「救い主は飼い葉桶の中に」
2008年12月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~7節
奇妙な不統一感
イエス・キリストの誕生の物語を読みますと、奇妙な不統一感を覚えます。一方において、そこには非日常的な不思議な出来事が当然のことのように出て来ます。例えば、天使ガブリエルが突然現れてマリアに神のお告げを伝える。野宿をしていた羊飼いに天使が現れてメシアの誕生を伝える。さらには天の大軍が現れて、神の讃美する。そのように、一見すると単なるおとぎ話に過ぎないとも見える話が出て来るのです。
しかしそうかと思えば、もう一方において、例えば今日読まれた聖書箇所にはアウグストゥスという尊称を与えられた皇帝が出て来ます。ローマ帝国の初代の皇帝。オクタヴィアヌスという名であったその皇帝は歴史の教書にも出て来ます。いや皇帝だけでなく、その時のシリア州の総督の名前まで記されています。しかも、ここで話題になっている住民登録は何回か行われた内の最初のものであったことが特定されています。そのような書き方は3章の冒頭にも出て来る。ルカが歴史的な背景を明確にすることにかなりこだわっていることが分かります。要するに彼が伝えようとしているのは、ある年号と日付を持ったこの世の出来事なのです。それはある時代の「住民登録」という極めて現実的な話であって、当時のユダヤの民衆の生活がそれによって左右されたという実に生々しい話が記されているのです。このようなことは、どう考えても先ほどの天使が出て来る話とは馴染まないでしょう。なんともちぐはぐな感じがいたします。
しかし、実はこの不統一感こそ、福音書を読む時に、さらには聖書を読む時に大事なことなのです。一方において、聖書は確かに「不思議なこと」を語っています。聖書は単に人間が人間に対して何かを行う人間の物語を伝えようとしているのではありません。聖書は神様のことを伝えているのです。神様が関わっているのですから、そこでは不思議なことも起こります。天使だって現れる。人間が予想もしないような、思い描くこともできないようなことも起こる。特に、福音書は救い主の到来を伝えているのであって、後にも先にも一回限り、決定的な神の御業、神の介入について語っているのですから、ある意味では、天使の一人や二人現れたって当然であるとも言えるでしょう。
しかし、その一方において、聖書は「現実のこと」を語っているのだということを強調しているのです。この現実の世界のこと。ある日付をもった現実の出来事。それはすなわち、ここにいる私たちの生々しい現実の生活と直接に関係しているということです。確かにここで誕生が伝えられているイエスという御方は、私たちと同じ地面の上を歩かれたのであり、また彼が殺された時、その十字架はこの同じ地面の上に立てられていたのです。それはポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったある限られた期間の間に起こったことです。そのように、あくまでも場所と日付をもった私たちのこの世界、日常の世界に関係することを聖書は語っているのです。今日の箇所もまたそうなのです。
現実の物語
ではそこに何が語られているのでしょう。今日の福音書朗読において、まず私たちは次のような言葉を聞きました。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(1‐2節)。
この世界に一つの動きがありました。アウグストゥスが勅令を出した。住民登録の勅令。この住民登録には、大きく二つの目的があったようです。一つは被占領民族からも確実に人頭税を徴収するため、もう一つは兵役に使える人間の数を調べるためでした。要するに、この人口調査と住民登録は、ユダヤ人のような被占領民族を完全にローマ帝国の体制の中に組み込むために行われたのです。それはユダヤ人である一労働者のヨセフの意志とは無関係に決定されたことでした。そして、ヨセフはその決定に従わねばなりません。彼はそれまでの仕事を中断し、旅に出なくてはなりませんでした。
ベツレヘムへ向かう旅。三日ぐらいかかります。ただ仕事を中断するというだけならば、ある程度は仕方ないで済むかもしれません。しかし、彼の場合はそうではなかった。間もなく臨月を迎えるいいなづけがいたのです。彼女も一緒に旅をしなくてはなりませんでした。長旅は明らかに過酷です。にもかかわらず、皇帝の勅令には従わなくてはならない。深刻な事態が予想されたとしてもです。3節以下にこう書かれているとおりです。「 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」(3‐5節)。
このようなことは確かにこの世の生活において起こります。私たちにも覚えがあります。私たちの生活はここに書かれているように実に不確かな基盤の上に成り立っているのでしょう。勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。それが私たちの生活です。今日において勅令は皇帝が出すわけではありません。ある人にとっては株価の変動が、まさに皇帝の勅令のようなものとして生活を直撃することでしょう。またある場合には企業の体制再編によって、またある場合には突然の天変地異によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。この世界には私たちの意志とは関係なく風が吹く。すると木の葉は風に吹かれて飛ばされます。紛れもなくそれが私たちの生活の現実です。
