「内なる人を強めてください」 2008年9月7日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節 内に働く御力によって  今日お読みしました聖書箇所の最後は、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)と締めくくられていました。  私たちが今、礼拝している神様は、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です。ここで「わたしたちの《内に》働く御力」と書かれていることに注意してください。「わたしたちの《外に》働く御力」とは書かれておりません。  私たちが第一に求めているのは、往々にして神の力が私たちの《外》に働くことではありませんか。神の力が働いて、物事がうまく運ぶように。神の力が働いて、自分の置かれている状況が好転するように。人間関係で悩んでいる人ならば、「神の力が働いて、周りの人々が変わるように」と願い求めることでしょう。しかしここで聖書は、「わたしたちの《内に》働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と言っているのです。神は確かに私たちが求めることをはるかに超えてかなえることがおできになる。しかし、その時に働く神の力は、第一には私たちの外にではなく、私たちの内に働くのです。第一に変わらなくてはならないのは、私たちの《外》にある何かなのではなくて、私たちの《内》が変わらなくてはならないのです。  それゆえに、今日お読みした聖書箇所に書かれているパウロの祈りもまた、《内》に関わることが祈られているのです。内に起こらなくてはならないことがあるのです。彼がこれを記したのは、ただ単に自分が祈っていることを伝えるためではありません。エフェソの信徒たちもまた自分自身で祈り求めるべきこととして書かれているのでしょう。もちろん、ここにいる私たちにとりましても、これは私たちが「まず何を求めるべきか」ということを知る上でも重要な祈りの言葉なのです。 内なる人を強めてください  まず16節以下をもう一度お読みいたします。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16-17節)。  第一の祈りは「内なる人を強めてください」という祈りです。「内なる人」とは、私たちの精神のことではありません。「内なる人を強めてください」とは、「精神的に強くしてください」という意味ではありません。「内なる人」とは、「信仰によって誕生した新しい人」のことです。  イエス・キリストを信じる時、聖霊によってその人の内に新しい自分が生まれます。父を呼び求める神の子どもとしての新しい人が生まれます。その「内なる人」は生まれたばかりの時は、いわば赤ん坊です。赤ん坊は弱いのです。ですから、外なる人、以前からの古い人の方が支配的になることがあります。「あんた、クリスチャンになっても、あまり変わらないねえ」などと言われることも起こってまいります。それは新しい人が、赤ん坊で弱いからです。しかし、父なる神は新しく生まれた「内なる人」を強めてくださいます。「その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって」強めてくださるのです。ですから私たちは、いつまでも生まれた時のままの信仰者であることを良しとしないで、内なる新しい人が強められることを真剣に祈り求めるべきなのです。  では、「内なる人が強められる」とは、具体的にどのようになることでしょうか。信仰者の成長はどこに向かっていくべきなのでしょうか。パウロは祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)。これが、内なる人が強められるということです。  先にも申しましたように、単に「精神的に強くなる」ということではありません。信仰によって生まれた新しい内なる人が強くなるということは、愛するようになる、ということです。それは単に心の中の話ではなくて、具体的な生活の話です。愛するということが付け焼き刃のようなものではなくて、あるいはお芝居の仮面のようなものではなくて、植物に喩えるならば大地にしっかりと根を張るように、愛が生活の中に根を張っていくということでしょう。あるいは建物に喩えるならば、愛が外側の飾りではなくて、土台のようになるということでしょう。「愛にしっかりと立つ」とはそういうことです。  さて、そうなりますと、聖書をお勉強して少しでも良い人になりましょう、というような次元の話ではないことはすぐに分かります。まさに神様が私たちの心を変えてくださるのでなければ成り立たない。私たちの心にキリストを住まわせてくださるのでなければ、そのような生活は成り立たないのです。そうです。だから祈り求めるのです。