「悪人にも善人にも太陽を昇らせる天の父」
2008年11月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章38節~48節
悪人に手向かってはならない
今日の福音書朗読には、耳慣れた言葉が出て来ました。「目には目を、歯には歯を」。しばしば、「やられたら、やり返せ」というスローガンとして用いられます。しかし、本来はそのような意味ではありません。これは同害報復法と呼ばれまして、いわば報復や刑罰の程度を規定するものです。例えば、レビ記24章にはこのような言葉が出て来ます。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ24:19‐20)。損害を受けますと何倍にもして返したくなるものですから、そのような無制限な報復に歯止めをかける意味もあったのでしょう。歯を折られたからといって、命まで奪ってはならないのです。
そのように旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」と書かれているのですが、イエス様は「しかし、わたしは言っておく」と言いまして、さらにこう続けるのです。「悪人に手向かってはならない」と。ここで主が語っておられるのは、相手が害を加えてくる場合、しかも、それが明らかに「悪」である場合についてです。ちなみに「悪人に手向かってはならない」は、「悪に手向かってはならない」とも訳せます。しかし、前後関係からここは「悪人」としておくのが正しいでしょう。そのような相手に対してどうするのか、という話です。
第一に語られているのは、右の頬を打つ人についてです。あくまでも「悪人」ということですから、相手が正当な理由をもって頬を打つ場合ではありません。こちらが悪くて殴られたということではありません。相手が不当にも殴ってきた時です。さらに言うならば、右利きの人が殴る場合、通常は右の頬は打ちませんでしょう。これは手の甲で打つ場合です。それはユダヤ人の世界では侮辱の表現でした。こちらが弱いことを知っている相手が侮辱を込めて殴った場合。痛みに耐えるよりも、侮辱に耐える方が難しいものです。しかし、イエス様はその侮辱をあえて受け入れて、反対側の頬も向けよと言われるのです。
次の「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(40節)はどうでしょう。これは裁判の場面です。これも相手が「悪人」ということですから、明らかに前提となっているのは不当な訴えです。例えば権力によって曲げられた裁判によって不当にも何かが奪われる場合です。そのように力ある者によって不当に何かが奪われようとする時に、こちらも何らかの力を行使して戦うのではなくて、むしろ上乗せして与えてしまいなさい、と主は言われるのです。
第三に挙げられているのは不当な強制です。恐らくここで念頭に置かれているのはローマの占領軍による強制です。ローマ人はいつでもユダヤ人に道案内や荷物運びを強要することができたのです。(キレネ人シモンが無理矢理に十字架を担がされたようにです。)異邦人による強要はユダヤ人にとって極めて屈辱的なことであったに違いありません。しかし、ここでも主はその屈辱に何らかの形で報復するのではなく、むしろ「二ミリオン一緒に行ってやったらいいじゃないか」と主は言われるのです。
第四の「求める者」や「借りようとする者」も、「悪人」ということですから、ただ困っていて借りに来る人の話ではありません。悪意をもってだまし取ろうとしたり、借りても返す意志がなく、踏み倒そうとしているような人でしょう。そのような人に背を向けるな、と主は言われるのです。
弟子たちへの教え
さて、このようなイエス様の言葉を耳にしますと、すぐに始まりますのは、「このような教えが実社会に適用できるのか。このような教えによって社会の秩序は成り立つのか」という議論です。そしてまた、私たちはそのような議論の中に逃げ込みたくなるものです。しかし、私たちは間違ってはなりません。イエス様はこの世界に対して一般的な教えを述べているのではありません。イエス様は弟子たちに語りかけているのです。イエス様に従い、神を天の父として仰いで生きようとしている弟子たちに語りかけているのです。しかも、一般的な話ではなくて、あえて「《あなた》の右の頬を打つなら」とか「《あなた》を訴えて下着を取ろうとする者には」と言っているのです。これを聞いている《あなたは》どうするのか、ということです。
実際この後の時代、弟子たちは、教会は、個々のキリスト者は、本当に「どうすべきか」を問われることになったのです。なぜなら、そこにはユダヤ人たちからの迫害があり、さらにはローマの国家権力による迫害があったのですから。その時に、当然のことながら、「報復すべきだ」「戦うべきだ」「我々も武器を取るべきだ」という考えが起こっても不思議ではないでしょう。しかし、彼らは繰り返しこの主の御言葉を思い起こしたのです。それは復活されたキリストが、繰り返しこの御言葉を語りなおされたということでもあるでしょう。「悪人に手向かってはならない」と。
これは先にも申しましたように、「悪に手向かってはならない」ということではありません。否、本当の意味で悪に立ち向かうために、悪に打ち勝つために、悪人に手向かわないのです。力を行使すること、報復することを放棄するのです。そうです、ここで求められているのは、本当の意味で打ち勝つことなのです。実際そうではありませんか。報復できたら、本当に悪に勝ったことになるのか。ならないのです。報復は報復の連鎖を生み出すことになるでしょう。連鎖が目に見える形で残らなくても、そこには憎しみが残るでしょう。それで本当に悪に勝ったことになるのか。悪魔に勝ったことになるのか。ならないのです。
