にある世界なのです。神はこの世とそこに生きる私たちを愛しておられる。そうです、それが事実です。
しかし、私たちは既に朝が来て太陽が昇っているのに、窓を閉め切って分厚い遮光カーテンを閉めたままの家の中にいるような状態にあります。私たちは真っ暗闇の中にいます。既に昇った太陽も燦々と降り注ぐ陽の光も見えない。だから多くの人は、永遠に真っ暗であるような思いを抱いている。恐れているのです。しかし、見えていないだけであり覆われているだけならば、完全に現れる時が来るのです。「覆われているもので現されないものはない」。
今日の第二朗読ではヨハネの黙示録を読みました。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(3‐4節)。神さまが目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる世界はまだ見えません。しかし、それはいわば覆われているに過ぎないのであって、覆われているならば、現れる時が来るのです。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。「覆われているもので現されないものはない」。
主の語りかけを聞きながら
それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神さまの救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、主の御言葉によって歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる主の言葉によって生きるのです。いわば私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。
今日お読みした聖書の箇所には、「わたしが暗闇であなたがたに言うこと」(27節)と書かれています。そうです、主は暗闇の中で語りかけてくださる。この「暗闇であなたがたに言うこと」という表現は、特に迫害の中にあった教会にとっては、とてもリアルに響いたに違いありません。というのも、彼らはしばしば集まっていることが知られないように、戸を閉じ、鍵をかけて、光が漏れないように暗い中で礼拝をしていたからです。ある時には、それこそ光の入らない地下墓地に集まっていたのです。まさに暗闇の中で、主は確かに語りかけていてくださった。同じように、主は今日も私たちに語りかけてくださいます。
そしてさらに「耳打ちされたこと」と語られています。主は耳打ちしてくださる。旧約聖書にこんな話があります。かつて預言者エリヤが王妃イゼベルを恐れて逃げた時がありました。そのエリヤは神の山ホレブへと導かれ、そこで主の御声を聞きます。その時のことが実に印象的な表現をもってこう描かれています。「主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王上19:11‐12)。そのように、主は今も静かにささやく声をもって語りかけてくださる。今、こうして集まっている時にも、主はあなたに耳打ちしていのではありませんか。心の奥底において、あなたしか聞こえない声をもって、語りかけていてくださるのではありませんか。
その主の静かにささやく御声は覆いの向こうを私たちに語ってくださるのです。目に見えない事実を語ってくださるのです。目には希望となるものが映らない時に、既に与えられている希望を語ってくださる。既に太陽が昇っていることを語ってくださるのです。あなたは既に救いの中にある。あなたは既に義とされている。あなたは既に神の子である。あなたは完全な父なる神の愛の中にある。まだそれが現れていないだけで、覆われているだけで、既にあなたは救われているのだ、と。
そうです、私たちが福音を聴いているとは、そういうことなのです。そして、主の御言葉を聞いて信仰によって生きる時、私たちは既に陽の光の中にあるように生きることができるのです。皆さん、たとえ真っ暗な部屋にいたとしても、既に午前9時を回っていると知ったならどうでしょう。もはや闇夜を恐れるように恐れることはないでしょう。ちょうどそれと同じです。暗闇であっても信仰によって午前9時を生きることができる。それが御言葉を聞いて、信仰によって生きるということです。
救いの言葉を告げ知らせよ
そして、私たちに語りかけられ、主によって耳打ちされている言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めを受け、私たちの心の中に留めるために与えられているのではないのです。主は言われます。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と。
私たちは、既に救いの中にあることを告げられた者として、この世に出て行くのです。そして神の救いを語るのです。既に、神の完全な愛の中にあることを知った者として語るのです。既に神の完全な愛の中にあること、生きても死んでも神の完全な愛の中にあることを知った者として語るのです。ですから、本当は何も恐れる必要はないのです。誰も恐れる必要はないのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)とイエス様が言われるとおりです。
実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。キリストを宣べ伝えることをやめませんでした。なぜですか。生きても死んでも、神の救いの中にあり、完全な愛の中にあることを知っていたからです。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることはせいぜい体を殺すことまでです。神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。そのことについては、パウロもこう言っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。この確信に立つとき、パウロもまた恐れる必要がなかったのです。
逆に言うならば、恐れないでこの世において信仰を公にし、キリストを証しし、救いを宣べ伝えて生きるために必要なのは、勇敢であることとか強い人になることではないのです。そうです。恐れを克服するために必要なのは精神的な強さではないのです。そうではなくて、聞くべきことを聞き、覆いの向こう側にちゃんと目を注いでいることなのです。目に見えるものにではなく、見えないものに目を注いでいることなのです。既に父に愛されている者として、生きても死んでも父の全き愛の内にあり、全き配慮の内にあることを信じることなのです。
主はこう言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(29‐30節)。雀が地に落ちたとするならば、神さまが雀に無関心だから地に落ちたわけではない。二羽で一アサリオン(約600円)の雀でさえ、完全な神のご配慮のもとに地に落ちるのです。ましてや人間である私たちなら、なおさらのことです。私たちがたとえ地に落ちたとしても、最終的に覆いを取り除いて完全な救いを見せてくださる天の父の完全なご配慮のもとに地に落ちるのです。なぜなら神は私たちに無関心ではないから。イエス様の言葉によるならば、私たちの髪の毛までも一本残らず数えられているほどだから。それゆえに主は言われます。「だから、恐れるな」と。恐れることなく、主の言葉を携えて、ここから一週間の生活の場へと遣わされてまいりましょう。