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「神は私たちと共におられる」

2008年12月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章18節~23節

本当のクリスマスを祝うため

 本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそう言っていました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに不安に満ちた社会に私たちは生きています。ここに集まっている私たち自身の生活を振り返っても、不安要素を数えれば切りがないくらいあるのでしょう。お互い様々な問題をかかえたまま、年を越していく。確かにここに集まっているのはそのような私たちです。しかし、私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。それは悪魔の望むところであるとブルンナーは言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことにより、悪魔を喜ばせてはならないのです。

 しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを悪魔は奪おうとはしません。かえって悪魔には都合のよいものだからです。

 私たちはここに、ただクリスマス気分に一時酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。今日は特にそのようなクリスマスの喜びに目を向け、そのような喜びをもって本当の意味でクリスマスを祝い、そしてその喜びを抱きかかえるようにして、ここからまた歩み出したいと思うのです。

罪からの救い

 そこで今日はマタイによる福音書の1章18節以下が読まれました。新共同訳では「イエス・キリストの誕生」と小見出しが着いています。18節にはこう書かれています。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、その受胎の不思議さを強調してイエスがメシアであることを証明しようという意図はまったく感じられません。実に淡々と書いています。むしろ不思議なことは別にあります。この物語の中で、アンバランスを感じさせるほどに、名前とその意味が強調されていることです。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。

 そこでこのクリスマスの礼拝において私たちも注目したいのはその名前です。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

 「イエス」という名前。それはユダヤの世界ではごくありふれた名前です。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。しかし、ここで重要なのはその意味です。「ヨシュア」という名前は「主は救い」という意味なのです。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。ここで聖書は特別なことを語ります。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。

 「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使わないでしょう。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。「火事から救う」も分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的ではないので説明が必要です。

 例えば、皆さんが教会の帰りに下北沢南口のマクドナルドの前で小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこでA姉妹は、その男の子にハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、「バイバイ」と言って駅の中に入っていきました。

 次にB兄弟が通りかかりました。優しいB兄弟は思いました。「ひとりでずっとここにいたんだ。寂しかったに違いない。」そこでB兄弟はその子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでB兄弟は少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。

 そこにC姉妹が通りかかりました。C姉妹はその子と一緒にお母さんを捜して歩いて、ついにお母さんのもとにその子を連れていきました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。その男の子を本当に助けたのは誰ですか。最後のC姉妹です。迷子が親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事。寂しさを癒されることも大事。でも、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。

 「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しくて、というのも無理はない。この世が不安に満ちているのも無理はないと言えるでしょう。しかし、そんな迷子のような私たちを神さまは憐れんでくださった。そんな私たちを本当の親である神のもとに帰らせるために、イエス様は来てくださったのです。神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子供として生きることができるように、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。

 ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。イエス様が来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、神に愛されている子供として「神が共におられる」と言うことができるなら、既にその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。

苦しみを引き受けた人々

 しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、マリアとヨセフです。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。マリアが受胎告知を受ける場面は、ルカによる福音書に記されています。ページェントでもお馴染みの場面です。天使が現れてまずこう告げるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。そして、恐るべきことを告げたのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1:30‐31)。これが先ほどお読みした「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」ということの内容です。現実的に考えれば、全くおめでたい話ではないでしょう。いったいどこの誰が「聖霊によって身ごもった」なんていう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは火を見るより明らかです。

 一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じていなかったことは、「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれど他の人は信じないでしょうから。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみをも恥をも担っていくことを意味したのです。そうです、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神のなさっていることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。

 私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのようなヨセフやマリアが出て来るのです。ヨセフやマリアは、神の救いの御計画に参与した人々の、いわば代表です。イエス・キリストは罪からの救い主として来てくださいました。しかし、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なようです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまで多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたからでしょう。

 私たちはクリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにしてここから出て行く。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。

 
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