「ひっくり返されねばならぬもの」
2009年3月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 20章20節~28節
今日の福音書朗読は、ゼベダイの息子たちの母親が息子たちと一緒にイエス様 のところに来て、ひれ伏してこう願ったという話です。「王座にお着きになると き、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃっ てください」(21節)。ゼベダイの息子たちと言えば、ヤコブとヨハネです。 マルコによる福音書にも同じ話が出ていますが、そこではヤコブとヨハネ本人が イエス様に願ったという話になってます。そのようにもともとは当人たちが願い、 母親が協力をしたということでしょう。
王座にお着きになるとき
「王座にお着きになるとき」と母親は言いました。彼女はイエス様が王座にお 着きになると信じていました。ヤコブとヨハネもそうです。他の弟子たちもそう でした。イエス様が王座にお着きになると信じていました。彼らはイエスがメシ アであり、神によって油注がれた王、神によって任命された王であると信じてい ました。この世界を正しく裁き、神の御心に従って民を治め、神の救いを地上に もたらす王であると信じていました。イエス様が王座にお着きになるときが来る。 必ず来る。そのためにこそ、エルサレムに向かっていると信じて、ここまでつい てきたのです。
しかし、エルサレムに向かう彼らの行く手には多くの困難や闘いがあり、イエ ス様に従っていくならばそこに労苦や犠牲が伴うことは明らかでした。ですから、 イエス様から「わたしの杯を飲むことができるか」と問われたとき、ヤコブとヨ ハネは即座に「できます」と答えたのです。ヤコブもヨハネも闘いは覚悟の上で した。弟子たちの目には、少なくとも大きな二つの力がイエス様の前に立ちはだ かって見えたはずです。
その第一はローマ帝国の支配です。政治的な意味において現実に支配している のはローマ皇帝なのであって、その支配体制のただ中で、神によって立てられた 王であることをイエス様が宣言するならば、当然ローマ帝国と真正面から衝突せ ざるを得ないでしょう。それは帝国内にこれまで起こってきたいくつもの反乱の 一つと見なされることでしょう。そして第二はユダヤ人当局の宗教的な支配です。 弟子たちはイエス様がユダヤ人の宗教的な指導者たちから憎まれていることを知っ ていました。その御方が自らをメシアと宣言するならば、彼らと衝突せざるを得 ないでしょう。ローマ人以前に、ユダヤ人である同胞がイエス様の行く手を阻む 大きな壁だったのです。
そのように少なくとも二つの大きな勢力がイエス様の支配を阻もうとしている。 その現実が見えている中で、なおもイエス様に対して「あなたが王座にお着きに なるとき」と言っていたということは、ある意味ではまことに驚くべきことです。 このナザレ出身の一人の人物が、あの巨大なローマ帝国の支配をひっくり返して、 ユダヤ人の最高法院の支配をもひっくり返して、御自分の王国を打ち建てると信 じていたのです。「王座にお着きになるとき」と言っているのです。
確かにそこには夥しい数の群衆が弟子たちと共にイエス様の後に従っていたと いう現実がありました。パンの奇跡(14:13以下)の時には、男だけ数えて も五千人もの人々がイエス様を追い求めて着いてきた。全体では一万人以上いた かもしれません。21章にはエルサレム入城の場面が出ていますが、大勢の群衆 が自分の服を道に敷き、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いて、前を行く者も 後を行く者もこう叫んでいます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られ る方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。そのような熱狂的な群 衆の存在は期待を高めます。本当に、この御方は王座に着かれる。王国が実現す る。確かにそんな気にもなります。
しかし、たとえ群衆が一万人従っていたとしても、その数の力でローマ帝国の 支配を覆すことができると考えたら、それは極めて非現実的なことでしょう。し かし、これは数の問題ではないのです。そもそもなぜそれだけ多くの人が従って きたかと言えば、それは彼らが神の力に触れたからなのです。神がまことに生け る神として、このイエスという御方を通して現実に力を現すのを彼らは見たから なのです。要するに、イエスに従った夥しい群衆の内にあったのは、「何かが起 こる」という期待感だったのです。この御方を通して神の力が現されて、驚くべ き何かが起こる。それならばもはやローマ帝国の政治的軍事的支配体制がどれほ ど強大であっても、ユダヤ人の古い宗教的支配体制がどれほど強固であっても、 全く問題ではありません。神によるならば、それらはひっくり返されるに決まっ ているのです。それゆえに、ヤコブもヨハネも信じていたし、あの母親も言った のです。「あなたが王座にお着きになるときには」と。
一人は右に一人は左に
しかし、「王座にお着きになるとき」の後に彼女はこう続けたのです。「王座 にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に 座れるとおっしゃってください」。最初にも申しましたように、これはヤコブと ヨハネの願いだったようです。他の弟子たちよりも上に立たせてください、とい うことです。さらに言うならば、特にペトロよりは上にしてください、というこ とでしょう。