パウロは後にこう言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)と。悪に対する本当の勝利は、悪人そのものを勝ち取った時です。そもそもそれが神の戦い方でした。神さまが人間を勝ち取る戦い方でした。神は人間を裁いて滅ぼすことによって勝利を得ようとは思われなかった。そうではなくて神が望まれた勝利は、人間が悔い改めて、神を愛するようになることだったのです。それゆえにキリストは苦難を受けられた。キリストは人間の手によって十字架にかかられたのです。神はそれを良しとされたのです。相手を叩きのめすことは力があれば力をもってできることです。しかし、相手の悪に打ち勝って相手の心を勝ち取るのは、力の行使によってはできないのです。
この御言葉との関連で思い起こされるのは、マルチン・ルーサー・キング牧師によって導かれたアメリカの公民権運動でしょう。1967年に行われた南部キリスト教指導者会議での演説でキング牧師はこう語りました。「確かに暴力によって、あなたは殺人者を殺すことができるかもしれない。しかし殺人行為そのものを殺すことはできない。暴力によって嘘つきを殺すことができるかもしれない。しかしあなたは真理を確立することはできない。また暴力によってあなたを憎悪する者を殺すことができるかもしれない。しかしあなたは暴力によって憎悪そのものを殺すことはできないのだ。暗闇は暗闇を消すことができない。それができるのは光だけだ」。私たちは、あまりにもしばしば、暗闇で暗闇を消そうとしている、同じ悪によって悪を消そうとしていることが多いのです。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ
さらに主は、「報復するな」というところに留まらず、愛することを求められました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。この言葉を聞いても、やはり私たちの内に起こる自然な反応は、「それは無理だ」「それは理想ではあっても現実的ではない」ということでしょう。さらには「それは偽善的だ」と言う人もあるかもしれません。というのも、多くの人は「愛は自発的ものだ」と考えているからです。自然に溢れてくるものが愛だと思っている人は、他の誰かから「愛しなさい」と命じられて愛するのは、何か純粋なものではない偽善的な愛である、と感じるのでしょう。
しかし、イエス様は「敵を好きになりなさい」と言っているのではないのです。聖書が語る愛とは、自然に起こってくる感情などではありません。先の場合と同じように、ここでも問題となっているのは、私たちが「どうするのか」ということです。すなわち私たちの決断です。そして、決断に基づく行為です。イエス様は、具体的にどうしなさいと言っておられますか。「祈りなさい」と言っておられるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。
主がそのように命じる根拠は、私たちと神との関係です。先ほども触れましたように、この言葉は世の中の人一般に語られているのではありません。弟子たちに語られているのです。イエス様に従い、神を天の父と呼んでいる人に対して語られているのです。ですから、イエス様はこう続けます。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。
「あなたがたの天の父の子となるため」。そうイエス様は言われました。「あなたがたの天の父」と言っておられるように、まず神が「わたしたちの天の父」となってくださいました。私たちは、神を「わたしたちの天の父」と呼ぶことができる。そのように祈りなさいとも言われました。「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさい、と。そのように、神を天の父と呼べるということは、決して当たり前のことではありません。神が私たちの天の父となってくださったのは、私たちが相応しいからではありません。私たちは到底、神の子どもたちと呼ばれるに相応しからぬ者であるに違いないのです。そのような私たちが神を天の父と呼べるとするならば、それは父が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という御方だからです。
そのような神が、そのような神だからこそ、正しくない私たちのためにも、雨を降らせるどころか、御子をさえ降されて、御子をさえ十字架にかけて罪を贖ってくださったのです。そのようにして、私たちの罪を赦して私たちの天の父となってくださったのです。そのように私たちの天の父となってくださったから、私たちもまた父の子となっていくのです。それはすなわち、天の父がしてくださったように、私たちも父と同じようにすることです。その具体的な現れが、例えば「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということなのです。
そして最終的に、主はこう言われるのです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。神の完全さとは抽象的な話ではありません。キリストを通して私たちに明らかにされた神の完全さとは、神の愛の完全さです。そして、その完全な愛の御方を、私たちは父と呼べるのです。その愛の父は、私たちが復讐心でいっぱいになったまま生きることを望まれないのです。憎しみでいっぱいのまま生きることを望まれないのです。悪に負けたまま生きることを望まれない。むしろ、子供たちが善をもって悪に打ち勝っていきることを望んでおられるのです。私たちはこの父なる神の愛の意図に目を向けなくてはなりません。父が完全な愛をもって、私たちが完全に救われて、完全な者となることを願っておられます。ならば私たちもまたその父の完全な愛を信じて、完全へと向かって生きていくのです。