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「あなたの不平、聴かれています」

2009年6月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 16章1節~8節

不平を述べる民

 今日の聖書箇所を読みましてすぐに気付きますことは、「不平」という言葉が繰り返されているということです。それだけでこの数千年前の話がここにいる私たちにとても身近な話となります。私たちの中で「不平」と全く無関係に生きてきた人は、恐らくいないからです。

 彼らの不平の言葉は3節に書かれております。彼らはモーセとアロンに向かって言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)。

 このような不平の言葉が発せられたということは、いくつかの点において、たいへん驚くべきことです。

 第一に、ここで不平を述べている人々は、出エジプトの出来事において神の救いの御業を経験した人々なのです。もともと彼らはエジプト人に仕える奴隷でした。彼らは苦しみの中から神に叫びました。「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」(2:23)と書かれているとおりです。彼らが解放されたのは、神がこの叫びに耳を傾けられ、恵みによって行動を起こされたからでした。わずか一月ほど前に、彼らはその恵みを経験した人々なのです。

 第二に、ここで不平を述べている人々は、葦の海の奇跡において神の恵みを経験した人々なのです。背後からエジプト軍が追い迫ってきた時、彼らの前に広がっていた葦の海は、彼らの終わりを意味していたはずでした。しかし、神はその海の中に道を開かれたのです。終わりを突き抜けてなお先へと進み行く道を、絶望を突き抜けて先へと進み行く道を、神は彼らの前に開かれたのです。そうです、彼らは神の恵みによって開かれたその道を、確かに自分の足をもって歩いたはずでした。

 第三に、ここで不平を述べている人々は、かつて自らの口をもって、神の恵みを高らかに讃美した人々なのです。モーセとイスラエルの民がうたった讃美の歌が15章に記されています。彼らは主に向かってこう歌ったのです。「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」(15:1‐2)。これが彼らの歌だったのです。

 第四に、ここで不平を述べている人々は、神によって泉のほとりに導かれ、この直前まで、泉のほとりに宿営していた人々なのです。「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した」(15:27)と書かれているとおりです。雲の柱、火の柱によって、神は彼らを泉のほとりにまで導いて来てくださったのです。そのように彼らはこの直前まで、ただ神の恵みによってその豊かさを経験していたはずでした。

 不平を述べているのは、そのような人々です。神を誉めたたえたその舌の根も乾かぬうちに、彼らは同じ口をもって不平を述べているのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っているのです。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と。何という恩知らず。何という恥知らず。聖書を読んで単純にそう思います。しかし、これは他人事でしょうか。私たちは今日に至るまでの教会の歩みを思い、また私たち自身の生活を思います時に、ここに見るのと同じような姿を見出すのではありませんか。彼ら同様に恩知らず、恥知らずな私たち自身を見出すのではありませんか。そして、もしかしたら同じことが今日もまた起こるかも知れません。この午前の礼拝において、主の救いの御業をほめたたえ、主の泉のほとりに時を過ごしている私たちが、今日の午後に不平を言っているかもしれないのです。

 そのように、今日読みました箇所には、私たちにたいへん身近な「不平」という言葉が繰り返されている。そのような箇所です。しかし、繰り返されているのは「不平」という言葉だけではありません。同じように繰り返されている言葉があります。それは「主が聞かれた」という言葉です。これは恐るべき言葉です。彼らはモーセとアロンに対して不平を言っているのです。私たちが不平を言う時、私たちの視界には人間の姿しか入っていないかもしれません。しかし、モーセはこう言うのです。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)と。

 主はかつてイスラエルの民が助けを求める声を確かに聞かれました。イスラエルがエジプトを脱出することができたのは、確かに主が叫び求める祈りの声を聞いてくださったからでした。しかし同じ主は、民が不平を述べる声をも聞かれるのです。私たちは祈る時、主が聞く耳を持っておられることを前提にしています。ならば、私たちが不平を言っているときにも、主が同じように聞く耳を持っておられることを前提としていなくてはならないはずです。

天からのパンを与えてくださる主

 さて、イスラエルの民の不平を聞かれた主はどのようになされたでしょうか。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる」(8節)とモーセは民に告げました。なんと主は、「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っている人々を、主はなおも生かそうとしておられるのです。恵みをもって生かそうとしておられるのです。

 モーセが民に告げたことは現実となりました。主の言葉のとおり、夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆いました。朝には宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると、うろこのような薄い食物が、大地の霜のように地表を覆いました。彼らはそれをマナと名付けました。まさに、それは天からのパンでありました。彼らは荒れ野の旅路において、この天からのパンによって生かされ、養われることになるのです。

 主がこのようにしてくださったのは、明らかに、ただ神の一方的な恵みによるものでした。既に見てきましたように、彼らは決して、正しい人々、敬虔な人々、信心深い人々ではなかったのです。彼らのありさまは、かつてエジプトにいた時と少しも変わってはいませんでした。そのような彼らがなおも天からのパンを受けるということは、彼らに相応しい正当な報いではなく、恵みであり、恵み以外の何ものでもなかったのです。

 不平を言う民になおも与えられる天からのパン。この場面と、私たち自身の経験とが重なってまいります。考えて見れば、私たちが今こうしているのもまた、主の一方的な恵みであるに違いありません。どんなに良きものを与えられて喜びに満たされたとしても、次の瞬間には感謝を忘れ、不平不満を述べているような私たち。とうの昔に見捨てられていても不思議ではない私たち。とうの昔に滅ぼされていても不思議ではないような私たちが、それでもなお全てを備えられて生かされているのです。そして、今もこうして命の泉のほとりに集められているのです。私たちには今もなお命の御言葉が与えられていますし、キリストの体もキリストの血も、変わることなく与えられているのです。そのようにして、私たちは天からの命に生かされて続けている。それは私たちに相応しいことだからではありません。相応しくない私たちに、それでもなお主は恵みを表してくださっているのです。

 この驚くべき主の恵みを、私たちは決して軽んじてはならない。今日の聖書箇所を読みますと、改めてそう思います。不平を言う民に、なおも天からのパンを与えられた主は、いったい何を望んでおられたのか。私たちは主の求めておられることに無頓着であってよいはずがありません。今日の朗読には入っていないのですが、12節において主はこう言っておられるのです。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と。

 「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。主が望んでおられるのは、そのことなのです。「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。私たちが主を知るようになること。わたしたちの神として知るようになること。まことに主を知る者として生きるようになること。主はそのことを望んでおられます。私たちが恵み深い主との命の交わりに生き、主を愛し、主を畏れ、主に心から信頼し、主に従って生きるようになることを望んでおられます。私たちが真に主の民として生きるようになることを主は望んでおられます。

 それゆえ、今日お読みした箇所においても、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる」(4節)と言われただけではありませんでした。さらにこう言われたのです。「民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」(4節)と。「試す」と主が言われるのは、もちろん民が「指示どおりにする」ことを望んでのことです。主は彼らが毎日、必要な分だけ集めることを望まれた。すなわち、明日のことを思い煩うのではなくて、一日、一日、今日この日を主に信頼し、主に従って生きる民となることを主は望まれたのです。そのように、「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」ことを望まれたのです。

 「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。そのことを望みつつ、今ここにいる私たちをも主は大いなる恵みによって養っていてくださいます。主の恵みを軽んじてはなりません。主の恵みに応えて、ここからまた歩み出しましょう。

 
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