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「隠れたところにおられる天の父」

2009年5月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章1節~15節

見せる?見せない?

 マタイによる福音書5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所です。山の上でイエス様が語られた説教です。よく知られた言葉がいくつも出て来ます。例えば、「地の塩」とか「世の光」という言葉は聖書を読んだことのない人でもどこかで耳にしたことがあろうかと思います。今日お読みしたところの前の章に出て来ます。今日の箇所と関係しますので、そこも見ておきましょう。5章14節から16節までをお読みします。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 ところで、ここに書かれていることは今日の聖書箇所と矛盾するような気がしませんか。ここでは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われているのです。言い換えるならば「立派な行いを見てもらいなさい」と主は言われるのです。しかし、今日読んだ箇所では、「人々に見せるな」とイエス様は言っておられます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と。さて、見せたらよいのでしょうか。それとも、見せない方が良いのでしょうか。

 いや、見せるにしても、これはかなりの難題です。相当難しい。というのも、イエス様はこう言っているからです。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。どうですか。単に立派な行いをすることが難しいという話ではありません。それ以上に難しいことが書かれているのです。それは「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という部分です。

 一般的に言いまして、私たちが善い行いとか立派な行いをしたならば、人々は「天の父をあがめるように」なりますか。いいえ、通常はそうはなりません。天の父ではなくて私たちを賞賛するようになるのです。私たちの行いによって、人々が天の父をあがめるようになるというのは、相当に難しい。だから、往々にして私たちはもうはじめから天の父があがめられることなど求めていないし、願ってもいない、ということになりがちです。

 それゆえにイエス様は5章で話したことと一見矛盾するようなことを6章において語られるのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(6:1)と。「見てもらおうとして」。――見てもらおうとするのは何のためですか。天の父があがめられるためでしょうか。本当にそうでしょうか。そのところが問題なのです。

既に報いを受けてしまっている

 では、今日の箇所に目を移しましょう。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」。ユダヤ人の間において重んじられていた代表的な「善行」が三つありました。それは「施し」と「祈り」と「断食」です。「施し」というのは、狭い意味における貧しい人々への施しというだけでなく、旧約聖書の申命記などに現れているような、共同体の中における相互扶助の業をも意味しています。「祈り」というのは、午前9時、正午、午後3時の定められた時刻における祈りです。その時刻になると、どこにいてもお祈りをするのです。「断食」もまた、イエス様の時代においても、またその後の教会においても重んじられてきた敬虔な行為の一つです。

 イエス様は特にこの三つを取り上げます。そして「偽善者のようにするな」と言われるのです。まずは施しについて。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。「ラッパを吹き鳴らす」というのは、もちろん文字通りの意味ではありません。要するに、みせびらかすという意味です。

 また「祈り」についても主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。お祈りの時間になる頃、わざわざ自分が会堂や大通りの角にいるようにするのです。そして、人々が大勢いるところで定められた時刻のお祈りをするのです。

 そして、今日お読みした箇所には入っていませんが16節においてイエス様は「断食」についてもこう言っておられます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」。元気そうにしていると、断食をしていないように見えてしまう。それは困るというわけです。

 そのように、イエス様は「偽善者のようにするな」と言われました。しかし、この「偽善者」という言葉には注意が必要です。日本語で「偽善」と言いますと、それは「偽りの善」と書きます。ですので、イエス様が「偽善者のようにするな」と言いますと、当然、イエス様は「偽り」を問題としているのだ、と考えてしまうのです。「善行には偽りがあってはならない。善行は本物でなくてはならない。善行は純粋なものでなくてはならない。誉められたいという不純な動機で行ってはならない。むしろ隠れて行うぐらいでないといけない。」そのような戒めであると思ってしまう。ところが、ここで「偽善者」と訳されている言葉は、もともとは「役者」を意味する言葉なのです。それ自体には、「偽り」とか「不純」という意味合いはないのです。

 実は、イエス様はここで、善行が偽りであることや、善行の動機が不純であることを問題にしているのではないのです。そうではなくて、「既に報いを受けてしまっている」ということを問題にしているのです。「彼らは既に報いを受けている」という言葉が繰り返されていますでしょう。どんな「報い」ですか。「人々からの賞賛」という報いです。人間から報いを一杯受けてしまっている。

 なぜこれが問題なのでしょう。それは、人々からの報いで一杯になっていると、もはや神から報いを受ける余地がなくなってしまうからです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と書かれていますでしょう。それはただ神が報いを与えないというだけでなく、人間が神からの報いを求めなくなるということでもあるでしょう。人からの誉れ、人からの賞賛で一杯になって満足しているならば、もはやその人は神からの誉れ、神からの報いを求めることはないでしょう。

隠れたところにおける父との関係は?

