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「あなたの家は安全ですか」

2009年3月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 16章13節~21節

 毎週の礼拝は「招詞」から始まります。これは招きの言葉です。そして、最後に祝祷があります。祝福を受けて私たちはこの世へと遣わされます。そして、一週間を経て再び招きの言葉を聞く。これが私たちの信仰生活のサイクルです。送り出され、そして帰って来る。この一週間が積み重ねられて私たちの人生となります。送り出され、帰って来る。そうです、教会は帰って来る場所なのです。ですので「日曜日に教会に行きます」は正確な表現ではありません。日曜日には教会に帰って来るのです。その意味で教会は私たちが帰って来ることのできる「家」です。私たちの人生が置かれているホームです。今日は教会という「家」の話です。

教会の土台

 イエス様はそのような教会について、こう言っておられます。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(18節)。

 教会は私たちが帰って来ることのできる「家」だと申しました。その意味では「私たちの教会」と呼ぶことができると思いますが、それは教会が《私たちのもの》であることを意味しません。教会はキリストの教会です。イエス様は「わたしの教会」と言われるのです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

 イエス様は御自分の教会が堅固な岩の上にあることを望まれます。砂の上に建てられることを望まれません。砂の上にある家は簡単に倒れてしまいます。岩の上の家は倒れません。「この岩の上にわたしの教会を建てる」。主はそう言われます。イエス様が良しとされるのは、どのような岩でしょう。イエス様が建てられる教会の土台となる「この岩」とは何でしょう。実はイエス様はこの言葉を弟子のシモンに言われたのです。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。

 イエス様は弟子のシモンにペトロという名前を付けられました。イエス様が用いておられたアラム語では「ケファ」となります。「ケファ」とは「岩」という意味です。そして、イエス様は「この岩(ケファ)の上にわたしの教会を建てる」と言われたのです。ですから、直接的にはキリストの教会の土台である「この岩」とはペトロのことです。

 しかし、ペトロにこう言われた時、イエス様は「わたしも言っておく」と前置きしていますでしょう。その前にペトロの発言があるから「わたしも言っておく」なのです。ペトロの発言は16節にあります。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはナザレのイエスという御方に対するシモン・ペトロの信仰告白です。ですから「この岩」というのは、ただ単に《人間ペトロ》を指しているのではなく、《信仰を告白しているペトロ》を指しているのです。ただ単にペトロという人間について語るだけなら、何もこの場面でなくても良いのです。実際、ペトロという人間だけを見れば、ここで教会の土台である「岩」と呼ばれたにもかかわらず、その直後には「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責されています。岩ともなるし、サタンの手先ともなる。それが人間ペトロです。ですから、大事なのはペトロその人よりも、むしろ彼が言い表した信仰告白なのです。要するに、教会の土台は、ペトロがイエス様に対して言い表した、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰なのです。

 教会は家です。キリストが建てられる家です。その家の土台は信仰です。私たちは時代と共に移りゆくこの世の思想を土台としているのではありません。地縁や血縁を土台としているでもありません。この世の大波が押し寄せれば流れてしまうようなこの世の様々なつながりを土台として集まっているのでもありません。教会の土台は信仰です。イエスをメシアと信じる信仰を土台としています。信仰を土台としているキリストの教会という家をわが家として生きる。それが信仰生活です。

 さて、イエスをメシアと信じる信仰について、さらに一歩踏み込んで考えてみましょう。20節を見ますと不思議なことが書かれています。「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(20節)。せっかくイエスをメシアであると信じて、その信仰を言い表したのに、その信仰を伝えることにストップをかけられた。まだダメなのです。どうしてですか。弟子たちはまだ見るべきものを見ていないからです。知るべきことを知っていないからです。

 「あなたはメシアです」と言った弟子たちは、いったい何を見なくてはならないのでしょう。その次の21節にこう書かれています。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。これが見るべきことです。「あなたはメシアです」と言った彼らは、そのメシアが苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを見なくてはならないのです。

 教会の土台はイエスをメシアと信じる信仰だと申しました。しかし、それだけでは事柄が十分に言い表されてはいません。どのようなメシアかが重要なのです。あなたはメシアです。しかも、十字架にかけられて死に、三日目に復活したメシアです。イエスに対してそのように言い表す信仰。これこそが教会の土台なのです。

 イエス様はメシアです。私たちの罪のために苦しみを受け、十字架の上で罪の贖いを成し遂げてくださったメシアです。そして、死からよみがえり永遠に生きておられ、御自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになるメシアです。その信仰の上に教会は建てられています。キリスト御自身がその信仰の上に教会を建てておられるのです。

