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「キリストが十字架にかけられた日」

2009年4月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 27章32節~56節

 受難週に入りました。イースター前の一週間。木曜日が最後の晩餐がなされた日に当たり、金曜日が十字架にかけられた日に当たります。そのような一週間の最初の日に私たちに与えられております御言葉は、先ほど読みましたマタイによる福音書に書き記されている受難物語です。今週は繰り返しこの受難物語を思い起こしましょう。

無力なメシアを嘲る人々

 さて、その十字架の場面ですが、不思議なことに十字架刑そのものについての細かい描写がありません。かつてある伝道者が説教において十字架の場面を実に見事に生々しく再現するのを聞いたことがあります。しかし、マタイはイエス様が十字架につけられたことに関しては、ただ「彼らはイエスを十字架につけると…」としか記していません。どうもイエス様の苦痛を細かく描き出して同情を呼び起こすことには関心がないようです。

 一方、まわりの人々については細かく描写されていることに気付きます。十字架につけられたイエス様をあざける人々についてです。ただ「人々はイエスをののしった」とだけ書かれているのではありません。罵っている人々の中には通りかかった人々がいます。祭司長たちも律法学者や長老たちもいます。また、一緒に十字架につけられた強盗たちも、その中にいます。まわりの人々の描写が詳しいのはなぜでしょう。それはこれを読んでいる私たち自身をそこに見出すことができるように、ということなのでしょう。

 それでは彼らの姿に目を向けてみましょう。まず通りかかりの人々がイエスを罵って言います。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)。ここでわざわざ「通りかかった人々は」と書かれていることから、これがもともと主に敵対していた人々ではないということが分かります。ではなぜ罵ったのか。そこに「これはユダヤ人の王イエスである」と罪状書きが掲げられていたからです。彼らにとって「ユダヤ人の王」と「神の子」「メシア」はほぼ同じ意味です。そして、「神の子」「ユダヤ人の王」「メシア」ならば、強くあって欲しいのです。異邦人を打ち倒し、解放して欲しいのです。多くのユダヤ人がそう願っていた。そして期待していた。しかし、現実にそこにいる「ユダヤ人の王」とやらは、十字架にかけられている王なのです。無力なメシアなのです。期待に応えられないメシアなのです。彼らは無力なメシアなどいらないのです。だから罵っているのです。

 一方、祭司長たちの侮辱の言葉は少々意味合いが違います。彼らにとっては思い通りの結末だったのです。民衆を惑わして宗教的な権威に逆らうようなことをしたけれど、結局化けの皮がはがされたではないか。そのような心境だったに違いありません。彼らは初めからイエスを信じてはいません。そして、信じなかった自分の正しさがやっと実証されたという思いだったのです。要するに、彼らの罵りの言葉は自分の正しさの主張に他ならなかったのです。

 また、強盗たちもイエス様を罵っていました。彼らの言葉は記されていませんが、察しは付きます。彼ら現実に苦しみの極みにいるのです。そのすぐ隣りにはつい一週間ほど前まで人々からメシアであるとして騒がれていた男がいるのです。しかし、今は十字架にかけられているのです。本当に助けて欲しい時に何もすることのできないメシアが隣りにいるのです。そんなメシアがいったい何の役に立つか!それが彼らの思いであったに違いありません。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

 そして無力なメシアは叫びます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(46節)。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。十字架から降りることができなかっただけではありません。神から見捨てられた者として叫び声を上げているのです。こんな言葉を耳にしたら人々は間違いなく確信することでしょう。「この男は絶対にメシアなどではない」と。しかし、不思議なことに、このイエス様の言葉を教会はそのまま伝えてきたのです。イエス様をメシアと信じることの妨げにしかならないような言葉を伝えてきたのです。それはなぜなのでしょうか。