さらに6節以下にはこう書かれています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6‐7節)。
ここにも私たちの姿が見えてきませんか。ヨセフはマリアを愛していたに違いない。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することをいったい誰が望むでしょう。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。しかし、ヨセフにはできなかったのです。ここにはさらりと書かれていますが、本当は相当に悲惨なことが語られているのです。何一つ必要なものが揃っていないところで、まるで馬や牛のように子供を産み落とさなくてはならなかったのですから。そこには聖画のように美しい顔で幼子を見つめているマリアがいたはずがありません。かろうじて子供の安全を確保してぐったりとしているマリアがそこにいただろうと思います。ヨセフがそんなマリアの姿を望んでいたはずはないでしょう。しかし、どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。本当に必要な助けを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただひたすら見守るしかない。そのようなことが確かに私たちの人生にはあるのです。
マリアにしても同じでしょう。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かしたいと思いますか。本当は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。しかし、そうすることができない。親の悲しみがそこにあります。マリアの姿は他人事ではありません。いつの時代の親であっても同じです。今日の私たちもまた、未来の子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会しか残してあげられない。そんな私たちの姿がマリアの姿と重なりませんか。
そしてさらに言うならば、そこには本来いるべき場所を失ってしまった、本来いるはずのところから疎外された人間の姿を見ることができるでしょう。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)。そう書かれています。そもそも彼らは人間が泊まるはずでないところに泊まっているのです。
いるべきところから追いやられて、いるべきでないところにいる。そんな人間の姿を聖書はその初めから語っています。エデンの園の物語です。神との平和。人との平和。自然との平和。それがすべて実現していたエデンの園を失ってしまった人間の物語。それはまさに私たちの物語でしょう。神の愛が信じられず、人間同士も信じられず、憎み合い、殺し合っている姿は、人間の本来の姿ではないと聖書は語っているのです。本来いるべきところにいない。本来いるはずの、神との平和、人との平和、自然との平和の中にいないのです。そこから追いやられて、憎しみと怒りの悪臭がプンプンただよっている中に生き、そんな中に自分の子供をも産み落としている。それが人間の現実でしょう。
救い主は飼い葉桶の中に
しかし、私たちはそんな人間の現実だけを見て、望みを失う必要はないのです。そのことを今日の箇所は語っているのです。今日読まれた福音書には、そんなヨセフやマリアだけが出て来るのではないのです。そこには幼子もいるのです。その幼子は、天使ガブリエルがマリアに現れて既にその誕生が告げられていた幼子です。「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(1:35)と伝えられていた幼子です。その幼子はまた、この後に御使いが羊飼いたちに現れて、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げることになる幼子です。
そのような、まさに神の御業によって誕生した幼子が、悪臭漂う家畜小屋の中にいるのです。人間の悲しい現実を象徴しているような、家畜小屋の中にいるのです。飼い葉桶に寝かされている幼子がいるのです。すなわち、私たちがヨセフとマリアの姿に見てきた人間の現実のただ中に、神の救いが始まっているということです。神様の救いの御手はそこにまで届いているのです。風が吹けば飛んでしまう葉っぱのような不確かさの中に、愛する者をさえ助けることのできない、愛する子供たちさえ助けることのできない私たちの無力さの中に、そして神との平和、人との平和、自然との平和を失ってしまい、憎しみと怒りの悪臭立ちこめる私たちの生活の中に、神様の救いの御業が始まっているのです。そうです。私たちが、ここに、あの幼子イエスのもとに、そして十字架にかかられたイエス様のもとに集まっているとはそういうことです。私たちが週毎に集まり礼拝を捧げる生活が始まっているとは、そういうことなのです。神の御手は私たちの現実の中にあるのです。
最初に申し上げたように、これは単なる人間の物語ではありません。ルカが伝えようとしているのは神様の話なのです。この世界を愛し、この世に生きる私たちに関わってくださる神様の救いの物語なのです。私たちもまた、この世のただ中にあって、救い主と共にあることができる。そして、私たちの人生もまた神の救いの物語として見ることができるのです。