「闇から光へ」 2009年1月25日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 4章12節~17節 キリストはガリラヤへ退かれた  わたしが神学生だった時、同じ神学校に通っていたある人が、自分の召命についてこんな話しをしてくれたことがあります。その人を忍耐強く導いてくれた牧師がいた。しかし、その牧師が亡くなってしまった。彼はとても悲しんだ。彼はその牧師の死が受け入れられなかった。しかし、その悲しみを神様に訴えていた時に、そこで彼は心に神様の語りかけを聞いた。あなたが行きなさい、と。そして、今度は彼が牧師になるために神学校に入学した。そのような話しでした。  確かに、それ自体は悲しくまた理不尽としか思えない出来事が、もう一方において神の語りかけを聞く時であったり、今が時だという時の到来を聞く時となったりするものです。ヨハネの逮捕。それはイエス様にとって、そのような出来事であったようです。  洗礼者ヨハネが投獄されたのは、彼が悪を行ったからではありません。むしろ、正しいことを行ったがために投獄されたのです。領主ヘロデが神に背いた行いをしていた。誰も咎めようとはしなかった。ただヨハネだけが果敢に領主に対して神の律法に違反していることを指摘したのです。それは領主ヘロデのためでもありました。しかし、彼は投獄されました。その結果はご存じでしょう。牢の中で首をはねられて殺されてしまうのです。  ヨハネからバプテスマを受け、そして、このヨハネについて「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とさえ言っていたイエス様は、ヨハネの投獄にどれほど心を痛めたことでしょう。しかし、イエス様にとって、それはただ一つの悲しむべき理不尽な出来事に留まりませんでした。それはイエス様にとって、時を告げる神の鐘の音でもあったのです。ついにイエス様が公に語り出す時が来た。父なる神の定められた時が到来した。それゆえに、主はガリラヤへと向かわれたのでした。12節にこう書かれています。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。  「退かれた」と言いますと、何か自分が捕らえられるのを恐れて逃げたように聞こえますが、そうではありません。逃げるならガリラヤには行きません。ガリラヤは、まさにヘロデの領地なのですから。「退く」とは、中央のエルサレムから離れたガリラヤへと移動したということです。都エルサレムではなく、遠く離れたガリラヤこそ、まさに宣教の開始に相応しい場所であったからです。  イエス様がお育ちになったガリラヤ、そして、宣教にまず向かわれたガリラヤはどのような場所として語られているでしょう。今日お読みした箇所にはイザヤ書が引用されています。そこには「異邦人のガリラヤ」などという言葉が出て来ます。もとよりガリラヤは古代イスラエルに属する地域でした。そこに出て来ゼブルンやナフタリはイスラエルの部族の名前です。しかし、ガリラヤは北の境に位置するため、繰り返し北からの侵略にさらされた地域でもありました。そして、紀元前8世紀に決定的な出来事が起こります。それは列王記下15章に出ています。このように書かれています。「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」(列王記下15:29)。そのように、ガリラヤは完全にアッシリアの占領下に置かれました。後にはバビロニア、ペルシャ、マケドニアと次々に諸外国の支配下に置かれることとなりました。その間に入植者との混血も進みました。宗教的にも文化的にもある意味で純粋性が失われていきました。それゆえにその地域は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。  それは軽蔑を込めた呼称でした。すなわち、ユダヤ人にとって、ガリラヤはただ都から遠い北の果てにある地域ではないのです。「異邦人のガリラヤ」--それは救いからも遠いという意味合いが込められているのです。イエス様は、そのように救いから遠いと見なされていた「異邦人のガリラヤ」へと向かわれたのです。そこからメシアとしての公の活動を開始されたのです。それは実に象徴的なスタートでもありました。なぜなら、イエス様は実際に、救いから最も遠いと見なされていた人々に福音を告げ知らせることになるからです。イエス様が行かれるところに、どのような人々を見ますか。そこには徴税人がいます。罪人と呼ばれる人たちがいます。病気のゆえに「汚れた者」と見なされてきた人たちがいます。「罪の女」と呼ばれる売春婦のような人たちがいます。そのような人々がキリストと出会って福音を聞くことになるのです。 暗闇に住む民は  そのように「異邦人のガリラヤ」へとキリストは向かわれました。それは預言者イザヤの言葉が実現したのだ、と福音書は語ります。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」。このことが実現したのだ、と。  「暗闇に住む民は大きな光を見た」。そう聖書は語ります。ところで「暗闇に住む民」とはどういうことでしょう。先ほど、ガリラヤの置かれていた歴史的な事情に触れました。しかし、彼らは度々侵略を受けたから暗闇にいるのでしょうか。アッシリアに占領されてしまったから暗闇にいるのでしょうか。異民族に支配されているから暗闇にいるのでしょうか。  