「人はパンだけで生きるのではない」
2009年3月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節~11節
先月25日から受難節(レント)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして最初の主日に与えられていますのが、イエス様が40日間荒野で断食したという話です。その荒野においてイエス様が悪魔から誘惑を受けられました。この受難節におきまして、まず私たちが語りかけられていますテーマは「誘惑」についてです。ここにいる私たち、誰一人として「誘惑」に無関係な人はいないはずです。自分自身を省みながら、聖書の言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。
「誘惑」についての理解
「誘惑」について今日の箇所から少なくとも四つのことが語られ得ます。第一に、誘惑を受けること自体は罪ではない、ということ。罪への誘惑を感じる時、私たちはしばしば、自分が弱いから誘惑を受けるのだと思ってしまいます。また、誘惑を感じること自体が既に罪であると思ってしまいます。しかし、今日の箇所を読みますと、キリストが誘惑を受けておられるのです。キリストは弱くありません。またキリストは罪を犯されなかった御方です。宗教改革者マルティン・ルターはある長老の言葉を引用して言いました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。
また、キリストが洗礼を受けた話の直後に悪魔から誘惑を受けた話が続いていることは注目に値します。洗礼の時にキリストは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。今日の箇所で悪魔は言います、「神の子なら」と。「誘惑」につい語られている第二のことは、神の子であるゆえに受ける誘惑がある、ということです。信仰者となったら、洗礼を受けたら、誘惑を受けることはなくなるか。あるいはせめて少なくなるのか。――そんなことはありません。私たちが神を天の父と呼んで生き始めるならば、神の子供として生き始めるならば、悪魔にとっては敵になるでしょう。悪魔に憎まれることになるでしょう。だからこそ、主は弟子たちにそのことに関する祈りを教えられたのです。「天におられるわたしたちの父よ、…わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「悪い者」とは悪魔のことです。ご存じ、「主の祈り」の六番目の祈りです。神を「天におられるわたしたちの父」として祈るなら、絶対に必要な祈りです。
しかし、悪魔が私たちを憎んでいるとしても、必ずしも苦しみや災いを持ってくると思ってはなりません。いや、むしろ悪魔は親切な顔をしてやってきます。今日の箇所を御覧ください。悪魔は、空腹に苦しむイエス様に助言を持ってきたのです。「誘惑」について語られている第三のことは、「誘惑」はしばしば「助け」の顔をしてやってくるということです。悪魔はしばしば助言を持ってやってくる。窮乏を切り抜ける助言、欠乏を解決するためのアドバイスを持ってやってくるのです。「こうすればあなたの今の窮乏は切り抜けられるよ。そのためにあなたの持っている力を使いなさい。できるでしょう」と。
そうです、そのように「誘惑」は力のあるところに働くのです。それが「誘惑」について語られている第四のことです。誘惑は弱い部分に働くのではなく、むしろ人間の強い部分に働くのです。どうですか。皆さんに「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑が来ると思いますか。思わないでしょう。そのような誘惑は来ない。なぜならできないからです。できないところには誘惑は働かない。でも、皆さんにも、そして私にもできることがあります。自分の窮乏を救うために、あるいは誰かの窮乏を救うためにできることがある。その力がある時に、悪魔の望むとおりにその力を使わせようとする誘惑もまた働きます。何かができる、あるいは何かをしないで済ませる能力なり立場なり環境なりがあるからこそ人は罪を犯すのであり、できるからこそ罪への誘惑が働くのです。
神の言葉から引き離す誘惑
さて、今日の箇所にはイエス様が三つの誘惑を受けたことが書かれていますが、今日は特にその第一のものに注目しましょう。三節をもう一度お読みします。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。
それにしても、なぜこれが「誘惑」なのでしょう。考えてみれば不思議です。空腹であるならばパンを盗んできなさい、という話ならなるほど悪魔の誘惑らしいと言えます。空腹に限らず、一般的な窮乏の話であるならば、例えば「自分の能力や立場を利用して、たとえ不正な手段であっても現実に直面している窮乏から自らを救え」という誘惑なら、なるほど「悪魔の誘惑」らしいと言えるでしょう。しかし、イエス様が石をパンになるように命じることは、どう見ても不正を促すものではないし、他者を害するものでもなさそうです。どうしてこれが誘惑なのでしょうか。
