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「降ろすべき重荷、負うべき重荷」

2009年6月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 11章25節~31節

驚くべき御方

 今日の福音書朗読において読まれた言葉、皆さんどう思われましたでしょうか。何か変だな、と思いませんでしたか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。この部分はまだいいとして、問題はその続きです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(29節)。

 明らかにおかしいでしょう。私が同じことを言ったらどうですか。「頌栄教会の皆さん。わたしは柔和で謙遜な牧師ですから、わたしに学んでください。」どう思いますか。それを聞いて、誰か他の人に言いますでしょうか。「私たちの教会の牧師は本当に柔和で謙遜な牧師だよ。自分で言っているぐらいだから、間違いない」と。恐らく言わないだろうと思います。柔和で謙遜な人は、「わたしは柔和で謙遜な者だから」などとは言わないからです。

 しかし、この実に奇妙極まりない言葉を福音書の中に大真面目に書き残した人がいたのです。いやそれ以前に、この言葉が残っているということは、弟子たちが心に留めていたということでしょう。イエス様が「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われた時、少なくとも弟子たちは、その言葉を真剣に受け止めたということです。四六時中寝食を共にしている弟子たちが、その言葉を聞いても、誰も異議を唱える者はいなかったのです。また後の弟子たちも、この言葉を伝え聞いた時、「本当にそのとおりだ」と思った。だからこの言葉がそのまま伝えられたのでしょう。

 考えてみれば実に驚くべきことです。このような言葉を口にすることができる御方、そして、その言葉を真剣に受け止めさせ、人々の心に刻みつけてしまう御方。イエス・キリストは、まことに驚くべき御方であると言わざるを得ません。

 同じことが28節についても言えます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。先ほど「この部分はまだいいとして」と言ってさらりと流したのですが、実はそうもいかないのです。これもまた普通は人が口にしない言葉、口にし得ない言葉でしょう。しかし、そのような言葉をイエス様が口にした時に、弟子たちはその言葉を真剣に受け止めたのです。また、これを伝え聞いた後の弟子たちもまた、「本当にそうだ」と思った。だからこの言葉が残っているのです。

 このことは、さらにその前後の話の流れを見ますと、改めて驚かされます。この直前には、父なる神への祈りが書かれています。そして、その前に何が書かれているかと言えば、実に厳しい裁きの言葉が書かれているのです。「…また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」(11:23‐24)。

 ソドムと言えば、その罪のゆえに天からの火で焼き滅ぼされたという、旧約聖書に出てくる町の名前です。その恐ろしい話を引き合いに出して、悔い改めなかった町に対する裁きの言葉を語っているのです。なんという激しい言葉でしょう。皆さんは、こういう言葉を聞いて、心が休まりますか。ホッとできますか。普通はできないだろうと思うのです。しかし、そのような心が休まらないような怖い話をした後に、その当のイエス様が言っておられるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 考えて見れば、弟子たちが神の裁きについて聞いたのは、恐らくこの時が初めてではなかっただろうと思うのです。この他にもこの福音書の中には、人間の偽善の仮面を剥ぎ取って素顔を明らかにしてしまうような言葉、まさに白い墓の中にある汚れた死体を明るい陽の光のもとに曝してしまうような言葉が記されているのです。そのような言葉を弟子たちはしばしば聞いていたはずなのです。イエス様の鋭い眼光は、いかなる罪も闇の中に隠れたままにしてはおかないことを、弟子たちは知っていたはずなのです。しかし、そのイエス様が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われた時、少なくとも弟子たちは、その言葉を真剣に受け止めたのです。また後の弟子たちも、この言葉を伝え聞いた時、「本当にそのとおりだ」と思った。だからこの言葉がそのまま伝えられたのです。

 実に驚くべきことです。このような言葉を口にすることができる御方、そして、その言葉を真剣に受け止めさせ、人々の心に刻みつけてしまう御方。イエス・キリストは、まことに驚くべき御方であると言わざるを得ません。

負うべき重荷、降ろすべき重荷

 このように考えてまいりますと、ここに書かれている言葉は、その驚くべきイエス・キリストという存在と絶対に切り離すことができない言葉なのだ、ということが分かります。わたしが口にしても意味がないのです。他の人でもだめなのです。これはイエス様でないとだめなのです。イエス・キリストというご人格、そしてその御生涯と切り離すことができない。いや、さらに言うならば、その十字架における死、そして復活と決して切り離すことができない、そのような言葉なのです。