先週お読みしたところでは、イエス様がヤコブとヨハネとペトロの三人を連れ て山に登ったという話がありました。また、後の方ではゲッセマネの園でイエス 様が祈る場面において、やはりこの三人を連れて行くという話が出て来ます。そ のように、ある意味で特別扱いされていた三人。もちろん、イエス様は彼らを他 の弟子たちよりも「上」に立てたわけではないでしょう。しかし、当人たちはや はりそう思っていたに違いない。その三人の中でもトップ争いがあったという現 実が見えてきます。そして、実はその思いは他の弟子たちもまた同じだったので す。彼らの抜け駆けを見て、他の十人もまた腹を立てた。皆、他の弟子よりも上 になりたがっていたということです。この他にも福音書の中には、「誰がいちば ん偉いのか」と争っている姿を見かけます。
皆、同じようにイエス様に従ってきたのです。同じようにイエス様の支配を望 んでいるのです。イエス様の王国が実現することを一緒に望んでいるのです。で あるのに一つになれない。その王国で誰が上かが問題になるからです。あの弟子 たちだけの話ではありません。この話がこうして残っているのは、後の教会にも、 後の弟子たちにも同じことがあったからでしょう。そして、同じことは私たちの 間にも起こります。いつでも問題になるのは上か下かです。上に見られて悦に入 り、下に見られて腹を立てる。なぜ従わなくてはならないのかと不平を言い、な らば従わせる立場になろうと懸命に上を目指す。無意識の内に優劣を競い、力関 係を問題にしている。そのような関係において、本当に一つになれるはずがあり ません。教会においても然りです。
なぜイエス様を信じ、イエス様の支配を求める人たちがそうなってしまうのか。 一つのことが見えてきます。彼らがイエス様をただ力をもって敵の支配を覆し、 力をもって征服し、力をもって支配を打ち立てる王としか見ていなかったという ことです。そのように力をもって救いをもたらしてくれる御方としか見ていなかっ た。弟子たちがイエス様をただ力をもって救いをもたらしてくれるメシアとしか 見ていないなら、最終的に事を決するのは力だと思うようになるのは無理もない。 力をもって救いをもたらしてくれるキリストしか求めていないなら、身近な人間 関係においても力関係を問題にするようになるのは無理もない。他より大きな力 を持つことが大事に思え、支配する側に立つことが大事に思えてくる。上か下か をいつも問題にするようになる。当然のことです。
しかし、それはイエス様から見るならば、それは救いの世界から最も遠くにあ る姿なのです。それゆえにイエス様は、弟子たちが思い描いていたのとは全く異 なるメシアの姿を提示されます。こう言われるのです。「あなたがたも知ってい るように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっ ている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの 中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の 僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多く の人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25-28節)。 そのように、イエス様は、弟子たちや群衆が期待するような、力をもって敵を支 配する王になるために来られたのではないことを明らかにされるのです。イエス 様は「仕えるために」「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」来ら れたのです。罪の贖いのために十字架にかかって命を献げるために来られたメシ ア、そのように仕えるために来られたメシアなのです。
本当の意味でキリストに敵対し、救いの実現を阻んでいたのは、ローマ帝国の 支配でもユダヤ人当局の支配でもありませんでした。本当にひっくり返されなく てはならなかったのは、ローマの政治的な体制でもユダヤ人の宗教的な体制でも ありませんでした。ひっくり返されなくてはならなかったのは、そして真にキリ ストの支配を受け入れなくてはならなかったのは、常に上か下かを問題にし、真 にへりくだって仕える者となろうとはしない弟子たち自身の心だったのです。
確かに、イエス様は神の油注がれた王であり、私たちは復活の主が父なる神の 右に座しておられると信仰を告白しています。しかし、人間がこの地上で出会っ たその御方の姿は、仕える者の姿であり、僕の姿でありました。受難節は、その お姿を思い起こす時です。王の王、主の主なる御方が低くなって私たちに仕えて くださいました。そのようにして私たちの罪を自ら背負ってくださいました。そ して、今もなお主は仕える姿を私たちに示し続けていてくださいます。イエス様 は今も私たちに御自分を差し出して言われます。「わたしはあなたに仕えるため に来た。わたしをあげよう。わたしの命をあげよう。わたしの体を食べなさい。 あなたにあげよう。わたしの血を飲みなさい。あなたにあげよう」と。私たちは、 そのような御方に対し「あなたはメシアです」と告白しているのです。私たちの 内にあるものも、その御方によってひっくり返されなくてはなりません。