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「天から響く愛の声」

2009年1月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 3章13節~17節

正しいことをすべて行うために

 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)と主は言われました。ちなみにこれは聖書に出て来る最初のイエス様の言葉です。このように主が言われたのは、洗礼者ヨハネがバプテスマを受けにきたイエス様を思いとどまらせようとしたからです。どうして思いとどまらせようとしたか。明らかにイエス様はバプテスマを受ける必要がないと思ったからです。ヨハネが宣べ伝えていたのは、悔い改めのバプテスマでした。人々はヨハネのもとに来て罪を告白し、神の赦しを求めてバプテスマを受けたのです。ですから、罪がなければ、悔い改める必要がなければ、罪の赦しが必要なければ、バプテスマを受ける必要はないのです。イエス様は明らかにそのような御方でした。ヨハネにはそれが分かっていたのでしょう。むしろ自分こそ、イエス様からバプテスマを受けるべきだ。そのように思ったのです。だから思いとどまらせようとしたのです。

 そのようなヨハネに対する答えが、先ほどの言葉です。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。今は、このわたしにバプテスマを受けさせてほしい。今は、このようにさせてほしい。イエス様がそう言われるのは「わたしも悔い改めなくてはならないから。わたしにも罪があるのだから」という意味ではありません。そうではなく、イエス様がバプテスマを受けるのは、それが「正しいこと」だからだと言うのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。「正しいこと」とは、「義」という訳語でこの福音書に繰り返し出て来ます。神の目に「正しいこと」です。神の御心に適うことであり、言い換えるなら「神が望んでおられること」ということです。そうです、罪のないイエス様がそれでもなバプテスマを受けるのは、それが神の望んでおられることだから。そうイエス様は言われるのです。

 イエス様は、「正しいことを《すべて》行うのは」と言われました。《すべての義》を満たさなくてはならない、と。ですから、これだけではないのです。神の望んでおられる一連のことを成し遂げなくてはならない。バプテスマは最初の一つに過ぎません。神はまず、罪のない神の子が、罪ある人間の一人として、罪人と共にバプテスマの水の中に立つことを望まれた。そして、それがすべてではないこともイエス様には分かっておられたのです。罪人と一緒に水の中に立ったら、それだけでは終わらない。続きがある。その続きはこの福音書にすべて書かれています。話はどこに向かっているか、皆さんはご存じでしょう。十字架です。罪人の一人として水の中に沈まれたイエス様は、罪人の一人として死んでいくことになるのです。それが「正しいこと」、神が望まれたことです。罪のない神の子が、罪人の一人として、すべての人の罪を代わりに背負って死んでいくこと。人々の救いのために苦しみ、そして死んでいくこと。十字架への歩みは、バプテスマにおいて既に始まっているのです。だから「正しいこと、神が望んでおられることを、すべて全うしなくてはならない」と言われたのです。

天から響く声

 しかし、今日注目したいのは、そのように「正しいこと」としてバプテスマを受けたイエス様の上に起こった出来事です。こう書かれています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(16‐17節)。

 天が開いた。それはあくまでも「イエスに向かって」と書かれています。他の人にではなくイエスに向かって。イエス様御自身の体験です。また神の霊が降ってくるのを御覧になった。「御覧になった」のはもちろんイエス様です。他の人ではない。イエス様御自身の体験です。そして、声が聞こえた。これも明らかにイエス様に聞こえたということでしょう。他の人にも聞こえたら、大騒ぎになっていたでしょうから。マルコによる福音書では、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっていまして、もっとはっきりとイエス様が聞いた言葉として書かれているのです。イエス様は確かに天から響く父の声、父の愛の声を聞いたのです。「あなたはわたしの愛する子だ」と。

 そのようにイエス様は確かに父なる神から愛されていた。「あなたはわたしの愛する子。」そのように父から愛されていた子なるイエス様は、苦しみの道を歩み、これから三年ほど後に十字架にかかって死ぬことになるのです。「神の愛」と「苦しみ」。この二つは相容れないものであると、私たちはいつでも心のどこかで思っているのではありませんか。「神から愛されているならば、苦しみからは免れるはずだ」と心のどこかで思っている。ですから、苦しみに遭う時に、わたしは神から愛されていないのではないか、と思うわけです。「神の愛」と「苦難」とは相容れない。「苦難」があるならば「神の愛」はない。「神の愛」があるならば「苦難」はない。そうであるはずだ、と。しかし、「あなたはわたしの愛する子だ」と言われたイエス様は、苦しみを免れはしなかったのです。