 そもそもこれらの言葉を記憶して伝えた弟子たちにとって、そして教会にとって、イエス・キリストという御方はいかなる御方だったのでしょうか。私たちは彼らと同じ所に立つために、教会の初期の頃に歌われていたであろう一つの讃美歌を思い起こしたいと思います。それはフィリピの信徒への手紙2章に引用されているキリスト賛歌です。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:6‐11)。

 この歌において私たちは、キリストの謙りを教会がまずどこに見ていたかということを理解することができます。人間的な謙遜さなどに見ていたのではないのです。そうではなくて、神と等しき神の御子が、人間となられたということに、キリストの謙りを見ていたのです。しかも、そのキリストの謙りとは、死に至るまで、十字架の死に至るまで、父なる神に従順であられたということなのです。まさに神の御心に従って天から地へと降られた、そして十字架の死というどん底にまで降られた、――それがキリストの謙りだったのです。

 もちろんイエス様から今日の御言葉を聞いたあの弟子たちが、それを理解していたわけではないでしょう。キリストが十字架にかかられ、復活されるまで、弟子たちは本当の意味でキリストの謙りを理解することはなかったに違いありません。しかし、理解はしていなくても、その事実には触れていたのです。イエス様と寝食を共にしていた時、彼らはまさに天から地に降られた方に触れていたのです。そして、そのような御方の言葉として、彼らの胸の中にしっかりと刻みつけられていたのです。

 そして、このことは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉を理解する上でも重要です。イエス様の謙りが、最終的には十字架の死に至ることを意味するならば、この言葉は十字架の死に至る御方の言葉として聞かなくてはならないのです。この言葉は、神の御心に従い、私たちの罪を贖うために、十字架の死に至るまで従順に歩もうとしておられた御方の言葉なのです!その方が言われるのです。「わたしが休ませてあげよう」と。ならば、その意味するところは明らかです。それは罪の重荷を降ろさせてあげよう、ということ以外の何ものでもありません。

 私たちには多くの重荷があるように思えます。しかし、人間が背負っている本当の重荷、降ろさなくては決して休むことができない重荷は、罪の重荷なのです。イエス様によって罪を贖っていただき、罪の赦しを受け取ることなくして、本当の休みはないのです。だから罪を贖ってくださるイエス様が言われるのです。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。私たちは、この御方のもとに行って、まず降ろすべき重荷、罪の重荷を降ろさねばなりません。

 そうしますときに、その後に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という言葉が続いていることの意味も見えてくるのです。降ろすべき重荷を降ろさせていただくのは、本当に負うべき重荷を負うためなのです。私たちがもしイエス様のもとにおいて、教会において、ストレス社会からの一時の解放、一時の休息を求めているだけならば、それを得た後には再びもとの生活に戻っていくだけでしょう。しかし、十字架のキリストのもとで罪の赦しに与り、降ろすべき罪の重荷を降ろさせていただくならば、そこから新しい生活が始まるのです。イエス様の軛をいただいて、新しく歩み出すのです。

 イエス様の軛――それは「愛する」という課題です。もしかしたら今まで仕方なく負っていたことがあるかもしれません。無理矢理に負わされているとしか思えなかった、嫌で嫌で仕方なかった重荷があるかもしれません。投げ出したい、逃げ出したい。そんなことがあるかもしれません。しかし、その重荷を「愛する」という課題として、改めてイエス様の手からいただいて負うのです。イエス様の軛として負うのです。私たちを愛してくださった方、私たちのために十字架にまでかかってくださった、そのイエス様の手からいただくのです。私たちの罪の重荷を降ろさせてくださったイエス様の手からいただくのです。もはやそれはこの世の誰かによって無理矢理に負わされたものではなく、「愛する」という課題として、イエス様からいただいたものとなるのです。そして、イエス様が言われるように、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」ということを経験することになるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。そう言われるイエス様のもとで、まず、降ろすべき重荷を降ろさせていただきましょう。罪の重荷をイエス様のもとに降ろしましょう。そして、イエス様の御手から、イエス様の軛を受け取りましょう。イエス様の荷を受け取りましょう。ここから出て行けば、そこには日々の生活があります。しんどい生活かもしれません。しかし、その生活をイエス様の御手から受け取りましょう。「愛する」という課題として、イエス様の御手から受け取りましょう。そして、イエス様の軛を負って、イエス様に学びましょう。イエス様は言われます。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。

 
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