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「あなたは変えられる」

2009年3月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節~13節

 今日読まれました福音書の箇所は、しばしば「山上の変貌」あるいは「山上の変容」などと呼ばれるところです。不思議なことが書かれております。山の上においてイエス様の御姿が変わったという話です。それを目撃したのはペトロとヤコブとヨハネの三人です。限られた人々だけに与えられた特殊な神秘体験とも言えます。しかし、そのような極めて特殊な体験が伝えられて聖書の中にも記されているのは、直接同じことを体験していない他の弟子たちにとっても大きな意味を持っていたからでしょう。また後の教会にとっても、ここにいる私たちにとっても重要なメッセージがそこにあるからに違いありません。ここに記されている出来事は私たちにとって何を意味するのか。そのことを考えながら今日の箇所を見ていきましょう。

モーセとエリヤが共に

 まず目に留まりますのは、彼らが目撃したのは単にイエスの姿が変わったことだけではないということです。そこに突然二人の人物が現れた。一人はモーセ。もう一人はエリヤです。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表しているとも言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 彼らが見た光景は、彼らのその後の歩みにとって決定的に重要なことでした。というのも、彼らはやがてイエス様が苦難を受け、十字架につけられる姿を目撃することになるからです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ってついて行った彼らは、やがてそのメシアがボロ雑巾のようにされて十字架の上に釘付けられるのを目撃することになるのです。しかし、神はそのような彼らに、そのような彼らだからこそ、前もってこの光景をお見せになったのです。イエス様がモーセとエリヤと共に立っている光景をです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。イエス様に起こる出来事は旧約聖書と無関係ではない、ということです。イエスが志し半ばで不幸にも殺されてしまったということではありません。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていたのです。言い換えるならば、それはすべて神の御心によって起こったことであり、神の御計画によって起こったことなのだ、ということです。

 「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」とありました。何を語り合っていたのでしょう。ここには書かれていませんが、ルカによる福音書には次のように記されています。「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:30‐31)。そうです、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」――十字架によって磔にされて殺されるという最期――は既に神の御心としてモーセとエリヤと共に語り合われていたことなのです。

 ならばその苦難は単なる苦難で終わるはずがありません。単なる不幸な出来事として終わらない。十字架の死はただ悲惨な死として終わらない。これが神によるならば、その先があるはずです。そして、事実その先があったのだ、と聖書は私たちに告げているのです。キリストの復活です。

 キリストの顔が太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で垣間見たのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きだったのです。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。この御方に起こる苦難は苦難をもって終わらないことを、その先に復活があることを、ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。

 もちろん、彼らはその意味するところをその時に理解できたわけではありません。キリストの復活までは、自分が体験したことの本当の意味を知ることはできない。正しく伝えることもできない。そんな弟子たちです。そのことはイエス様もご存じでした。ですからイエス様は彼らに口止めされたのです。その時にはまだ分からないから。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。

 しかし、やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出すことになりました。キリストの復活に出会い、その出来事の意味を知って語り出すことになりました。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出すこととなりました。それゆえに私たちは今こうしてその出来事を読んでいるのです。

キリストの変容

 そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を示す出来事でした。復活の命に輝くキリストの御姿でした。しかし、私たちはここでそもそもなぜ「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれているのかを考えなくてはなりません。教会は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。ある意味で強調点はその変化の方にあったとも言えます。ですので、この箇所はしばしば「山上の変貌」などと表現されるのです。

 実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。芋虫が蝶になって羽ばたくその変化。思い描いて見てください。しかも、ここは本当は「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違いますでしょう。イエス様は神の御子でありながら、神の側にではなく、人間の側に身を置いて、「変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちに「変えられる」という希望を与えるためでしょう。私たちが「変えられる」という希望。私たちに絶対に必要ではありませんか。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリアと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。ですから他の福音書では「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」(ルカ9:33)と説明が加えられています。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたい。そういうことです。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まるために召されたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。しかし、その神の「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。罪深い人間世界へと向かわれるのです。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。その御方に聞き従っていくならば、どうなりますか。弟子たちも山の上に留まっていることはできません。

 そのようにキリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。

 山の下において、現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとする時、初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてきます。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。その時に神の赦しを求める祈りも切実なものとなります。そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになります。自分の醜さを知った人は、変えられたいと願う。自分が芋虫の姿であると知った人は、変えられたいと切に願う。そういうものです。

 その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 後にそのことを知らされた一人の人がいました。パウロです。彼はコリントの信徒たちにこう書き送りました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。この「造りかえられる」という言葉は、先ほどイエス様に用いられていた「変えられる」という言葉と同じです。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちがかいま見た復活の栄光の姿のことです。

 そのように私たちに、驚くべきことが起こります。天の御国において実現します。芋虫はいつまでも芋虫のままではありません。私たちは、いつまでも芋虫のままではないのです。やがて復活の栄光の姿に変えられるのです。そして、それは既に信仰生活において、主の霊の働きによって始まっているのです。私たちは信仰生活においていわば天の御国の味見をさせていただいているのです。そのようにして希望を確かにされるのです。だから私たちは絶望しません。絶望しないで現実と向き合うことができます。絶望しないで自分の罪深さとも向き合うことができる。度々つまずき倒れるようなことがあっても、再び立ち上がって前に向かって歩いて行くことができるのです。主が天の御国において完成する私たちの姿を既に見せてくださったからです。

 
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