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「しるしを見せてください」

2009年4月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章38節~42節

しるしを見せてください

 何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。「しるし」とは証拠です。メシアである証拠です。「証拠を見たら信じましょう」ということでしょう。ところがイエス様はこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。今日お読みしたのは、そのような話です。

 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」とイエス様は言われました。「しるしを欲しがることはよこしまで神に背くことだ」とは言っていません。しるしを欲しがること自体が悪いことだと言っているわけではありません。「よこしまで神に背いた時代の者たちは往々にしてしるしを欲しがるものだ」と言っているのです。しるしを求めること自体は、実はユダヤ人にとっては何ら特別なことではないのです。ユダヤ人の伝統とさえ言うことができます。

 例えば、モーセが民に遣わされた時、彼は神に遣わされたという証明として人々の前で不思議なことを行います。しるしを見せるわけです。主がそうしなさいと言われたからです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。

 神から遣わされた者にはしるしが伴う。神が遣わされたのなら神自らが証明なさる。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに有能な人物であっても、どんなに説得力を持つ言葉をもって「主はこう言われる」と語り出しても、どんなに主の名によって有り難いことを言ってくれたとしても、やたらに信じたりはしないのです。しるしを求める。本当に神から遣わされたかを確認する。それはそれとして大事なことであると言えるでしょう。

信じないためにしるしを求める人々

 しかし、同じ「しるしを求める」にしても、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」という場合は、意味合いが違ってまいります。それは今日の聖書箇所を少し前から読んでみますと良く分かります。今日の箇所は「すると」という言葉から始まっているのです。つまりその前に何かあったから、「しるしを見せてください」という要求が出て来たのです。その前に何が書いてありますか。実は、イエス様がファリサイ派の人たちに対して、実に辛辣なことを言っているのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。

 実際そうでしょう。心にあふれているものが口から出て来る。その前の話を見ても、それが真実であることが良く分かります。22節を見ますと、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られたらしい。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。どれほど嬉しかったことか。いや、彼だけではありません。その人のことを心に懸けていた人たちがいたのです。その人が癒されることを願っていた人たち、イエス様のもとに彼を連れてきた人たちがいたのです。どれほど嬉しかったことか。イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」と彼らは言ったのです。

 一方、そこには宗教的な指導者たちもおりました。そこにはファリサイ派の人たちがいたのです。もし彼らが常々、悪霊に取りつかれている人たちの解放を願っていたならば、苦しんでいる人たちの癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心にあふれていたならば、心にあふれているものが口から出たことでしょう。この場面で喜びの言葉が口から出て来たことでしょう。しかし、もし悪霊に取りつかれている人の苦しみなどには関心が無く、人々の解放や癒しを願ってもおらず、ただ自己保身の思いや自分より力ある者に対する妬みと敵意が心にみちているならば、人々の喜びとは関係なく、そのような言葉が口から出て来るに違いありません。そして、実際に出て来たのです。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。

 表面的には模範的なユダヤ人であるファリサイ派の人々です。実に敬虔そのものに見える彼らです。しかし、イエス様には彼らの心に何が満ちているのかが見えていたのです。だからイエス様は彼らに言ったのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と。そのように、「あなたたちは悪い人間だ」と言われた人たちが、イエス様に尋ねたのです。「先生、しるしを見せてください」。意味合いは明らかでしょう。信じるためにしるしを求めているのですか?いいえ、そうではありません。信じないためにしるしを要求しているのです。相手の言葉を拒否して、自分は悪い人間だと認めないために、自分を守るために、しるしを要求しているのです。

 例えばこんなことを考えて見てください。ある人があなたを見て言いました。「わたしは医者です。あなたの様子を見る限り、あなたはかなり重い病気です。実際に症状が出ているでしょう。大きな病院で検査を受け、早く治療した方がいいですよ」。実際に具合も悪い。変な症状も確かに出ている。そこで自分が病気だと認めた人はすぐに病院に行くと思います。しかし、どうしても自分が病気だと認めたくなかったらどうしますか。もしかしたらあなたは言うかもしれません。「そんなことを言うあなたが本当に医者だという証拠を見せてください」。医者だと信じたくない。医者の言葉だと信じたくない。ならば苦し紛れにしるしを求めるのではないでしょうか。今日読んだ場面はそれと同じです。

 そのように、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」のです。よこしまで神に背いているからしるしを求めるのです。よこしまで神に背いているならば、それを明らかにする相手を拒否するために、しるしを求めるのです。そのような自分であることを認めたくないから、しるしを求めるのです。その時、もし何かのしるしを見せられたらどうなりますか。だいたい想像できます。実際にはどんなしるしを見せられても、信じないのです。目の前で人が解放されて、神の国の喜びが地上に満ちるような出来事を見せられたとしても、信じない理由はいくらでも付けられるのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によって追い出したのだ」とさえ言えるのです。そうです、不思議な出来事は、いくら起こったとしても、信じないためにしるしを要求している人は絶対に信じることはないのです。

与えられているヨナのしるし

 要は明らかにされた自分自身を認めるか、認めないかなのです。そこで人は二通りに分かれてしまうのです。キリストは私たちの内にあるものを明らかにされます。内にあるものが外に出て来ているという事実を私たちに示されます。私たちの内に確かに罪があること、その罪が表に現れていることを示されます。私たちは神に赦されなくてはならないこと、神によって清めていただかなくてはならないこと、神によって救っていただかなくてはならないことが、キリストによって明らかにされます。そのような、自分ではどうにもならない自分自身を認めるか認めないか、なのです。

 明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってください、と願い求めるのか。それとも、自分自身を認めないで、「しるしを見せてください」と言うのか。もし自分自身を認めまいと頑張っているならば、どんなに不思議な出来事を見せられても、おそらくは意味がないでしょう。しかし、もし主に赦しと救いを求めるならば、主が与えてくださる特別なしるしが意味を持つのです。イエス様はそのしるしを「預言者ヨナのしるし」と呼びました。

 それはどのようなしるしでしょうか。イエス様は言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(39‐40節)。人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。(三日目ですので、厳密に言えば「三日三晩」ではないのですが、これはヘブライ的な表現です。)神様から遣わされた者にはしるしが伴う。だからしるしは求めてもよいのです。しかし、メシアの到来に伴う決定的なしるしは十字架と復活だと主は言われるのです。主に言わせれば、それこそが唯一のしるしなのです。実際、主は様々な奇跡を行われましたが、その奇跡をもって御自分がメシアであることを証拠付けようとはなさいませんでした。むしろ癒された人には多くの場合「誰にも言ってはならない」と口止めされたのです。十字架と復活こそがしるしだからです。

 それは信じようとしない人が否応なく信じざるを得なくなるような、いわゆる客観的な「証拠」ではありません。もし神がそれをお望みだったなら、弟子たちが人々に示すことができるように、復活したキリストをエルサレムの中心街に常駐させたことでしょう。しかし、神はそうなさらなかった。人間にとって本当に必要なのは悔い改めだったからです。神の光のもとにありのままの自分を認めること。神に立ち帰り赦しを求めること。救いを求めること。それは客観的な「証拠」によっては起こりません。

 主が明らかにされたように自分が罪人であり救いを必要としていることを認めた時、はじめて罪の贖いの十字架と復活がメシアのしるしとして心に迫ってまいります。そして、この御方こそ確かに私たちを罪と死から救うために来てくださったメシアである、と御前にひれ伏すのです。そして、私たちの罪のために十字架にかけられ復活して永遠に生きておられるメシアに従って生きていく者となるのです。

 
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