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「キリストの昇天」

2009年5月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章44節~53節

天に上げられたキリスト

 去る21日の木曜日は教会の暦では「昇天日」と呼ばれまして、キリストの昇天を記念する日でした。キリストの昇天については、今日の福音書朗読でも次のように語られています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50‐51節)。キリストの体がまるで風船のようにフワフワと空に上っていった様子を思い描きますと何かとても不思議な感じがいたします。しかしもう一方で、そもそも復活したキリストがそこにいること自体が人間の理解を超えた神秘なのですから、そのキリストが天に上げられたとしても、さほど不思議なことではないと言えなくもありません。

 実は今日の聖書箇所において本当に不思議なことは別にあるのです。弟子たちがキリストの昇天を悲しんだり寂しがったりしていないということです。そこには確かに「彼らを離れ」と書かれています。天に上げられるということは、弟子たちから離れることです。それは本来悲しい出来事ではないでしょうか。しかし、弟子たちは十字架の死においてキリストを失ったあの時のように、再び悲しみにくれるようなことはなかったのです。こう書かれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52‐53節)。

 彼らは喜んでいました。大喜びでした。喜んだだけではありません。キリストの昇天は、彼らを神殿へと向かわせました。礼拝へと向かわせました。神へと向かわせました。彼らは神を礼拝し、神を誉めたたえていたのです。

 ここから一つのことが明らかになります。キリストが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決してキリストが《遠くへ行ってしまう》という出来事ではなかった、ということです。そうではなくて、むしろ逆に、キリストが上げられることによって、《天そのものが近くなる》という出来事だったのです。天が近くなり、神御自身が近くなり、救いの世界が近くなる。だから喜ばずにはいられない。だから天に向かわずにはいられない。神を礼拝せずにはいられない。神を誉めたたえずにはいられない。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。

 本日の第2朗読ではエフェソの信徒への手紙が読まれましたが、そこに「キリストの体」(エフェソ4:12)という言葉が出て来ましたでしょう。そこではキリストと教会の関係が頭と体の関係として語られています。天におられるキリストと私たちは、頭と体のように、分かちがたく結ばれているのです。それはまた、天と私たちが分かちがたく結ばれているということをも意味するでしょう。そのように私たちはキリストが天に上げられたことにより、天と結び合わされている共同体なのです。それゆえに私たちは天に向かって顔を上げて生きていくのです。いかなる意味においても下を向いてうつむいて生きるのではありません。天に向かって顔を上げ、神を礼拝して生きるのです。

 そして、何よりも喜ばしいのは、そのように天におられるキリスト、教会の頭であるキリストは、私たちの罪を贖うために十字架におかかりくださったキリストであるということです。私たちを愛し、私たちのために御自身を献げてくださった方が天におられる。そのことこそが、私たちが天に向かって顔を上げ、希望を抱くことのできる唯一の根拠なのです。そのことは、ここであえて強調しておく必要があるでしょう。というのも、この国には信仰とはまったく関係なく天国について語る人は少なくないからです。「わたしは死ぬことなど少しも心配していませんよ。天国にいくだけですから」などと、いともあっさりと言ってのける人があります。そのような中で生活していますと、いつの間にか、私たちが天を仰ぐことができるのは、キリストを通して与えられた特別な恵みであることを忘れてしまうのです。

 考えてみてください。「天とあなたと何の関わりがあるか」と問われたら、キリストを抜きにして、私たちは何と答えることができるでしょう。天に顔向けができないようなことを繰り返しながら生きてきた私たちが、いったいいかなる根拠をもって、天との関わりについて語ることができるでしょう。私たち人間の現実を正直に見つめるなら、「まことに私たちは天とは何の関わりもございません」と言わざるを得ない者なのです。そのような私たちがなおも希望をもって天を仰ぐことができるとするならば、それはただ一重に、そこにキリストがいてくださるからなのです。十字架にかかって私たちの罪を贖い、復活してくださったキリストが教会の頭として既に天にいてくださるからなのです。だからこそ、私たちは安心して天を仰ぐことができるのです。それゆえにまた安心して地上の生涯を終えることもできるのです。頭であるキリストは既に天におられ、私たちはその一部であるからです。