心にキリストを住まわせてくださる、聖霊のお働きを祈り求めるのです。神様が、その霊により、力をもって、私たちの内なる人を強め、成長させてくださることを祈り求めるのです。 キリストの愛を知るように  次に18節以下をもう一度お読みしたします。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18-19節)。  第二の祈りは、「キリストの愛を知るようになるように」という祈りです。愛する者となるということは、愛されていることを知ることと不可分の関係にあります。愛されていることが分からない人は、愛することもできないのです。ですから「愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとしてくださるように」と祈るだけでなく、「キリストの愛を知るようになるように」と祈るのです。そのキリストの愛については、「人の知識をはるかに超えるこの愛」と言われています。人の知識を超えた愛を知るというのですから、それは本来あり得ないことです。そのあり得ないことが起こるためには、神の力がそこに働かなくてはなりません。キリストの愛が分かるというのは、神の御力のみが為し得る奇跡なのです。  そもそも、目に見える人と人との間でありましても、愛を知り得ないことがあります。傲慢な人は愛を知ることができません。自分は愛されて当然であると思っている人は、本当の愛を経験することはできません。ましてや、神に対してはなおさらです。自分は神に愛され、キリストに愛されて然るべきであると思っている人は、キリストの愛を知ることはできません。  しかし、神の御力は、私たちの傲慢さを砕くのです。私たちを照らして、その罪深さを明らかにされるのです。本来、神からとうの昔に見捨てられても仕方のないような自分であることを示されるのです。また、自分が正しい人間であるかのように他人を裁く資格のまったくない者であることを知るのであります。そのように、神の力のもとで砕かれていくに従って、その本来愛されるはずのない者に向けられたキリストの愛が見えてくるようになるのです。まさに、その「広さ、長さ、高さ、深さ」を少しながらでも理解できるようになっていくのです。私たちは、そのように変えられなくてはなりません。キリストの愛、私たちの知るところを遥かに超えたキリストの愛が本当に分かるようになる。繰り返しますが、それは神の御力のみが為し得ることです。だから、私たちはひたすら祈り求めるのです。父なる神に求めたらよいのです。 神の充満によって満たされるように  最後に19節を御覧ください。パウロは、「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と祈っています。これは直訳すると、「神の充満によって満たされるように」という言葉です。神様御自身が、神の御霊が、私たちの内に満ち満ちてくださるように、ということであります。  イエス様がお話しくださった「放蕩息子のたとえ」をご存じでしょう。父のもとを離れた放蕩息子は「豚の食べるいなご豆」(ルカ15:16)で腹を満たそうとしました。同じように、今日、豚の食べるいなご豆のようなもので、自分を満たそうとしている人は少なくありません。人は、もともと、父なる神との交わりの中にあって、神御自身の霊によって満たされるようにできているのです。しかし、神から離れ、神の霊によって満たされない時、肉欲を満たす何ものかによって、物欲や名誉欲などを満たす何かによって、自らを満たそうとするのです。それは人間の本来の姿ではありません。だから苦しいのです。だから空しいのです。神は御力をもって臨み、ついには神の霊によって満たしてくださいます。私たちはそのことを真剣に祈り求めるべきなのです。  最後に20節をもう一度お読みしましょう。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」  そのように、パウロは言いました。うれしいではありませんか。「はるかに超えてかなえてくださる方」、それが私たちが礼拝し、賛美しているお方です。ここに集っておられる方々の多くは、既にこの神の力のいくばくかを経験しておられるはずです。だからここに集っているのです。私も同じです。しかし、私はもう一方において、まだ神様の御力のごくごく一部しか知り得ていないことを思います。まだ途上に過ぎません。それはうれしいことでもあります。まだまだ神に期待することができるからです。神は期待に応えてくださる御方です。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」なのですから。ですから、これからも内なる人が強められ、成長ししていくことを、祈り求め、求め続けていこうではありませんか。そして、この偉大なる方を心から誉め讃えつつ進んでいこうではありませんか。