 実は、イエス様が口にしたこの言葉は詩編22編に見出される言葉です。そこで詩人が「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:2)と祈っています。そのように苦しみの極みにあるとき、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ぶことは、ある意味では自然なことに思えるかもしれません。しかし、よくよく考えると、これは簡単には口にできない言葉であるとも言えます。もし私たちが苦しみの極みにおいて本気で神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と問うならば、きっと自分の過去の罪が次々と思い起こされるのではないでしょうか。見捨てられても仕方のない理由が次々と思い起こされるのではないでしょうか。そのように本来は「なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に訴えることができるのは、あのヨブのように、見捨てられる理由に全く思い当たらない人、純粋に神に従って生きてきた人、真に正しい人だけなのでしょう。その意味では究極的にはこの祈りを口にすることのできるのは、父の御心に完全に従われた罪なきイエス様以外にはないだろうとも言えるのです。

 そのような思いをもって十字架の場面を見直しますと、見え方が変わってまいります。そこで苦しんでいるのは、本来ならば見捨てられるはずのない方です。その御方が神に見捨てられた人として苦しんでいるのです。そして、そのまわりでは、真に神に従うことも知らない者たちが、本来ならば神に見捨てられても仕方ない者たちが、そのような自分であることさえ気付いていない者たちが、軽々しく神の名を口にしてイエスを嘲っているのです。ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいるのです。それがこの場面です。彼らは自分勝手な期待を振りかざして叫びます。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう!」お前の力を見せてみろ。そして私の願いを叶えてみろ。私を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう! そう言って嘲っているのです。まさにそこで叫んでいるのは、他ならぬ私たちではありませんか。

メシアが成し遂げてくださったこと

 しかし、本来見捨てられるはずのない方が見捨てられるということが神の御心として起こっているならば、そこには神の特別な目的があるはずです。聖書は何と言っているでしょうか。イエス様は再び大声で叫び、息を引き取られました。そして、さらにこう続けられているのです。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐53節)。

 ここで大切な言葉は「そのとき」です。原文は「そして、見よ」と訳せる言葉です。「見よ」と指し示されている「そのとき」です。それは、イエス様が息を引き取られた「そのとき」です。つまり誰の目にも終わりに見えた「そのとき」です。ひとりの方が、神に見捨てられて終わりとなった「そのとき」です。しかし、それは終りではなかった、というのが福音書の伝えていることなのです。終わりではなく、決定的なことが始まったのです。特に注目すべきは、神殿の垂れ幕が裂けたことと死人が復活したという言葉で表現されている事柄です。

 「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。

 しかし、その垂れ幕が裂かれたというのです。「上から下まで真っ二つに裂け」とあるように神御自身がこの幕を引き裂いたのです。罪を贖う動物犠牲の血という雛形が用いられていた時代は終わりました。なぜなら、まことの犠牲が屠られたからです。彼らは今まで繰り返し、贖いの犠牲となる動物が悲鳴を上げながら血まみれになって死んでいくのを見てきたことでしょう。しかし、ついに神自ら備えられた贖いの犠牲が、「わが神、わが神、なぜお見捨てになったのですか」という悲鳴を上げ、死んでいったのです。そして、神御自身がその手で垂れ幕を引き裂き、すべての人が罪の赦しを得て神に近づく道を開いてくださったのです。

 そして、死んだ者の体が生き返った。そのような言葉によって表現されているのは「死の克服」です。このことが垂れ幕が裂かれたことと共に記されていることに注意してください。死の克服と罪の赦しは切り離せないのです。考えてみてください。皆さんが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、それはきっと地獄を意味するに違いありません。本当に必要なのは、罪の赦しであり、神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、いかなることも死の克服にはなりません。ただ墓から出てくるだけなら、苦しみの日々が伸びるだけなのです。私は、今まで病の床にて共に祈り、そして亡くなっていった方々を思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。最終的に死が克服されるために必要なのは、キリストの十字架であり、神の語り給う「あなたの罪は赦された」という言葉であり、神と人との隔てが取り除かれることなのです。

 イエス様は十字架の上の無力なメシアでした。しかし、その無力さの極みにおいて、私たちにとって最も必要とされた救いの御業を成し遂げられたのです。主は、無力な王として、罪人からあざけられ、神から見捨てられました。それは、罪ある私たちが見捨てられない者となるためでした。それゆえパウロはこの出来事を次のように言い表します。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5:21)。この事実のゆえに、聖書は今も私たちに呼び掛けているのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(同5:20)。

 
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