この誘惑の意味を理解するには、誘惑する者を退けるイエス様の言葉から考えるのがよいでしょう。主は次のような言葉をもって悪魔を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と。このイエス様の言葉から考えますと、この悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるものにしてしまう」という誘惑であるようです。それはまた「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ところから引き離してしまう誘惑であると言えるでしょう。要するに、そのような神との生ける関係から引き離してしまう誘惑です。
「誘惑」と言いますと、私たちはすぐに犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑を考えるのではないでしょうか。しかし、悪魔のねらいはどうもそのような表面的なことにあるのではなさそうです。もっと深いところにある。もっと根源的な問題へと誘って行くのです。それは神の言葉から引き離すことです。「神の言葉によって生きる」という神との生きた交わりから引き離すことなのです。そのようにして神から引き離し、まことの命から引き離すことなのです。あえて言うならば、悪魔にとっては私たちが法律にひっかかる犯罪を犯すかどうかはどうでも良いことなのです。刑務所に入るようなことをするかどうかは、どうでもよいことなのです。悪魔にとっては人間を神から引き離してしまえれば、それで良いのです。神とその言葉から引き離すことができれば、それでよいのです。
実際、そのような誘惑は今も私たちの間に働いているではありませんか。不正を行ったわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。この世的に見ても不道徳を咎められるようなことをしたわけではない。ただ自分の力をもって窮乏を解決しただけ。空腹だからパンを求めてパンを得ただけ。そのような場合、それ自体はいかなる悪とも見えません。しかし、そのようにして窮乏を解決してしまった途端に、もはや神を求めることもなく、神の御言葉を求めることもなく、神との交わりなんてどうでも良くなってしまって、神を天の父と呼ぶことも礼拝することもなく歩み始めてしまう。そのようなことはいくらでも起こると思いませんか。そうなれば、悪魔は誘惑に成功したことになるではありませんか。
人は神の言葉で生きる
本来、窮乏を解決するパンが与えられるならば、それは神との関係を深めるものとならなくてはならないのです。それは神の言葉によって生きる生活を確かにするものとならなくてはならないのです。そのことをイエス様の言葉は示しています。イエス様が誘惑を退ける時に用いた言葉は旧約聖書の申命記からの引用です。もとの聖書箇所には次のように書かれているのです。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2‐3)。
もとになっているのは、イスラエルが荒れ野を旅していた時の話です。荒れ野で食料が無くなり、彼らが飢えた。その時に、神は「マナ」という食べ物を与えてくださったのです。しかし、それはただ単に彼らを空腹から救うためではありませんでした。「マナ」が与えられたのは、彼らが神への信頼と従順に生きるようになるためだったのです。ですから、神様はマナを集めることについて条件を与えられました。「毎日必要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはならない。それが条件でした。「明日の分まで集めてはならない」ということは、要するに、「明日のことは神に信頼し、今日を神に従順に生きる」ということでしょう。そのようにして、窮乏から救われた今もなお、いや窮乏から救われた今だからこそ、いよいよ神に信頼し、神に従順に生きていくわけでしょう。しかし、実際にはそうならなかった。イスラエルの人たちは、二日分集めたり、安息日に集めたりしたのです。
ここに書かれている第一の誘惑というのは、実は、旧約聖書においてイスラエルの民が繰り返し陥ってきた誘惑に他ならないのです。そしてまた、私たちが陥ってきた誘惑に他なりません。そこに主は人間として身を置いてくださっているのです。そして、主はその誘惑に打ち勝ってくださった。私たちに代わって悪魔に宣言してくださっているのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。それゆえにまた、この主の御言葉が読まれる受難節のこの時、私たちは神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、既に悪魔に打ち勝っている主に従って行くのです。