「あなたは絶対に負けません」 2009年4月5日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節  ただ今、「たたかいおわりて」(讃美歌146番)という讃美歌が聖歌隊によって歌われました。復活祭に歌われる代表的な讃美歌の一つです。「闘いが終わった」。もちろん勝ったのはイエス・キリストです。誰に勝ったのか。「いのちのきみこそ、おわりのあだなる、死に勝ちましけれ、ハレルヤ」。おわりのあだ(最後の敵)である「死」に勝ったと歌われているのです。今日読まれた聖書箇所にも次のような言葉がありました。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない」(5-6節)。「十字架につけられたイエスを捜している」ーー死に打ち負かされた敗北者イエスをあなたがたは捜しているのですか。いいえ、そんな方はおられません。「あの方は、ここにはおられない」??墓の中にはおられない。死に打ち勝った御方として、もはや墓の中にはおられない。それがあの日、あの朝の光の中で、墓を訪ねた婦人たちに告げられたメッセージでした。  私たちに、その福音が伝えられました。私たちは福音を信じました。私たちはそのようなキリストを信じているのです。死に打ち勝って、もはや墓の中にはおられないキリストを、私たちの主として信じているのです。死に打ち勝って、今も生きておられる方を信じて、その復活の日である週の初めの日、日曜日に毎週礼拝をしているのです。そのように二千年間教会は信じて礼拝を続けてきたのです。 最後の敵である「死」  「敵に打ち勝つ」という言葉でまず思い浮かべるのは「戦争」のイメージでしょう。しかし、私たちは戦争ではなくて、おだやかにスポーツの試合などを思い浮かべても良いかと思います。パウロも信仰者の生活を語るのに競技のイメージを用いていますから。私たちの人生を何かのスポーツの試合に喩えるならば、今、皆さんはどういう状況にあるでしょうか。勝利に向かって順調にポイントを重ねている。勝利に向かってまっしぐらに進んでいる。今の状況をそのように喩えることができる人もいるでしょう。そのまま試合が進んでいくこと、今の調子で人生が進んでいくことを願っているに違いありません。  しかし、私たちはよく知っています。長い人生の間には、いわば順調に試合が運ぶ時ばかりではない。ポイントを失う時がある。大きくポイントを失ってしまう。連続ポイントを失いながら流れを変えることができない。そのような時があります。焦りや苛立ちが生じます。まだ試合途中なのに、試合を続ける意欲が失せてきます。放棄したくなります。まだ負けたわけじゃないのに、敗北感に打ちひしがれている。そのような時もあろうかと思います。大きな挫折を経験する時。罪の誘惑に屈してしまった時。取り返しのつかない失敗をしてしまった時、などなど。  そのようにポイントを重ねたり、ポイントを失ったり、勝利の確信に酔いしれたり、敗北感に苛まれたり、そのようなことを繰り返しながら、試合は進んでまいります。今、どのような状況でしょうか。ここにいる二百人ほどの人たちの試合状況はそれぞれ異なります。しかし、聖書は私たち全員に言えること、共通して言えること、その一つの事実を語っています。今、試合の状況がどうであれ、敵には恐るべき控え選手がいるということです。そいつの名前は「死」と言います。先ほどの讃美歌に歌われていた「おわりのあだ」です。聖書が「最後の敵」と呼んでいる奴です。そのうち必ず登場してくる。試合に出て来る。その「死」という控え選手は様々な仕方で登場してくるでしょう。例えば、予期せぬ病気によって。あるいは事故によって。怪我によって。あるいは自分のことではなく、愛する身近な人との死別によって。そのようにして「死」が人生の試合に登場してまいります。  そして、私たちは知っています。そいつが出て来ると、形勢がひっくり返ってしまうということを。実際に、ある健康診断を境に、人生の戦況が一変してしまった人をわたしは何人も知っています。生活が完全に変わってしまうのです。それまで、たとえどんなに順調にポイントを重ねて、勝利に向かってまっしぐらに進んでいるかのように見えていたとしても、「死」という名前のそいつがフィールドに出て来た途端に、一気に形勢不利になるのです。そして、そいつがいる限り、最終的にはどうしたって勝てない。