「何があっても大丈夫」 2008年9月21日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ヨハネによる福音書11章1節~16節 あなたの愛しておられる者が病気なのです  ベタニアという村にはイエス様が大変親しくしておられた姉妹がいました。マリアとマルタという姉妹でした。この二人はルカによる福音書にも出て参ります(ルカ10:38以下)。その家においてイエス様が御言葉を語られていた様子が描かれています。ヨハネによる福音書には彼らの兄弟が登場します。名前はラザロ。彼もまた主を愛し、そして主に愛された一人でした。  ところが今日の聖書箇所に書かれているのは、そのラザロが病気になってしまったという話です。しかも命にかかわる重病でした。その知らせが使いの者によってイエス様のもとに届けられました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。この言い方ですと、明らかに前々から病弱だったということではありません。思いがけなくラザロが病気に倒れた、しかも命に関わる深刻な事態となった、ということでしょう。  それまでキリストとの豊かな交わりの中にあって喜びに溢れていた家族を病気という予期せぬ苦難が襲います。家の中は消えたように真っ暗になってしまいました。彼らの置かれているところに私たちもまた立たされたなら、きっと誰であれ「なぜ?」と問いたくなるに違いありません。なぜ兄弟が病気にならなくてはならないのか。なぜ私たちがこんな悲しい思いをしなくてはならないのか。それはキリストと親しかっただけに、キリストによって神の愛を知らされていただけに、ますます深刻な問いとなるのでしょう。なぜイエス様と親しい私たちにこんなことが起こるのか。愛されているはずの私たちにこんなことが起こるのか。    「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」  考えてみれば、「主よ、あなたの愛しておられる者が」に続く言葉は、必ずしも病気だけではないでしょう。この福音書が書かれた頃は、キリスト教会がユダヤ教の世界から完全に追い出され、非公認宗教として国家的な迫害の対象となっていった時代だと言われます。そうしますと、この福音書の読者にとっては、また別の言葉が心に響いていたかもしれません。「主よ、あなたの愛しておられる者が迫害されているのです。主よ、あなたの愛しておられる者が捕らえられてしまいました。」ここにいる皆さんの内においてもまた、違う言葉が響いているかもしれません。「主よ、あなたの愛しておられる者が経済的に困窮しているのです。」「主よ、あなたの愛しておられる者が人間関係で苦しんでいるのです」。  そうです。イエス様が愛しておられても、ラザロは病気になってしまったのです。同じように、イエス様が愛しておられても、初期の教会は迫害で苦しんだのです。それは何を意味するのでしょう。逆に言えば、病気になることは、「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないということです。苦難に遭うことは、「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないということです。5節にもはっきりとこう書かれているのです。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」  しかし、その先に書かれていることについてはどうでしょう。6節にこう書かれているのです。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」イエス様はすぐに来てくださらないのです。イエス様が到着したのは、ラザロが死んでしまってから既に四日経った時でした。ですから二日間遅れなくても、どっちみち間に合わなかったとは言えます。しかし、それでもなお気持ちとしては、「愛してくださっているなら、なぜすぐに来てくださらなかったのですか」となるではありませんか。実際、マルタもマリアも同じことを言っています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32節)。そうです。すぐに来て欲しかった。一緒にいて助けて欲しかったのです。  さきほど、病気になることは「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないと申しました。しかし、イエス様が助けてくださらなくて、結局亡くなってしまったらどうなのでしょう。あるいは先ほどの話で言えば、迫害されるだけでなく、イエス様は助けに来てくださらなくて、結局殺されてしまったという話ならどうでしょう。この福音書が読まれていた頃には、現実にそのようなことがいくらでも起こっていたに違いありません。私たちもまた似たような思いを抱くことはあるのではありませんか。長く苦しんでいて、すぐにでも助けて欲しくて、イエス様を呼び求めていたにもかかわらず、主の助けがすぐには来なかった。あるいは間に合わなかった。そのような時、「わたしは主から愛されてなどいない」と思うようなことは私たちにもあるのではありませんか。  そうです。そのような私たちだからこそ、今日お読みした聖書の言葉が必要なのです。この箇所が読まれなくてはならないのです。聖書はそれでもなお確かにこう語っているのです。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と。そうです。目に見えるところはいかにあれ、主はラザロを愛しておられた。遅いように見えたとしても、それでもなお主はラザロを愛しておられた。そして、私たちを愛しておられるのです。 この病気は死で終わるものではない  「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」。