「喜びに溢れた人々」 2008年12月28日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 2章1節~12節 溢れる喜び  今日お読みした福音書に「学者たちはその星を見て喜びに溢れた」(10節)と書かれています。その星のもとに、幼子イエスのいる家があったからでしょう。まだ家を見ただけです。お会いしていないのです。しかし、既にもう喜びに溢れている。ならばその扉を開いた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。母マリアと共にいる幼子を実際に見た時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。実際に幼子イエスを礼拝し、献げ物を献げた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。その喜びに長い旅の疲れなど吹き飛んでしまったに違いありません。国に帰るためにはまた長い旅を続けなくてはならないとしても、先行きの心配など吹き飛んでしまったに違いありません。本当の喜びとはそういうものでしょう。  そこにいるのは幼子のイエス様です。ただそこに寝ているだけのイエス様です。何をしてくれたわけではありません。奇跡をもって彼らを癒してくれたわけでもなければ、奇跡的に食べ物を増やして与えてくれたわけでもない。ただ寝ているだけのイエス様です。しかし、そのイエス様にお会いして、礼拝して、献げて、彼らはこの上ない喜びに溢れていたのです。イエス様がそこにいるだけで、もう他には何も要らないと言えるような、そんな喜びに溢れていたのです。  イエス様とお会いするということは、本当はそういうことであるに違いありません。ここに見る学者たちの喜びはまた、代々の教会が経験してきた喜びでもあったのです。たとえ迫害があったとしても、苦難の中にあったとしても、先行きが見えない不安の中にあったとしても、解決できない問題が山積みであったとしても、週の初めの日に主の食卓を囲んで集まることができる。みんなイエス様を求めて集まるのです。そして、主の聖餐に与りながら、イエス様にお会いし、イエス様の前にひれ伏し、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置くのです。もちろん、それで迫害がなくなるわけじゃありません。それで苦難がなくなるわけじゃありません。いや、むしろ集まっていればますます迫害は激しくなるのでしょう。しかし、そこには喜びがある。溢れる喜びがあるから、日々の旅路の疲れも、苦難の中で受けてきた痛みも、すべて吹き飛んでしまう。その喜びを携えて、また苦難の中の旅路に踏み出すことだってできる。力強く歩んでいくことができる。それが代々の教会の経験してきたことだったのです。  そして、代々の教会が伝えてきた、そのような礼拝の喜びが私たちにも与えられているのです。私たちの週毎の歩みは、星に導かれた学者たちと同じように、御子にお会いするための歩みです。そして、その週毎の旅を繰り返しながら、私たちは終わりの日に文字通り御子にお会いするところへと向かっているのです。私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路に他ならないのです。毎週の礼拝は、そのように最終的にイエス様にお会いする時の計り知れない喜びを前もって味わわせていただく経験に他なりません。今日は今年最後の主日ですが、来る新しい年にはそのような礼拝の喜びをますます豊かに味わわせていただきたいものです。あの学者たちの喜びを、私たちもまた追体験させていただきましょう。 遠くに及ぶ神の招き  ところで、あの喜びに与った占星術の学者たち。彼らの姿を思い巡らしていますと、大切なことが一つ一つ見えてきます。まず、彼らは「東の方から」来た占星術の学者たちであったと書かれています。もともと遠くにいた人たちです。いや、彼らはただ単に地理的に遠くにいただけではありません。彼らは「占星術の学者たち」だったと書かれています。これは「魔術師たち」とも訳される言葉です。彼らは異教の世界の占い師であり魔術師の類だったのです。ご存じのように、モーセの律法は占いやまじないの類を厳しく禁じています。ですから、ユダヤ人から見るならば、この東方の占星術師たちは、いわば最も汚れた人たちであり、救いから最も遠いと見なされるような人たちだったのです。  そのように、地理的にだけでなく、救いからも最も遠いと思われる人たちがメシアのもとに導かれ、大きな喜びに満ち溢れたのだ、ということが書かれているわけです。それはしばしば「星に導かれて」と語られるわけですが、現実には「星」が導くわけないでしょう。導いたとするならば、それは神様です。要するに、ここに書かれているのは、神様がわざわざ救いから最も遠いように見える人たちをあえて選んで、彼らを導いて、メシアに出会わせて喜びに溢れさせたという話です。これは明らかにデモンストレーションでしょう。どんなに救いから遠くにいる人であろうが、どんなに罪に汚れた人であろうが、どんなに神に逆らって生きてきた人であろうが、メシアのもとに導いて、救いを与えて、喜びに満ち溢れさせたい。そのような神様の胸の内を現すデモンストレーションに他ならないのです。  実際、神様があの時に現した御心は、後に実現していったではありませんか。イエス様が三十歳ぐらいの時に公の宣教の働きを開始した時、そこに集まってきたのは、救いから遠いと見なされ軽蔑されていた徴税人や罪人たちだったのです。後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、礼拝の場所に集まって喜びに溢れたのは、ユダヤ人たちではなくて、むしろ救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。