 イエス様においては一つのことがはっきりしています。イエス様の苦しみは他者のための苦しみであった。イエス様は罪のない御方ですから、自分の罪の故に苦しむ必要はありませんでした。イエス様の人生には、自分の罪が招いた苦しみはありませんでした。イエス様が自分自身のために存在していたのなら、苦しむ必要はありませんでした。イエス様が苦しみを受けられたのは、明らかにメシアとしてこの世に来られたからです。この世の救いのために生き、そしてこの世の救いのために死なれた。イエス様の苦しみは神の救いの御計画が実現するための苦しみでありました。そのように主の苦しみは父なる神から愛されていないゆえの苦しみではありませんでした。そうではなくて、父から愛されているからこそ、天から響く愛の声を聞いているからこそ、苦難の道を歩むことができたのです。

 イエス様でさえ、父なる神の愛を必要とし、「あなたはわたしの愛する子だ」という愛の語りかけを必要としたならば、ましてや私たちはどれほど神の愛の語りかけを必要としていることでしょう。もちろん、罪のないイエス様のメシアとしての苦しみと罪ある人間である私たちの苦しみとは異なります。しかし、私たちが罪人であっても、苦しみがあるのは、神に愛されていないからではないのです。神は罪に満ちたこの世界とそこに生きている私たちを、それでもなお愛してくださったのです。神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されたのです。神はわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして御子をお遣わしになったのです。だから苦しみがあるのは、神に愛されていないからではない。神に愛されている私たちがなお苦しむのは、私たちの苦しみが自分自身の救い、またこの世界の救いとつながっているからです。私たちの人生には、神の救いの計画が進められるために、どうしても負わなくてはならない苦しみがあるのです。その苦しみを負っていくために、神の愛の語りかけを必要としているのです。

バプテスマを授けよ

 そのような私たちにとって、今日の聖書箇所は特にバプテスマについて、とても大事なことを教えていると言えるでしょう。御覧ください。イエス様が天から響く愛の声を聞いているのは、ヨルダン川においてです。イエス様が、まさに人間の一人として、罪人の列の中に並んでバプテスマを受けたという場面においてなのです。イエス様は単に永遠に父なる神と共におられる御子なる神だから、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いているのではないのです。もしそうならば、何もこの場面でなくても良いのです。イエス様はあくまでもバプテスマを受けている人間として、私たちと同じ人間として立ちながら、この声を聞いておられるのです。そうしますと、そこで私たちとつながるではありませんか。イエス様が受けられたバプテスマと、私たちが受けるバプテスマがつながってくるのです。

 ですからマタイによる福音書は、イエス様が受けられたバプテスマの話だけで終わらないのです。この福音書の最後で弟子たちにこう命じているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18‐20)。最後には「バプテスマを授けよ」とイエス様が命じたという話が出て来るのです。教会が授けるバプテスマが出て来るのです。

 イエス様の受けたバプテスマ。教会が授けよと命じられているバプテスマ。その二つの間には何がありますか。3章と28章の間には何がありますか。十字架と復活の出来事があるのです。「バプテスマを授けよ」とイエス様が命じられる前に、イエス様が「正しいことをすべて行った」、すなわち神の御心に従って十字架へと歩みを全うされ、救いの御業を成し遂げられたという話が記されているのです。この救いの御業のゆえに、教会が授けるバプテスマは意味を持つのです。成し遂げられた救いの御業のゆえに、あのヨルダン川で起こったことが、私たちにも起こっているのです。

 あの時、「天がイエスに向かって開いた」のを主が御覧になられたように、同じように私たちにも天が開かれているのです。イエス様が罪の贖いを成し遂げてくださったのですから。主の御業のゆえに、天は私たちに対して閉ざされてはいない。もはや決して閉ざされることはないのです。あの時、聖霊が鳩のように降って来るのを主は御覧になられたように、私たちにも聖霊が与えられるのです。私たちはただ水による儀式を行っているのではありません。私たちは水と霊によって新しく生まれるのです。このことについて、パウロはこう語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。そうです、私たちはイエス・キリストの父である神を、私たちの父と呼ぶことができるのです。その神御自身が私たちにこう言ってくださいます。「あなたはわたしの愛する子供だ」と。そうです、私たちは天から響く愛の声を聞きながら生きていくのです。その御声によって、苦難の中にあってもなお、神の救いの御業のために身を献げて生きていくことができるのです。

 
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