「教会の誕生」 2009年5月31日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 使徒言行録 2章1節~11節  今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。この日は、いわば「教会の誕生日」です。教会がどのように誕生したのか、宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。  「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。  奇妙なことが書かれていると思われるかもしれません。しかし、この奇妙な出来事を世々のキリスト者は二千年間も伝え続けてきたのです。この箇所を繰り返し朗読しながら、聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それゆえに私たちもこうして聖霊降臨祭を祝っているのです。 天からの出来事によって教会は生み出された  いったい世々の教会は、この物語によって次の世代、次の世代へと何を伝えてきたのでしょう。毎年、聖霊降臨祭を祝いながら、何を思い起こし続けてきたのでしょう。ーーそれは、一言で言うならば、「人間が教会を生み出したのではない」ということです。  先ほどの聖書箇所を御覧ください。そこに「突然」と書かれています。つまり人間が計画したことではないということです。人間が企画し、人間が用意周到に準備して実現したことではないのです。続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。  これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないのです。それがこの箇所の伝える第一のメッセージです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもない。既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生したのです。  人はいつでもこの世の風や炎を求めます。この世から来るものに期待し、この世から来るものに未来を託します。しかし、そこにいた弟子たちはそうではありませんでした。「一同が一つになって集まっていると」と書かれています。集まって何をしていたか。彼らは祈っていたのです。1章14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」と書かれているとおりです。祈っていたということは、この世界からではなく、この世界を越えたところから、向こうから、天からの出来事を待ち望んでいたということです。そして、天からの出来事が起こった。  教会は毎年、そのことを思い起こし、確認してきたのです。人間が自分たちの意志で集まった集まりならば、人間から来るものしか期待できないでしょう。しかし、教会はそのようなものではありません。この頌栄教会もそうです。そのような天からの出来事によって始まった教会の歴史の中に、この教会も存在しているのです。天からの出来事として始まった教会の流れの中に、私たちは今、こうして集まっているのです。教会とはそういうものです。  それゆえに、私たちのこの教会においても天からの出来事、聖霊による出来事が起こります。例えば、この後に洗礼式があります。ひとりの人の上に水がかけられます。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。この世のことです。しかし、もし洗礼式が単に人間から来るものであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるのです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。神の子供として新しく生まれ、神を天の父として呼び求めて、赤ん坊のように呼び求めて生き始めるのです。そのような天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。  その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。それはママゴト遊びのようなものでしょう。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。  いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きな御業のただ中にあるのです。 聖霊に満たされて  そのように、天からの出来事として、神の御業によって、教会が誕生したことを今日の聖書箇所は伝えているのです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。それが始まりでした。それが第一のメッセージであると申しました。しかし、そこには続きがあるのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と書かれているのです。この「聖霊に満たされた」という表現。私たちが今日目を留めたいもう一つのことです。  「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。どちらも意味合いは分かりますでしょう。怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。  満たされるのが「怒り」であるのは全く困りものですが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それはうれしいことではありませんか。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。  「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。  考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようなのです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。  そのようにして、この下北沢にも教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。  聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。私たちが怒りや恐れではなく、他の何ものでもなく、聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることは、私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。