その知らせを聞いたイエス様は、ラザロについてこう言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)と。  ここで三つのことが言われています。第一に、「この病気は死で終わるものではない」。それは「死ぬほどの病気じゃない」という意味ではありません。「ラザロは死なない」とは言っておられない。後にイエス様ははっきりと「ラザロは死んだのだ」(14節)と言っています。ラザロが死んでしまうことは、イエス様には分かっておられたのです。しかし、その病気は死で終わらない。死がゴールじゃない。最終的な結論じゃない。その先があるということです。そして、第二にそれは神の栄光のためであるということ。第三に、神の子キリストがそれによって栄光を受けるということです。  実際、この物語はどのように進んでいくのでしょう。イエス様が二日間同じところに滞在された後、ベタニアへと向かいました。今日お読みした箇所の先を読んでみますと、ベタニアで起こった出来事が記されています。17節にありますように、イエス様が到着した時、ラザロは墓に葬られて既に四日が経過していました。しかし、墓に着いたイエス様は、「その石を取りのけなさい」と言われます。人々は墓穴をふさいでいる石を取りのけました。イエス様は父なる神に祈ります。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい。」すると、ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来たのでした。  確かにイエス様が言われたとおりになったと言えます。「この病気は死で終わるものではない」。そうです。死んで終わりではありませんでした。彼は生き返った。しかし、もしそれだけならば、この不思議な出来事を信じるか否かにかかわらず、いずれにしてもここにいる私たちと何の関係もない話のように思われます。というのも、頌栄教会における葬儀では通常このようなことは起こらないからです。いや私たちの教会だけでなく、この福音書が書かれた頃の迫害の時代の教会においても通常このようなことは起こらなかったに違いありません。「主よ、あなたの愛しておられる者が捕らえられてしまいました。そして殺されてしまいました。」その後、四日以上たってから生き返ったという話は、少なくとも私は目にしたことがありません。  ならばなぜ、一般的な経験とは合致しないこの出来事が、聖書に記されて伝えられてきたのでしょう。それはあくまでもこの出来事は一つのしるしだからです。この出来事そのものが大切なことを語っているメッセージだからです。その大切なこととは何でしょうか。イエス様がおられるならば、死は終わりではない、ということです。死は絶望ではない、ということです。私たちが通常助けを求めるのは、生きている間のこととして求めるのでしょう。ですから時として必死な思いで「早くしてください。遅いと間に合いませんから。とにかく早くしてください」と願うのです。そして、助けがなかなか来なくて、死んでしまったら、「ああ、だめだった」と思うのでしょう。そうです。死んでしまったら、もう終わりだと思う。それ以上望むことはないと思うものです。しかし、「そうではないのだ」と今日の御言葉は私たちに語っているのです。  ある意味で今日の聖書箇所は究極の希望を語っていると言えます。「たとえ死んでも終わりではない。たとえ死んでも大丈夫」とはそういうことでしょう。ユダヤ人の間には、三日間は死んだ人の魂が屍のまわりをただよっているという迷信があったのです。しかし、その迷信によってさえ、四日目になりますともう帰ってきません。つまり、「四日目」は完全な絶望を意味するのです。その完全な絶望でさえ、イエス様にとっては絶望ではない。それで終わらないです。主はラザロについて、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)と言いました。もちろん、イエス様が言われたのは、「死んでしまった」という意味だったのです。14節に書かれているとおりです。しかし、たとえ死んでしまったとしても、イエス様にとってはそれは「眠り」に過ぎないのです。  イエス様にとって死は眠りに過ぎない。イエス様がおられるなら死は絶望ではない。「イエス様がおられるならば、たとえ死んでも大丈夫」ということは、言い換えるならば「たとえ何があっても大丈夫」ということでしょう。  皆さん、私たちはやたらに「大丈夫」という言葉を使いますけれど、本当は「大丈夫」には二通りあるのです。例えば、病気の検査に行く時に、誰かが言います。「病気なんかじゃないよ。大丈夫だよ。」そういう類の「大丈夫」。良く使いますでしょう。「あなたが心配しているようなことは《起こらないから大丈夫》。」そして、そのような「大丈夫」を信仰に求める人もいるのでしょう。「神様を信じるならば、心配しているようなことは起こらない。だから大丈夫」と。しかし、そのような「大丈夫」にはいつまで経っても不安がつきまとうのです。そこに究極の平安などないのです。そうではありませんか。  私たちに本当に必要なのは、そんな「大丈夫」ではないのです。本当に必要なのは、「あなたが心配しているようなことが、たとえ《起こったとしても大丈夫》。何があったとしても大丈夫」という「大丈夫」なのです。私たちに必要なのは、その「大丈夫」を確信をもって言ってくださる御方なのです。そして、イエス様こそ、そのような御方なのです。「この病は死で終わるものではない」と言い切ることのできる方。死を突き抜けた希望を宣言することのできる方。そして、御自分については、十字架による死でさえも終わりではないことを知っておられた御方です。  そのイエス様に愛されているのです。病気であることは愛されていないことを意味しない。苦難があることは愛されていないことを意味しない。イエス様が遅いように見えること、私たちが待たなくてはならないことは、私たちが愛されていないことを意味するのではないのです。私たちに必要なのは、そのイエス様を信じ、その御方によって究極の「大丈夫」に生きることです。