「エデンの園の物語」 2008年4月13日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 創世記 3章1節~12節、ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節 規律ある社会であっても「悪の世」?  今日お読みしたガラテヤの信徒への手紙には次のように書かれていました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(1:4)。  イエス様は、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださいました。私たちの罪を贖うために、御自身を献げ、十字架の上で死んでくださいました。キリストがそうしてくださったのは、「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」のことであると聖書は言います。  さて、「この悪の世」という言葉を聞きますときに、皆さんは何を思い浮かべますか。最近起こった凶悪な犯罪ですか。政治家の腐敗ですか。確かに恐るべき犯罪に満ちた社会、道徳的に退廃した社会も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロは単にそのような世界を見て、こう言っているのではないのです。  パウロはユダヤ人です。彼はユダヤ人の社会の中で育ったのです。それは決して世俗的な退廃的な社会ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、そのような環境において彼は育ったのです。パウロがこの手紙を書いているその時点においても、そのような道徳的な社会は彼の身近にあったのです。また、この手紙を受け取った人々も同じです。ガラテヤの教会において力を持っていたのは律法厳守を唱えていたユダヤ主義者でした。ガラテヤの教会には彼らの影響を受けた厳格で真面目で規律を重んじるキリスト者がたくさんいたのです。  そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して単に不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的で道徳的な規律ある社会もまた、パウロの目には「この悪の世」の一部として映っているのです。  ですから私たちは聖書が「この悪の世」と語る時、それが何を意味するのかをまず理解しなくてはなりません。そうでないと、「この悪の世からの救い」ということも分からなくなってしまいます。そこで私たちは、パウロにとって大変に馴染み深かった物語、私たちもよく知っている一つの物語に目を向けたいと思うのです。本日の第一朗読において読まれたエデンの園の物語です。 エデンの園の物語  本日は3章の一部を読みましたが、ご存じのように話は2章から始まっています。2章は人が神によって創造され、エデンの園に住まわせたという話です。そこには、人間とは本来どのような存在なのか、この世界は本来どのような世界なのか、が教えられています。  そこには人間の創造について次のように書かれています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形作った人をそこに置かれた」(創世記2:7-8)。そう書かれています。ちょうど芸術家が心を傾け時間をかけ手をかけて作品を造るように、神は人を造られた。しかも神は自らそこに命の息を吹き入れられました。私たちは神が愛情注いで自ら形作った作品として、神の息吹を生きる尊い人生を与えられているのです。人が生きるとはそういうことなのです。  さらに神が「見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木」を地に生え出でさせたと書かれています。生まれてきた子どもを愛する親が、その子が生きるに必要なすべてを用意しようと心を尽くすように、神は人が生きるに必要なすべてを備えてくださいました。そのように私たちは生きるに必要なすべてを神様の愛情に満ちた御手から受け取り、神様に感謝し、神様に愛されていることを喜び、神様を愛して生きるのです。人間が生きるとはそういうことなのです。  しかもエデンの園の物語には人間が一人だけ登場するのではなく、二人登場してくるのです。アダムのあばら骨を取って女を造られたという話です。それは女性が劣っているとか従属的な存在であるという意味ではありません。人間は互いに補い合う存在として造られているということです。共に生きてこそ人間なのです。人は互いに補い合いながら、共に神に生かされていることを喜び、共に神に感謝し、共に神を愛し、互いに愛し合って生きるのです。それが本来の人間の姿なのです。エデンの園の物語はまず、そのような本来の人間の幸いな姿、本来のこの世の姿を描き出しているのです。  ところが現実にはそうなっていないことを私たちは知っています。今日お読みした3章に描かれているのは、現実のこの世の姿です。そこに蛇が登場いたします。蛇の女に対する誘惑は悪魔の人間に対する誘惑を象徴していると言ってよいでしょう。その蛇が女を誘惑して、神が禁じた「善悪の知識の木」から実を取って食べさせ、さらにその女を通して男にも実を食べさせたという話です。  「善悪の知識の木」。神が禁じたたった一本の木。それは人にとって大きな意味を持っている木でした。その木は人に大切なことを思い起こさせてくれる木だったのです。エデンの園は人間のものではないこと。