「新しい天と新しい地の創造」 2009年4月19日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 イザヤ書 65章17節~25節 新しいことをなされる神  今日読まれた聖書箇所には「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と書かれていました。神様は新しいことをなさいます。神様が行動されると新しいことが起こります。同じイザヤ書の中にはこのような主の言葉も記されています。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」(イザヤ43:19)。わたしの好きな聖書の言葉の一つです。  神様は新しいことをなさいます。聖書にはそのような話がたくさん書かれています。そもそも一番最初に出て来る天地創造の物語からしてそうです。神は天地を無から創造されました。イスラエルの民が自分たちの原点として記憶してきた出エジプトの出来事もそうです。四百年の間エジプトで奴隷であったイスラエルの民の中に神が入って来られ、神が行動を起こされた時、そこに新しいことが起こりました。イスラエルの民はエジプトから解放されました。イスラエルの民がバビロンに捕囚となっていた時もそうでした。先ほど引用した「見よ、新しいことをわたしは行う」という言葉は、その頃に語られた主の言葉です。そして、実際に主は新しいことを行われました。捕囚の民はエルサレムへの帰還と神殿の再建を許されました。  そのようなイスラエルの歴史の中に、時満ちて神が御子を遣わされた時もそうでした。そこに新しいことが起こりました。キリストの十字架において罪の贖いは成し遂げられ、キリストの復活によって死の力は打ち破られました。また、その五十日目、五旬祭の折りに聖霊が地上に注がれた時もまたそうでした。そこに新しいことが起こりました。かつてイエスを見捨てて逃げていったようなあの弟子たちが、出て行って大胆にキリストを宣べ伝える者となりました。このようにして教会の宣教の歴史が始まりました。  その後の教会の宣教の歴史は、神が新しいことをなさり続けた歴史と言えます。教会が宣べ伝える福音を通して神が一人一人の人生に入って来られる時、その人生に新しいことが起こります。人は新しく生まれます。神の子供とされ、神を天の父と呼んで生き始めます。私たちは、神の新しい御業を聖書の中に見るだけでなく、私たちの人生にも見ることができます。それゆえに私たちは知っています。私たちの未来は、またこの世界の未来は、単に過去から現在への延長線上にはありません。いつでも神の新しい御業に開かれています。未来は神がその新しい御業によって創り出されるのです。 神は新しい天と地を創造される  そのように、神は新しいことをなさいます。今日お読みした箇所に語られていることも、そういうことです。しかし、今日語られていることは極めて特別なことです。主は言われるのです。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、この世界の全体です。被造物世界の全体、全宇宙を含め、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われる。そのように語られた次点で事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。私たちは被造物世界のほんの小さな一部分でしかありませんから。そのような私たちにはもはや考えることも想像することもできない。そのようなことが、最終的に神様の行われることなのだと語られているのです。  そして、このテーマは聖書の最後にもう一度出てまいります。ヨハネの黙示録に出て来るのです。そこで新しい天と新しい地は救いの実現として語られています。ここで語られている神の御業は、私たちの救いのためになされるのです。神様は私たちの想像の及ばないようなとてつもないことを最終的に私たちの救いのために行われるのです。「新しい天と新しい地を創造する」とはそういうことです。  そのように神が最後に私たちのために用意しておられることは本質的に私たちの想像を遙かに超えた出来事なのですが、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださいます。それが18節以下です。「新しい天と新しい地」という途方もなく大きな事柄を縮小して縮小して、ものすごく小さくして語られるのです。しかも、それでもまだ私たち人間の想像の枠内には入らないので、救いの全体の極々一部分に限定して、いわば大きなウエディングケーキの端っこのクリームをちょっと取って舐めさせる程度のことを語られるのです。そのように、神様は「新しい天と新しい地の創造」という大きな事柄を極端に小さくして「新しくされたエルサレム」の描写として語り直してくださるのです。  神の御業によって新しくされた都とそこに生きる救われた民。これでしたらイメージできます。もちろんクリームをちょっと嘗めただけではケーキそのものを食べたことにはならないのですけれど、しかしそれでもケーキについてなにがしかを味わったことにはなるでしょう。同じように、この新しいエルサレムの描写を通して、神様が最終的にしようとしていること、神様が与えようとしている大いなる救いの片鱗に触れることができるのです。 長寿が祝福となる世界  そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。