その現実が見えてきます。 死よりも強い味方  さて、そのような恐るべき敵である「死」。そのような恐るべき控え選手が敵として存在する。それは紛れもない事実です。そして、もう一つ明らかな事実は、控え選手というものはフィールドに出て来て初めて力を発揮するのではない、ということです。強力な控え選手というものは存在するだけで試合そのものを支配するのです。私たちは本当は分かっているのです。そいつが最後には必ず出て来る。どのような形であれ、必ず出て来る。そいつが出て来たらもう勝てない。だから普通はどうしますか。そいつのことは考えないようにするのでしょう。しかし、「死」という控え選手のことを考えないようにすることって、本当の解決になっていないじゃないですか。試合が支配されていることの本当の解決になっていない。  ですから、私たちにとって本当に必要なのは、見ないようにすることではないのです。考えないことではないのです。そうではなくて、そいつよりももっと強力な味方を持つことなのです。そして、そのような味方はいるよ、と聖書は教えているのです。それが今日の福音書朗読が伝えている復活の出来事なのです。既に死に打ち勝った御方がいる。イエス・キリストこそ、死に支配されている私たちの人生の試合に神が与えてくださった、最強の味方なのです。  先ほど、「どんなに順調にポイントを重ねていても、死がフィールドに出て来た途端に、簡単に逆転されてしまう」と言いました。しかし、これはイエス・キリストについても言えるのです。たとえどんなにポイントを失い続けているように見える人生であっても、敗北へまっしぐらに進んでいるように見える人生でも、この御方はそれをひっくり返すことができる。たとえ「死」が登場して、大きくポイントを奪われて、もうダメだと思っていたとしても、イエス様はその形勢を一発で逆転することのできる御方なのです。そのことが一番良く見える場面はどこであるか知っていますか。病床洗礼です。それまで死の登場によってどれほど打ちひしがれていたとしても、洗礼において死よりも強い方が登場したら、そこで大逆転が起こるのです。もはや敗北はあり得ない。最終的に支配するのは死ではなく命です。永遠の命です。  今日の聖書箇所を思い浮かべてください。イエス様の弟子たちはこの場面に全く出て来ません。イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。この時、彼らは敗北感に打ちひしがれていたに違いない。もう取り返しがつかない。敗北は決定的であるように見えていたはずです。彼らは残りの人生を敗北者として生きていくしかなかったのです。そして、やがてイエスを十字架の上で殺した死の力によって、彼らも打ち負かされて、本当の意味の敗北者として死んでいくしかなかったのでしょう。  しかし、彼らに良き知らせが告げられることとなりました。復活したキリストがあの婦人たちにこう言っています。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。そして、彼らに告げられたとおり、彼らはキリストにお会いしたのです。死に打ち勝ったキリストが再び彼らの人生に入って来られて、大逆転が起こりました。もはや彼らは負けることはあり得ない。何があっても負けることはない。死が登場してきたって負けないのですから。  私たちはその後の弟子たちの歩みを知っています。その後に生まれた教会の歩みを知っています。死をも恐れず、迫害をも恐れずに福音を伝え続けてきた多くの人々のゆえに、この国にも教会が存在することを知っています。だからこそ、この下北沢にも教会があるのです。そのすべては、死に打ち勝ったキリストが確かに共にいてくださったことを雄弁に物語っています。そして、その同じキリストが私たちにも伝えられているのです。この御方が私たちの味方であることを私たちは知っています。  この後洗礼を受ける4名の方々には特にこのことを申し上げたいと思います。皆さんは、今日、神が与えてくださったこの強力な味方、死を打ち破って復活し、永遠に生きておられる救い主としっかりと結ばれます。この方がつながっているならば、たとえ今どんなに形勢不利であっても、苦しい闘いが続いていても、恐れる必要はありません。あなたは絶対に負けません。最後にどのような形で「死」が登場してきても、恐れる必要はありません。イエス様は死よりも強いから。あなたは絶対に負けません。