それは神の園であること。そこにある木々から食べることができるのは、神が「園のすべての木から取って食べなさい」と言ってくださったからであって、すべては神の恵みによって与えられていること。その神様が園においてどのように生きるべきか、何が善で何が悪かを定めることができる御方であること。  人間は本来そのことを忘れないでこの世に生きるべきなのでしょう。この世界を神様の世界、神の園として生き、神の園に置かれていることを感謝し、神を愛して、神に従順に生きるべきなのでしょう。そうあってこそ、2章に描かれているような本来の人間の姿を保つことができるし、本来の世界の姿を保つことができるのでしょう。  しかし、蛇は女に言いました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(5節)。そのように「お前が神のようになれ」と蛇が誘惑するのです。「お前がこの園の主人のようになれ。何も善悪を知るのは神だけである必要はない。この園でどう生きるべきかはお前が決めろ。お前が善し悪しを決める神のようになれ」。実際、それは魅力的なことではありませんか。自分で善悪を決めて自分の思い通りに生きること。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(6節)と書かれているとおりです。  女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べました。こうして神との本来の幸いな関係は壊れました。その現実を聖書は、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」(3:8)と表現しています。その結果どうなったでしょうか。人と人との関係も壊れてしまいました。神は人に問われます。「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)。人の答えはこうでした。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。そうです、人が神のようになれば、悪いのはいつでも自分以外の誰かです。彼は「この女と一緒にした神が悪い」と言い、「木から取って与えた女が悪い」と言っているのです。人が神のようになれば、人と人との本来の関係は壊れていくのです。 「この悪の世」から救い出すために  これがエデンの園の物語が描き出す「この悪の世」です。昔々の話ではありません。私たちが今、目にしている現実です。神を愛することを忘れてしまった人間の姿。もはやこの世界を神の園として尊ぶこともなくなった人間の姿。自分が神のようになって自分の思い通りにできることが最も幸いなことだと思っている人間の姿。そのように神との本来の関係が壊れてしまったゆえに、また人間同士の関係も壊れてしまい、その結果ずたずたに引き裂かれ、その痛みと苦しみのゆえに悲鳴を上げているこの世界。そのようにエデンの園の最初の描写からはほど遠いものとなってしまった世界、それを聖書は「この悪の世」と呼ぶのです。最初に触れましたように、ただこの世の不道徳や無秩序が問題なのではありません。極めて道徳的であり戒律によって秩序を保たれた宗教的な世界が、しばしば恐るべき裁き合いの世界ともなるのです。それもまた「この悪の世」の一部なのです。  そのような「この悪の世」にキリストは来てくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」  イエス様が私たちの罪のために御自身を献げ、罪の贖いとして十字架にかかってくださったのは、単に私たちを罪責感から解放するためではありません。不安や恐れから解放するためではありません。ただ私たちが心安らかになるためではありません。そうではなくて、「この悪の世」から救うためです。私たちがアダムとエバのように神の顔を避けて木の間に隠れたりしないで生きるようになるためであり、私たちがこの世界を神の世界として生きるようになるためなのです。この世界を造られた神を愛して、神に信頼して、一つ一つを神の御手から受け取って、神に愛されていることを喜んで生きるようになるためなのです。しかも、その神の恵みを自分一人ではなく、隣りにいる人と一緒に喜んで、神の恵みに共にあずかる者として互いに愛し合って生きるようになるためなのです。そのようにして、「この悪の世」から救われるためなのです。  ですからキリストを信じる私たちは、こうして集まって共に神を礼拝し、一緒に神の恵みにあずかることを大切にしているのです。そして互いに愛し合う交わりに生きようとしているのです。「この悪の世」からの救いは、そのような形において、ここに始まっているのです。もちろん「この悪の世」からの完全な救いは、来るべき世、神の国において実現するのでしょう。しかし、キリストは既に、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださいました。救いをもたらす神の霊は私たちの内に来てくださいました。既に始まっているのです。ならば私たちはひたすら求めていくべきなのでしょう。私たち自身が分裂を引き起こし、互いに裁き合って、「この悪の世」に舞い戻ってしまうようなことがあってはならないのです。まず私たち自身が、真にこの悪の世から救われることを求めていくべきです。そして、私たちが遣わされていく先々において、家族に、友人に、学校に、職場に、地域社会に、私たちが与えられている様々な交わりに、「この悪の世」からの救いがもたらされるように、ひたすら求めていきましょう。