そして、自分自身を見ても、この頌栄教会を見回してみても、その神の御心が実現して行っているわけでしょう。まさに神様の救いから遠くにいた、まことに罪深い私たちが、今ここにいるではありませんか。  これが神の招きというものです。私たちは自分についても、他の人についても、神の救いの対象外であるかのように思ってはならないのです。異邦人の占星術師でさえ喜びにあふれているのです。神は彼らを招かれました。神は彼らを喜びから閉め出しませんでした。喜びから閉め出すのは神様ではありません。私たち自身です。喜びから自らを閉め出したり、喜びから自らを遠ざけたりするのは、他ならぬ私たち自身なのです。 行動を起こそう  それからもう一つ、この占星術の学者たちの姿から見えてくる大事なこと。それは彼らが実際に旅立ったということです。このことは喜びから自らを閉め出さないために、必要なことのようです。実際、彼らが東方の地に留まっていたならば、メシアに出会うこともなかったでしょうし、喜びに溢れることもなかったでしょうから。  確かに、神は彼らを導かれました。星を用いて導かれました。彼らの持っていた占星術の知識をも用いて彼らを導かれました。そもそも東方の占星術師がユダヤ人の王として生まれるメシアに関心をもったとするならば、それはただ占星術の知識だけによるのではないでしょう。そこにはまた東方に離散していたユダヤ人たちの宗教的な影響がなくてはなりません。そのように、神様の導きというものは単純ではありません。そこには様々な要素があり、様々な形での神様の準備があり、働きかけがあるのです。単なる「星の導き」ではないのです。  しかし、そのように神様が導かれるのですが、実際に旅立つのは本人です。実際に歩いて旅をするのは本人なのです。そのことなくして、キリストとお会いし、喜びに溢れることもないのです。実際、私たちにおいても同じでしょう。ある人はクリスチャンホームで育ちました。ある人は学校の先生にクリスチャンがいて大きな影響を受けました。ある人は友人に誘われました。考えて見れば、大きなきっかけと思えるようなこと以外に、既にいくつもの神様からの働きかけがあったはずです。それらすべてが神の導きでした。でも、実際に「教会に行って見よう」と思って、いや思うだけでなく実際に靴を履いて外に出て、教会に足を運ぶことがなかったら、今、皆さんはここにはいないはずなのです。実際に求道を始めたり、洗礼を志願したり、ということがなければ、クリスチャンとして生活しているはずはないのです。  彼らは言いました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。見た星について調べることは学問的にも行うことはできるのでしょう。古代の占星術の世界にはそれなりに学問的な体系があったようですから。あるいは離散のユダヤ人たちを通してメシアについて調べることもできたでしょう。しかし、実際に出会うためには、そして礼拝するためには、立ち上がって、自分の場所を後にして旅に出なくてはならないのです。それは、安全な場所に身を置いて、外から、上からキリストについて調べるのとは、根本的に異なることです。思い切って外に出なくてはならない。冒険に出なくてはならないのです。そのような最初の一歩を踏み出さなければ、実際に出会って礼拝することは永遠にできません。行動を起こさなくてはならないのです。  実際、この箇所には全くその逆を行った人々も出て来るのです。ヘロデという王様です。あるいはエルサレムの人々です。祭司長や律法学者たちもです。実に皮肉な話です。「メシアはどこに生まれることになっているか」と質問された時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができた。知識は既にあるのです。しかもベツレヘムはせいぜい10キロぐらいしか離れていません。行こうと思えばすぐに行けるのです。占星術の学者たちがそこに行こうとしていることも知っているのです。同行しようと思えばできるのです。  しかし、彼らは一歩を踏み出さなかったのです。踏み出さなかったとは、単に場所的なことを言っているのではありません。彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界、馴染んできた自分の世界から一歩も踏み出そうとはしなかったのです。むしろ踏み出さなくても済むように、自分の生きてきた世界をなんとしても守ろうとした。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守って確保しておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。自分が変わらないで、今までどおりいられる世界に留まっていたいのです。そこから一歩も踏み出そうとしなかった。救い主はもう目と鼻の先におられるのに!  喜びに溢れたのは、実際に旅立ったあの東方の学者たちでした。実際に勇気をもって一歩を踏み出して行動を起こした彼らでした。来る2009年、私たちもまた行動を起こしましょう。今までずっと変わらないでいたところから、勇気をもって一歩を踏み出しましょう。キリストに向かって一歩を踏み出しましょう。信仰の一歩を踏み出しましょう。本当にキリストにお会いし、喜びに溢れるために、新しい一歩を踏み出しましょう。まずは週毎の礼拝です。彼らと同じように、ただひたすらキリストを求めて、キリストに見えることを求めて、主に心からの礼拝を捧げることを求めて、週毎に新しい一歩を踏み出しましょう。私たちがこれまで知らなかったような大きな喜びに、苦しみも困難も悲しみも吹き飛ばしてしまうような大きな喜びにあずからせていただこうではありませんか。