いいえ、そうではないのです。イザヤ書においても、また先ほどお読みしました列王記におきましても、北方地域が占領されたことを、ただ可哀想な気の毒な出来事として書いているのではないのです。そうではなくて、それは神に背き続けてきたイスラエルの歴史に起こった出来事として書かれているのです。すなわち、ガリラヤがアッシリアに占領され、さらにはイスラエル王国が完全に滅ぼされてしまうしまうわけですが、そこに示されているのはイスラエルの不信仰の歴史なのです。確かに国を失ったことは不幸です。災いです。災いの中にあることは暗闇の中にあるとも言えます。しかし、本当の暗闇は不信仰の暗闇なのです。神を失っている暗闇なのです。  神を失っている暗闇と申しましたが、さらに言うならば、それは神の愛に背を向けている暗闇とも言えるでしょう。神様がどんなに愛してくださっていても、神様がどんなに呼びかけても、神様がどんなに手を伸ばし続けてくださっていても、それに気付かない。だから神の愛を信じてもいない。それは暗闇ではありませんか。神の愛を信じていなかったら、必ず恐れが支配することになるでしょう。どんなに備えても、貯えても、恐れは去りません。どんなに幸せな状況に置かれても、恐れは決して去りません。神の愛を信じなくて、そこに恐れが支配していれば、人間同士だって信じ合うことなんてできないでしょう。恐れがあれば愛し合うこともできない。私たちが見渡す限り、身近な人と人との間にも、国と国、民族と民族の間にも、恐れが満ち、不信と敵意が満ちているではありませんか。そんな暗闇の中に彼らは生きていたのだし、私たちもまた生きているのです。  その暗闇に「住む民」と言われています。暗闇の中に「住んで」いるのです。もともとイザヤ書では「歩く」という言葉が使われているのです。しかし、マタイはわざわざ「座る」という言葉を使いました。「暗闇の中に座っている民」という言い方をしているのです。暗闇を自分の場所としている。そこに留まっている。そこが自分の場所だと思っている。そういうことです。  実際、イエス様が出会った人たちは皆そうだったのです。徴税人たちは自分が神に愛されているなんて、思ったこともなかったに違いありません。罪人たちは、自分たちはもうとうの昔に神から見捨てられていると思っていたことでしょう。イエス様が出会われた病気の人たち。自分は神から呪われているからこんな病気になったのだと、きっと思っていたに違いない。神の愛とは無関係に生きている、神の愛を信じることなくして生きている、そんな暗闇が自分の場所だって思って、もう何年も何年も生きてきたに違いない。  しかし、それは彼らだけの話なのでしょうか。いいえ、本当はそうではないのです。エルサレムの中心にいたファリサイ派の人たちも同じでした。彼らは実に宗教的な人々です。一生懸命に神の律法を守って生きていました。しかし、それは厳しい父親の目を気にしながらビクビクして生活してる子供のようなものです。神に気に入られるように一生懸命にやってきたけれど、まず神様が愛していてくださるなんて、一度も思ったこともなかったことでしょう。無条件で神から愛されている安心感など、生まれてこのかた経験したことがなかっただろうと思うのです。それもまた暗闇です。その暗闇の中に座っていた。彼らもまた暗闇の住人でした。徴税人や罪人たちにせよ、ファリサイ派の人々にせよ、暗闇に住んでいる人々の姿は、ここにいる私たちにとっても他人事ではありません。 大きな光を見た  しかし、「暗闇に住む民は大きな光を見た」と書かれているのです。イエス様は、光として来てくださったのです。いかなる人も、もう暗闇の中に座っていなくてよいのです。暗闇こそが私の場所だ、なんて言っていなくて良いのです。イエス様が、暗闇を照らす光として来てくださったから。イエス様は神の大きな愛を携えて、来てくださったのです。完全な罪の赦しと共に、完全な神の愛を携えて来てくださったのです。だから、もう暗闇の中に座っている必要はないのです。  それゆえに、主はこう言われたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)。「天の国は近づいた」ということは、「救いは近づいた」ということです。そうでしょう。もう既にイエス様が光として来てくださったのですから。完全な救いにあずかることは将来であるにしても、私たちは今から神様の愛の光、神の救いの光の中に生きることができるのです。やがて与えられる完全な救いを待ち望みながら生きることができるのです。  そのために必要な唯一のこと。それは悔い改めです。それは方向転換です。方向を変えるのです。光としてイエス様が来てくださったのですから、その光の方向に向き直り、神の愛、神の赦しを信じて、イエス様に従っていくこと。ですから、マルコによる福音書では「悔い改めて、福音を信じなさい」と書かれているのです。  イエス様が光として来てくださいました。しかし、暗闇の中に座っていることをやめて立ち上がり、光の中を生き始めるようになるのは本人がすることです。プレゼントを差し出されても、自分で受け取らなければ自分のものにはなりません。太陽が昇っても、自分でカーテンを開けなければ、部屋は明るくなりません。どんなに光が照らしても、背を向けたままならば、見るのは自分の暗い影だけです。暗闇に住む民が大きな光を見るためには、その光の方に向き直らなくてはなりません。主は言われます。悔い改めなさい。方向転換しなさい。救いは近づいた。そうです。暗闇はあなたの住む場所ではありません。