神様が与えてくださる救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは興味深いことだと思いませんか。もちろん、それは私たちの想像の枠内に入るようにそう語られているのですが、そうであっても、救いの世界が「長寿の世界」として表現されていることは実に興味深い。実際、この世における「長寿」について考えてみてください。「長寿」は単純に「救い」と結びつきますか。「長寿」は単純に「祝福」と考えられますか。そうとは言えないでしょう。日本は世界一の長寿国です。しかし、日本のお年寄りは幸せでしょうか。確かに教会では多くのお年寄りの素敵な笑顔に出会います。しかし、現実にこの世の中には、早く死にたいと思っているお年寄りはいくらでもいるのです。  長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われます。神が喜び楽しませてくださるのでなければ、喜びや楽しみは失われていくのです。それゆえに、神が喜び楽しませてくださるのでなければ、長寿は祝福とはなりません。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)と語られているのです。真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神の備えていてくださる救いの世界はそのような世界です。 狼が小羊と共に生きる世界  そして、その喜びは21節以下に書かれていることと切り離すことはできません。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21-22節)。  ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住んだり、植えたものを他人が食べるのは、それらを他人に奪われるからに他なりません。奪われることに怯え、労苦が無駄になることに怯えて生きざるを得ないのは、奪い合う世界が厳然として存在し、そのような奪い合う世界の中に生きているからです。小さな家庭の中の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史に他ならないのです。  しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることへの恐れが取り去られた世界です。害される恐れが取り去られた世界です。なぜなら神が近くおられ、神が治めてくださる世界だからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」と語られているほどに、それほどに神は近くにおられ、現実に介入され、その御力をもって治めてくださるのです。  いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は奪われる者を奪う者から守ってくださるだけでなく、奪われることへの恐れを取り除かれるだけでなく、奪い合う悪そのものを取り除かれるのです。奪い合いそのものにピリオドを打たれる。害し合う悪そのものを取り除かれる。そして、皆が本当の意味で共に生きるようになるのです。「狼と小羊が共に草をはむ」と表現されているようにです。そのように共に生きる世界に、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。神の備えてくださっている救いの世界はそのような世界です。 新しい天と新しい地を前もって味わいながら  このような聖なる山、エルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。大きなケーキの端っこのクリームの味わいでしかありません。確かに最終的に私たちに与えられる救いは私たちの想像を遙かに超えたものでしょう。しかし、これらの言葉から少なくとも私たちに何を与えることを望んでおられるのか、その主の思いに触れることができるでしょう。主は奪い合い害し合う悪そのものを取り除こうとしておられるのです。私たちが真に共に生きる世界を望んでおられるのです。そして、例えば長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。私たちの思いを遙かに超えた仕方で!新しい天と新しい地の創造としか表現できないような仕方において!  そして、私たちはそのような新しい天と新しい地を想像もできないものとして待ち望むのではなくて、いわばケーキのクリームを嘗めながら、その極々一部を味わいながら、待ち望むことが許されているのです。先ほどは、このようなエルサレムの描写がケーキの端っこのクリームだと申しましたが、私たちはそれを聖書の中に読むだけでなく、実生活の中で味わう恵みが与えられているのです。私たちが神様の御支配を受け入れて、神のもとで、聖霊に導かれて共に生き始め、そこにおいて奪い合い害し合う悪が本当に小さな規模においてでも終結する時、そこで私たちは新しい天と新しい地の片鱗に触れるのです。この世から受ける喜びが失われていったとしても、神様から喜びをいただく時に、それこそ長寿を祝福と見ることができるような喜びをいただく時に、そして、何よりもそのように生きる私たちが神の喜びであることを知る時に、私たちは神が最後に与えようとしている救いの世界をいわば味見することになるのです。それが私たちの信仰生活です。そうです。神が既に新しいことを始めてくださいました。私たちの人生に入って来られて、既に新しいことをなしてくださって、そのような信仰生活を与えてくださったのです。