陰府の力もこれに対抗できない

 それゆえにイエス様は御自分の建てる教会について、こう宣言されるのです。「陰府の力もこれに対抗できない」と。それはどれほど堅固な家であるか。どれほど安全な家であるか。それは陰府の力もこれに対抗できないほど、陰府の力も揺るがすことのできないほどだと主は言われます。

 「陰府の力」。文字通りには「陰府の門」という表現です。「陰府」とは死の世界です。ですから、これは「死の力」「死の門」と言いかえてもよいでしょう。死の力、死の門がいかに強大であるか、私たちは皆、良く知っています。確かに死は最後にして最大の敵です。そして、いかなる人も死の力にはかないません。いかなる権力者も、いかに屈強な人でも、いかに裕福な人でも、いかに優秀な人でも、どんなに健康に自信のある人であっても、最終的に死の力にはかないません。陰府の門はすべての人を確実に呑み込んでいきます。私はこれまでに、数多くの人が、この世的には大きな力を持っている人が、陰府の門の吸引力の前に悲しみと恐れの言葉を口にするのを耳にしてきました。しかし、キリストは言われたのです。「陰府の力も教会には対抗できない」と。

 なぜ陰府の力、死の力はもはや教会に対抗できないのでしょうか。教会には天の国の鍵が既に与えられているからです。キリストはペトロにこう言っていますでしょう。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と。――天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。罪人に対して天の国が閉ざされるのです。ですから、罪人に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによる以外にありません。罪を赦された者に対して、天の国が開かれるのです。その意味において、天の国の鍵とは、《罪の赦し》に他なりません。キリストは、罪の赦しを、教会に与えてくださったのです。自ら十字架にかかって罪の贖いを成し遂げることによって、キリストは罪の赦しを、天の国の鍵を、与えてくださったのです。

 そして、「天の国の鍵を授ける」ということは、次のように言い換えられています。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(19節)。必ずしも分かりやすい表現ではありませんが、要するに地上の教会において行われることが、天においても、神の御前においても有効だということが語られているのです。

 もし、このキリストの言葉がなければ、教会が今日まで二千年間に渡って行ってきたことは、ほとんど意味を持ちません。そうでしょう。牧師が説教をします。キリストの十字架における罪の贖いを語ります。罪の赦しと新しい命を語ります。それで心の中の罪責感が取り除かれる人がいるかも知れません。心の安らぎを得る人がいるかも知れません。しかし、もしその罪の赦しが本当に天において、神の御前において有効なのでなければ、本当に神が赦してくださるのでなければ、それは単なる気休めでしかないでしょう。同じことが聖礼典にも言えます。教会は洗礼式を行います。そして、その人に罪の赦しを宣言します。しかし、これが天においても有効なのでなければ、神が本当にそのように見なしてくださるのでなければ、教会がやっていることは単なる水遊びに過ぎません。聖餐も同じです。小さなパンと杯を分かち合います。私たちの罪のために御自分を与えてくださったキリストの体と血として、これを分かち合うのです。しかし、これが本当に天において意味を持つのでなければ、神が本当にそのように見なしてくださるのでなければ、教会がやっていることは、まさにままごと遊びに過ぎないでしょう。

 しかし、キリストは言われたのです。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。私たちが地上の教会で目にしていることは、天上において神の御前においても決定的な意味を持つのです。

 キリストが罪の赦しを与えてくださるならば、しかも天において神の御前において有効な罪の赦しを与えてくださるならば、もはや陰府の力、死の力はこれに対抗することができないのです。私たちが、キリストの建て給うキリストの教会の中に立っているなら、私たちは陰府の力も揺るがすことのできない岩の上に立っているのです。私たちが十字架にかけられたメシア、復活して今も生きておられるメシアへの信仰を土台とするキリストの教会の中に立っているなら、もはや陰府の力、死の力を恐れる必要はないのです。もはや何ものも私たちを神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないからです。

 今日の説教題は「あなたの家は安全ですか」となっていますが、実はこれはある無料耐震診断の広告のキャッチフレーズです。どうでしょう。地震に強い家に身を置くということは確かに重要なことであるに違いありません。しかし、自分の人生そのものがどのような家の中にあるかということは、もっと重要なことであるはずです。それは死の力よりも強い家である必要があります。死の力が襲ってくることは、関東に地震が起こることよりも、もっと確実なことですから。先日、一人の方が病床洗礼を受けられました。恐れに打ち震えていた方が、キリストの家の中に身を置かれました。「あなたの家は安全ですか」。そう聞かれたなら、その方はきっとこう答えることでしょう。「わたしの家は安全です」と。

 
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