 しかし、それにしてもイエス様の言葉は実に過激です。徹底的です。突き詰めて言えば、人からの賞賛という報いは、ただ周りの人々から来るのではないのです。3節を御覧ください。主は言われるのです。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」。「右の手のすることを左の手に知らせるな」とは、言い換えるならば、「自分自身にさえ見せるな、知らせるな」ということです。ただ周りの人々に見せないだけではないのです。

 分かりますでしょう。賞賛という報いを与えてくれるのは、必ずしも周りにいる人々だけではない。自分自身もまたその一人なのです。考えてみてください。私たちが誰も知らないところで、人目に付かないところで善いことをしたとします。その行為者である自分を自分自身が見ている。そして、見ている自分がひたすら行為者である自分を賞賛しているかもしれないのです。「みんな知らないかもしれないけれど、私はこれもしてきましたよ。あのこともしてきましたよ。ああ、偉大なる『わたし』よ。お前はなんとすばらしい。人々がこの隠れた行為、知られざる行為を知ったなら、私が今私を誉め称えているように、同じように誉め称えるに違いない」。まあ、ここまで露骨な言葉が意識に上るとは限りませんが、実際、自分を見ている人々の一人に自分自身が含まれているのは事実でしょう。左手に知らせたら、右の手のすることは、左の手が賞賛するのです。しかし、これもまた人からの報いなのです。

 繰り返します。イエス様が問題としているのは、単に善行が偽りであるかどうか、ということではないのです。善い行いは隠れたところでしましょうという勧めでもありません。私たちが本当に考えなくてはならないことは、もっともっと奥にあるのです。もっと深いところにあるのです。そう隠れたところにある。その隠れたところに、一人の御方がおられるのです。隠れたところにおられる方は、隠れたことを見ておられる父なる神です。イエス様がそう言っておられますでしょう。その隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父、その御方とどのように関わって生きているのか。そのような私たちの人生の最も深いところが問われているのです。

 イエス様はここで特に「施し」「祈り」「断食」の三つを取り上げていますが、「祈り」が真ん中におかれていることは偶然ではありません。特に、この「祈り」については他の二つよりも多くの事が語られていますでしょう。私たちが礼拝において口にする「主の祈り」もまた、ここに記されています。そして、この「主の祈り」こそ、山上の説教全体の中心であるとも言われているのです。

 隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父とどのように関わり、どのように共に生きているのか。それはすなわち、隠れたところにおいて、どのような祈りをもって生きているのか、ということです。最も深いところ、奥まったところ、隠れたところにおいて、神をまことに「天にまします我らの父よ」と呼んで生きているのか。そのように天の父と向き合い、父との生きた交わりの中にあるのか。その父からの報いをこそ求めているのか。父からの報いをこそこの上ない喜びとしているのか。いや、考えて見れば、神を父と呼べること自体が本当は大きな報いなのでしょう。もっとも深いところで、奥まったところで、隠れたところにおいて、神との実に親密な交わりがある、神との間に親子としての交わりがある。本当はそれ以上の報いはないのでしょう。

 実際にはそれが分からないままに、最も奥深いところ、隠れたところにおける父との関わりをいい加減にしたままで、往々にして私たちの信仰生活も教会形成も、とかく表面的なことに終止しがちなのではありませんか。目に見えること、地上のこと、人間からのもので頭がいっぱいになっている。あの人がこうした、この人がああした。わたしは受け入れられている。わたしは拒否された。わたしは認めてもらえた。わたしは認めてもらえてない。いつの間にかそんなところをグルグル回っているものです。

 あなたの深いところ、奥まったところにおける生活はどうなっているのですか。隠れたところにおける父との関係はどうなっていますか。そのことをこそまず見直さなくてはならないのでしょう。第一朗読では、エリヤの物語を読みました。そこに「壊された主の祭壇を修復した」(列王上18:30)という言葉が出て来ました。イスラエルの抱えていた問題は単なる政治的な事柄ではなかったのです。もっとも深い部分がボロボロだったのです。私たちも祈りの生活の祭壇がボロボロに壊れているならば、修復しなくてはならないのではありませんか。父との交わりを修復しなくてはならないのではありませんか。天の父との関係さえ確かなら、この地上において人から受けるべき報いを受けていないことなど、本当は大したことではないのでしょう。そして、そのような父との交わりがあってこそ、私たちのささやかな行いを通して、天の父が崇められるようにもなるのでしょう。

 
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