地上に生きる私たち

 さて、キリストが天におられるからこそ、安心して天を仰ぐことができるのだ、と申しました。しかし、話はそれで終わりではありません。キリストは天に上げられる前に、地上のことについて語られたのです。そして、地上における弟子たちの務めについて語られたのです。45節以下を御覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(45‐48節)。

 確かにメシアは苦しみを受けられました。そして、復活されました。そのようにして世の罪の贖いを成し遂げられました。しかし、キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、人々に届けられ、手渡されなくてはなりません。つまり、宣べ伝えられなくてはならないのです。ですから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と書かれているのです。誰が宣べ伝えるのですか。もちろん、弟子たちです。すなわち教会です。私たちです。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」と書かれていました。「悔い改め」というのは、方向転換をして神に立ち帰ることです。神に立ち帰るならば、神はすべての罪を赦して受け入れてくださる。それが「罪の赦しを得させる悔い改め」です。その意味は、ルカによる福音書だけに書かれている有名な例え話に明らかにされています。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているものです。父親のもとを離れ、財産を放蕩の生活によって食いつぶし、飢饉の中で飢え死にしそうになった息子が、はたと我に返ります。自分は本来いるべきところにいない。問題は父のもとにいないことだ。そのことに気付くのです。そして、方向転換をして父のもとに帰って行くのです。そして、父の家に近づいた時に彼が目にしたのは、髪を振り乱して走り寄る父の姿でありました。すべてを赦し、迎えてくれる父の姿だったのです。父は既に息子を赦していました。罪の赦しは既に父のもとにありました。彼は父のもとに帰って、その赦しを受け取ったのです。

 このことが宣べ伝えられなくてはなりません。既に贖いの小羊は屠られました。罪の贖いは成し遂げられました。父のもとには赦しがあります。立ち帰るならば、父は赦しをもって迎え入れてくださいます。父のもとには赦しがあるのに、救いがあるのに、どうして父に背を向けたまま滅びてよいでしょうか。あらゆる国のあらゆる人々に、父のもとには赦しがあり救いがあることを宣べ伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改め」が宣べ伝えられなくてはなりません。教会は、私たちは、その恵みの言葉を託されているのです。

 キリストは天に上げられました。しかし、私たちは天にのみ向いていてはなりません。地上に目を向けなくてはなりません。地上にいる間に地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。「私は死んだ後に夜な夜な息子の枕元に現れてキリストを伝えることにします」などと言っていてはなりません。地上にある間に、地上においてしかできないことを、しっかりとしておかなくてはならないのです。

 しかし、もう一方において、それが決して容易なことではないことは明らかでしょう。そもそも、教会が託された範囲は、「あらゆる国の人々」なのですから。身近な人に神の恵みを伝えることにさえ数多くの困難があるのです。ましてや「あらゆる国の人々」となったら、どれほど多くの隔ての壁を乗り越えなくてはならないことででしょう。

 それゆえに主は言われたのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。「高い所」というのは、キリストが上げられた天です。そのように、イエス様が天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるのだというのです。天に上げられたキリストが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だと主は言われたのです。

 何を意味しているでしょう。事を成すのは神御自身の力だということです。確かに、私たちは地上にいる間に、地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。それは私たちに与えられた務めです。そして、大事なことは、私たちに務めを与えてくださった御方は、また必要な力をも与えてくださるということです。実際、私たちは「ルカによる福音書」に続く第2巻、「使徒言行録」において、神の力が生き生きと働かれた初期の教会の様子を見ることができるのです。そして、その同じ約束は私たちにも与えられているのです。

 私たちが天にしか関心がないならば、天からの力は必要としないでしょう。しかし、私たちが神の望んでおられるように、地上にいる人、私たちの家族、友人、地域の人々、この世の人々に関心を向けるなら、そして与えられている務めを果たそうとするならば、天からの力は絶対に必要です。神の力に覆っていただかなくてはなりません。次週は聖霊降臨祭です。キリストの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。

 
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