「安心しなさい、恐れることはない」
2009年2月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章22節~36節
湖の上へと送り出されて
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」(22‐23節)。何かただならぬ慌ただしさを感じさせる箇所です。この直前に書かれているのは、イエス様が五つのパンと二匹の魚をもって、男だけを数えても五千人に上る群衆に食べさせられたという話です。想像するに、その場所は人々の熱狂と興奮の渦に包まれていたに違いありません。しかし、イエス様はそんな群衆から弟子たちを慌てて引き離すかのように、ただちに彼らを舟に乗り込ませ、向こう岸へと送り出しました。そして、もう一方で、お祭り騒ぎになっている大群衆を自らの手で強いて解散させられたのです。また、自らも群衆から身を隠すかのようにして、ひとり山に登られ、祈りの時を持たれたのでした。
なぜ弟子たちは群衆から「すぐ」に引き離されなくてはならなかったのでしょうか――弟子たちのところに身を置いてみると、その理由が分かるような気がします。19節には、「弟子たちはそのパンを群衆に与えた」と書かれています。そうです、実際にパンを群衆に手渡したのは弟子たちなのです。走り回った弟子たちが何人いたのかは分かりません。しかし、恐らくは一人あたり少なくとも数百人にパンを手渡すことになったでしょう。数百人にパンを手渡し、数百人の喜びを見、数百人から驚きと感謝の言葉を聞いたら、どんな気持ちになりますか。私がその弟子たちの一人であったら、有頂天になっていたに違いありません。パンを与えてくれているのはイエス様であるとは分かっていても、やはりパンを運んでいるうちに、自分が人々のために何か大そうなことをしているかのように、感謝を受けるべき何者かにでもなったかのように、思い込んでしまうのではないでしょうか。
人々のために何かを行い、そのことについて感謝される時、そこにはいつでも高ぶりの誘惑があります。自分は主の恵みを運んでいるに過ぎないのだ、という自覚を常に持ち続けることは困難なことです。考えて見れば、有能なキリスト者となることは、ある意味でそう難しいことではないのかも知れません。本当に難しいのは、へりくだったキリスト者となることです。そのためには、時としてこの場面のように、喜び感謝する人々から引き離されるということが必要になります。そして、強いて舟に乗せられて送り出され、湖の上で逆風に翻弄され、自分の無力さを思い知らされるということも必要になるのです。そうです、この弟子たちもまた、そのことを必要としていたのです。
弟子たちは湖の上へと送り出されました。それは「湖」と訳されていますが、実際には「海」という言葉です。「湖」という言葉は別にあります。「海」と表現される時、そこには特別な意味合いが含まれます。「海」は古代の人々にとって人間の力を越えた恐怖の対象だったのです。それは神に敵対する諸々の力、しかも人間の力を遙かに越えた恐るべき諸勢力の象徴でもあったのです。そのような「海」へと、キリストは弟子たちをあえて送り出したのです。そこで弟子たちは逆風と波に悩まされることになるのです。
逆風に漕ぎ悩んで思うように進むことができないでいる舟、大波に翻弄されて今にも沈みそうになっている弱々しい小舟――それは弟子たちの将来を指し示す前触れに他なりませんでした。それは後の教会の有り様を予告するものでもありました。キリストは、そのようにして弟子たちに前もって示されたのです。キリストの弟子であるということは、必ずしも人々から賞賛され、感謝され、偉大な者と見なされるようになることを意味しない。いやむしろ、様々な敵意や困難に直面し、まるで逆風と大波に翻弄される小舟の中にいるように、自分たちの弱さや無力さと向き合わざるを得ないようになる。そのことをキリストは彼らに前もって示されたのです。
安心しなさい
しかし、それだけではありません。本当に重要なことは、嵐の中でへりくだらされることではありません。もっと大事なことがあるのです。嵐の中において彼らが知らなくてはならない、もっと大きなことがある。それは嵐のただ中にキリストが来てくださるということです。悩みと恐れのただ中にキリストが来てくださるということです。25節以下には次のように書かれています。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。
キリストがどのように海の上を歩いて来られたのかと問われるならば、「分かりません」と答えるしかありません。しかし、それが意味することは分かります。弟子たちを苦しめ悩ませている「海」は、どれほど大きな力を持っているとしても、それはあくまでもキリストの足の下にあるということです。キリストは海を足の下に踏みつけて来られるのです。この箇所を読んでいますと、ヨハネによる福音書に記されているキリストの言葉、最後の晩餐における言葉が思い起こされます。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。弟子たちは、嵐のただ中で、そのようなキリストを目にしているのです。
もっとも、そのようなキリストが近づいて来られることは、当初弟子たちの喜びにはなりませんでした。キリストを認識できなかったからです。彼らは「幽霊だ」と言っておびえました。波と風のことで頭が一杯になっている時、不安や恐れに捕らわれてしまっている時には、どんなにキリストが力強く臨んでくださっても、それが分からない、かえって不安と恐れが募るばかり――残念ながら、そのようなことが起こります。弟子たちの姿は、しばしば私たちの姿でもあります。
