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「罪人を招くため」

2009年2月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 9章9節~13節

聖餐卓を囲んで

 教会の礼拝堂にはテーブルが置かれています。聖餐卓と言います。教会の礼拝は聖餐卓を囲んで行われているのです。普段はそれが見えにくいのですが、聖餐式の時には良く分かりますでしょう。ちょうど私と皆さんとで聖餐卓を囲む形となります。最近では、これがもっと良く分かるように、聖餐卓を囲むように会衆席が配置されている教会が増えてきました。しかし、たとえ椅子の配置がそうなっていなくとも、私たちは常に聖餐卓を囲んで礼拝しているのだということをいつも念頭に置いていなくてはなりません。

 私たちの教会では、聖餐において、小さなパンを食べ、小さなグラスから葡萄汁を飲みます。しかし、初期の教会では、通常の食事と変わらない仕方でこれが行われていました。イエス様と弟子たちの最後の晩餐では、こんな小さなパンを食べていたわけではありません。その後の教会も、普通の食事を行っていたのです。その食事は「パン裂き」あるいは「主の晩餐」と呼ばれていました。そのようにキリストを記念して一緒に食事をすることがすなわち礼拝だったのです。それが形を変えて今日のような聖餐となっています。しかし、形が変わったとしても、それが食事であることに変わりありません。礼拝とは「主と共に食事をする食卓への招き」です。それは聖餐が行われない週の礼拝においても同じです。ですから聖餐卓は聖餐が行われない週でも置かれたままになっているのです。

 さて、そのように教会が「パン裂き」「主の晩餐」と呼ばれる食事を重んじてきたことと、聖書に繰り返し《食事の話》が出てくることは無関係ではありません。今日の聖書箇所にも、食事の話が出てきました。このような食事の話は初めから文字として書き記されていたわけではありません。語られて、聞かれることによって、伝えられてきたのです。どこにおいてそれがなされてきたか。それは礼拝においてです。主の食卓を囲むところにおいてです。ならば、たとえば今日の聖書箇所のような話がどのような思いで語られ、聞かれてきたか、想像つきますでしょう。イエス様と共にする食事。イエス様と共に食卓を囲む人々。その中に自分を見るような思いで、この物語は語られ、聞かれてきたのです。

わたしに従いなさい

 今日お読みしました物語は、マタイという徴税人が主によって招かれたところから始まります。彼は十二弟子の一人です。三週間ほど前、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが弟子とされた話を読みました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とイエス様が言われた。そんな話が4章に書かれていました。そうやって形作られていった弟子の群れに、今日はマタイが加えられたという話です。

 シモン・ペトロの時もそうですし、今日の箇所もそうなのですが、イエス様と弟子たちの関係は、私たちが通常考える師弟関係と随分違うと思いませんか。例えば、私たちが何か習い事をする場合を考えてみてください。通常は弟子となりたい人が、先生を選んで弟子入りするものです。それは当時のユダヤ教の世界でも同だったのです。律法の教師(ラビ)に弟子入りしたい人は、自分がつくべきラビを選ぶのです。彼らは自分が選んだラビの言葉に耳を傾け、その生活を倣い、律法に従った生き方を学ぶのです。ところがイエス様の弟子たちの弟子入り場面は全く違いますでしょう。ペトロやヨハネがイエス様を選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを呼びだして弟子としたのです。今日お読みしたマタイについても同じです。

 「イエスはそこをたち」(9節)と書かれていました。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエス様が自分の町、カファルナウムに帰って来た。その事が知れると、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきた。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいた。そんな話が書かれています。しかし、もちろんすべての人がイエス様のもとに集まったわけではありません。そんなことには全く関心のない人だっていたのです。マタイはそんな一人です。マタイは行かなかったのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。

 イエス様が通りかかった時に、彼は収税所に座っていました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありましたし、事実、不正の利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示していると言えます。そして、ナザレのイエスが行っている神の御業も、その口が語る神の言葉も自分とは全く関係ないと思っていた。彼らの集まりは自分がいるところとは別世界だと思っていたのです。

 ところが、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められました。イエス様の方から声をかけかれた。「わたしに従いなさい」と。皆さん、思い返すならば、これこそまさに私たちにも起こったことではありませんか。その時、マタイはどうしましたか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれています。実は、「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味で用いられる言葉でもあります。マタイは立ち上がった。これはまたマタイの復活でもありました。罪の生活の中にどっかりと腰をおろして、「神の愛なんて関係ありません。永遠の命なんて関係ありません」というように生きていたとするならば、それは霊的に死んだ状態でしょう。しかし、彼はそこから立ち上った。新しい命に生き始めた。それは確かに「復活」と表現することができるだろうと思うのです。

 いやそれだけではありません。そのようにイエス様について行ったマタイは、やがてキリストの十字架を見、復活したキリストに見えることになるのです。キリストの御業によって自分の罪が贖われていること、既に神の完全な愛の中にあり永遠の命が与えられていること、終わりの日の「復活」に向かって導かれていることを知ることになるのです。あの日、イエス様から召されて立ち上がり、キリストと共に新しく歩きはじめたマタイは、まさに復活に向かって、完全な救いへと向かって、歩んで行くことになるのです。そのようなマタイの姿に、代々のキリスト者は自分の姿を重ね合わせてきたのです。マタイに起こったことが、このわたしにも起こったのだ、と。私たちがキリストを信じて生きているとは、そういうことです。

わたしが来たのは罪人を招くため

 そのようにイエス様がマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置きますと、その後の食事の場面の意味が見えてまいります。10節を御覧ください。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)と書かれています。イエス様は、ここにおいてマタイの仲間と一緒に食事をしております。このような箇所を読みますときに、ともするとこれを単純に「イエス様は誰をも分け隔てしなかった」という話にしてしまうのです。社会から排斥されていた人たちをイエスは差別しなかった。そんなイエスに倣いなさいという話にしてしまいやすい。しかし、これはそのような話ではないのです。

 ファリサイ派の人たちが「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに言いました。その時、イエス様は「差別するのは悪いことだからだ」とは答えませんでした。そうではなくて、イエス様はこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。

 この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、にマタイもまたイエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエス様によって生き返らせていただいた一人であったからです。

 イエス様が罪人を招くのは、罪から救うためです。イエス様が自らを医者にたとえたように、イエス様が罪人を招くのは罪の病を癒すためです。そのままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、イエス様は罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。

 これがイエス様が招いてくださる主の食卓です。私たちは、そのような食卓を囲んで毎週礼拝をしているのです。病院に病気の人が多いことを驚く人は、病院が何であるかを知らない人です。教会に罪人がいることを驚く人は、主の教会が何であるかを知らない人です。「なんでこんな人が教会にいるのか。そんな教会なら私はもう行かない」と口にしてしまうなら、それは今日の聖書箇所において、招かれた罪人の位置にではなく、ファリサイ派の人々の位置に身を置いていることになるでしょう。「なぜ徴税人や罪人がいるのか」と言っているのと同じです。

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です」(1テモテ1:15)。そのようにパウロは書いています。自分が罪人であり、イエス様に憐れんでいただかなければ滅びてしまう、と本気で思っている人は、他の人も癒されることを祈りつつ、主の招きを心から喜んで、共に主のもとに集まるはずです。この食卓は、そのような食卓なのです。

 
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