しかし、そのような弟子たちに、そのような私たちに、そのような教会に、キリストの方からは語りかけてくださいます。主は言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。この「安心しなさい」という言葉は、先ほど引用しましたヨハネによる福音書の「勇気を出しなさい」というのと同じ言葉です。ですから、ここで言われているのは単に「幽霊ではないよ。わたしだよ」ということではありません。「わたしだ」とは、「わたしがいる」という言葉でもあるのです。つまり、イエス様は御言葉によって御自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」そう言ってくださるのです。
信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか
そして物語は、この言葉を聞いた一人の弟子に焦点を絞って続けられます。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(28‐31節)。
「わたしだ。わたしがいる」。海を踏みつけて歩かれるキリストがおられる。ペトロはそのことを知って、自分自身も海の上に立ち、キリストのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞いたのです。それゆえに、彼は水の上をキリストのもとへ歩んでいきます。一歩、また一歩と。ここで強調されているのは、ペトロの勇気ではありません。キリストの言葉とその力です。キリストの言葉を聞き、キリストの言葉に従うとき、彼は海を足の下に踏んで歩くことができたのです。風がやんだわけではありません。波が静まったわけでもありません。状況は何一つ変わっていません。しかし、彼はもはや海に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。私たちは信仰によってキリストと共に海の上に立つのです。それがこの聖書箇所が語っている一つのメッセージです。
しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。それが全てではありません。それだけを伝えたいならば、ペトロが歩いたところまでで良いのです。話はそこで終わりませんでした。実はこの聖書箇所が本当に語ろうとしていることの中心は、ペトロが海の上を歩いたことにはないのです。むしろペトロが沈んだことにあるのです。そして、沈みつつあった時、キリストがどうされたかにあるのです。
しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして水に沈み始めます。キリストはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いでしょうか。ペトロの心は分かれてしまったのです。一方において、キリストとその御言葉のほうに向かいます。しかし、もう一方で彼の心は風と波に向かうのです。二つに分かれた。すると沈み始めたのです。
沈んでゆくことは恐ろしいことです。私たちも「自分が沈んでいく」ということを様々な形で経験することがあるでしょう。しかし、沈み始めることは、決して悪いことであるとは言い切れません。なぜなら、人は沈みながら二心ではいられないからです。心は恐るべき海に向かうか、それともキリストに向かうのか、どちらかしか無くなるのです。ペトロの心はキリストに向かいました。ペトロはキリストに向かって叫びました。「主よ、助けてください。」これは字義通りでは「主よ、お救いください」という言葉です。沈み行くとき、一心にキリストを求めることができるなら、沈んで行くことにも意味があります。そこでキリストなくしてはただ沈んでいくだけだと悟った人は幸いな人です。
ペトロは、「主よ、お救いください」と叫び求めました。キリストはどうされたでしょう。何と書いてありますか。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」と書かれているのです。「すぐに」です。そして、キリストがペトロを捕らえたのであって、ペトロが手を伸ばしてキリストをつかんだのではないのです。
キリストはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。問題は彼の二心にありました。しかし、マタイは、「あの時のペトロのように沈んではなりませんよ。不信仰だと沈みますよ」ということを教えるために、この物語を書き記しているのではないのです。マタイは良く知っているのです。これがしばしば現実の教会の姿であり、キリスト者の姿であることを。いったい誰がペトロのようではないと言えるでしょうか。私たちも繰り返し「信仰の薄い者よ」という言葉を聞かなくてはならない者ではありませんか。
ですから、マタイは沈みそうな小舟に近づいてきてくださるキリスト、信仰薄きゆえに沈んでいくペトロにすぐに手を伸ばしてくださるキリストを伝えようとしているのです。マタイは信じて書いているのです。私たちは絶対に沈んでしまわない、と。なぜですか。キリストがおられるからです。世々の教会は「主よ、お救いください」を繰り返さなくてはならなかった教会でした。私たちも同じです。しかし、それで良いのです。「お救いください」と祈ることさえできるなら、それで良いのです。海を足の下に踏みつけて立っているキリストがおられるからです。そして私たちに手を伸ばしてくだり、しっかりと捕らえて離さないキリストがおられるからです。