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「思い悩むな」

2009年7月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章25節~34節

思い悩むな

 「思い悩むな」。そうイエス様は言われます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とイエス様は言われます。今はとりあえず食べ物がある。しかし、食べればなくなります。食べるものを得なくてはなりません。明日、あるいはその先に、何を食べたらいいのだろう。はたして生きていけるのだろうか。そのような心配が起こります。今はとりあえず裸ではない。しかし、着飾らなくてはならない時には他の着物を得なくてはなりません。いったい何を着たらよいのかという心配が起こります。そのように「思い悩み」は未来に関わっています。イエス様が「明日のことまで思い悩むな」と言われるようにです。それは私たちも同じ。思い悩みの種類が変わっても、食べるものや着るもののことではなくても、とにかく明日のこと、未来のことについて思い悩んでいる姿は、あの時、あの場所にいた人々と同じです。

 しかし、そのような私たちに「思い悩むな」と語ってくださる方おられる。私たちが信じているイエス様は、「明日のことまで思い悩むな」と言ってくださる方です。本気でこういうことを言ってくださる方がいるというのは嬉しいことです。もっとも言葉だけなら、似たようなことを言う人は私たちの周りにもいるかもしれません。「先のことばかり心配しなさんな」と。それはそれでありがたいことですが、イエス様が「思い悩むな」と言われるのは意味合いが違います。

 イエス様は確かに言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」(26節)。なるほど、種を蒔いたり、倉に収めたりというのは、未来を想定しての作業です。鳥は基本的にそういうことはしない。未来を考えて生きるというよりも、今を一生懸命に生きていると言えるでしょう。ですから、「鳥を見なさい。今を一生懸命に生きているじゃないか。君も今を力一杯生きたらいいんだ。先のことばかり心配しなさんな」という教訓話もあり得ます。世の人もこのくらいは言ってくれます。

 しかし、イエス様が言おうとしている大事なことは、その先にあるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。そのように、イエス様は、鳥についてではなくて、天の父について語ってくださるのです。「思い悩むな」と言って、私たちに天の父を指し示してくださるのです。イエス様は、神の存在について議論するのではなくて、神の子として生きてくださいました。神の子として、天の父と共に生き、天の父に信頼し、天の父に感謝して生きてくださいました。そのような神の子が、天の父について語ってくださったのです。そして、言われたのです。「思い悩むな」と。

あなたがたの天の父

 いや、イエス様は天の父について語ってくださっただけでなく、「あなたがたの天の父は」と言ってくださいました。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」。また後の方ではこうも言っています。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(32節)と。「あなたがたの天の父は」ってどういうことですか。それは「あなたがたは神の子どもたちだ」と言っているのと同じではありませんか。イエス様は天の父との交わりを見せてくださいました。その天の父との交わりに、弟子たちも招かれていたのです。そして、主は私たちをも招いてくださいました。イエス様が教えてくださったように、「天にまします我らの父よ」と祈っているとは、そういうことでしょう。私たちは天の父の子どもたちなのです。

 いや、イエス様はそのような祈りを与えてくださっただけではありません。「あなたがたの天の父は」と言ってくださっただけではありません。この先を読んでいきますと、イエス様が十字架におかかりになる場面に行き着くのです。イエス様は、天の父と私たちとの隔てを完全に取り除いて、真に私たちが神の子どもとして生きられるようにしてくださったのです。すなわち、神に背いて生きてきた私たちのすべての罪を自ら背負って、十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったのです。私たちは罪を赦された者として、何をためらう必要もなく、「私たちは天の父の子どもたちだ」と語ることができるのです。

 そのように、罪を贖われた者として、神に赦された者として、神を「天の父」と呼んで生きるならば、もはや私たちはいかなる意味においても無価値な意味のない存在ではありません。私たちは自分自身を天の父にとって無価値な存在であるかのように決して見なしてはなりません。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と主は言われるのです。神は私たちを価値ある者として見ていてくださるのです。天の父の子どもとして見ていてくださるのです。私たちは既に天地を創造された神、王の王なる御方の子どもたちです。だから主は言われるのです。「思い悩むな」と。

信仰の薄い者たちよ

 そして、もう一つ、とても嬉しい言葉があります。「信仰の薄い者たちよ」(30節)。これを聞いて、嬉しくなりませんか。もちろん、あのカナンの女のように「あなたの信仰は立派だ」(15:28)と言ってもらえたら、もっと嬉しいと思うのですが、たとえ「信仰の薄い者たちよ」という言葉であっても、実はこれは私たちにとって、とても喜ばしい言葉なのです。

 確かに思い悩みの原因はたくさんあります。未来のことについて、心配し始めたら切りがない。思い悩みの原因の多くは私たちのコントロールの外にあります。家庭の問題、仕事の問題、様々な人間関係、病気のこと、などなど。満たされなくてはならない必要が山ほどあります。その一つ一つの必要を満たして行って、問題の一つ一つを取り除いていかなくては思い悩みから解放されないとするならば、もはや絶望的でしょう。だいたい、一つ思い悩みを始末したと思ったら、また別なところから思い悩みの雑草が生えてくるのですから。

 しかし、イエス様はそういう個々の事柄が問題なのではない、と言われるのです。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という個々のことを解決していけばよいのではない、と言われるのです。それは異邦人、すなわち信仰のない人たちがすることだ、と。イエス様に言わせれば、これは信仰の問題なのです。だから「ああ、信仰の薄い者たちよ」と主は言われるのです。

 ならば希望があるではありませんか。信仰を求めて行ったら良いだけじゃないですか。「信仰の薄い者たち」と書かれていますが、もともとは「信仰が小さい」という表現なのです。今の信仰が小さいならば、信仰が成長して大きくなることを求めたら良いだけの話ではありませんか。必要なものは山ほどあるように見える。しかし、本当に必要なのは、それだけなのです。

 しかも、大きい信仰って、どれくらい大きければよいのだと思いますか。イエス様はこの福音書の後のほうで、こんなことを言っておられます。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(17:20)。そのように、「からし種一粒ほど」で良いのだとイエス様は言われるのです。

 「信仰の薄い者たちよ」という言葉を大いに喜びましょう。私たちにはなお希望があると言って喜びましょう。「わたしは信仰が薄いからダメなんだ」なんて言って落ち込んでいる必要はありません。そもそもダメな人間などいないのです。成長途中にある人間がいるだけの話です。信仰が小さいならば、大きい信仰を求めたらよい。からし種くらいで良いってイエス様は言われるのですから。からし種はとても小さいものです。でも、それで良いって言われるのですから、求めたらよいのです。

神の国と神の義とを求めなさい

 しかし、ここでもう一つ大事なことがあります。確かに「信仰の薄い者たちよ」とイエス様が言われれるのですから、信仰を求めたらよいのですが、イエス様はここで単純に「信仰を求めなさい」と言ってはおられないのです。何と言っておられますか。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節)。そう主は言われるのです。

 「信仰の薄い者たち」でなくなることは確かに大事なことです。信仰を追い求めること、信仰者として成長することを求めていくことは大事なことです。しかし、それはただ単に、私たち自身が思い悩みから解放されて生きるためではないのです。天の父が子どもたちに望んでいるのは、ただ単に子どもたちが思い悩みから解放されて伸び伸びと生きられるようになることではありません。それはそれで素晴らしいことですが、それはまだ幸いの半分です。

 私たちの天の父が望んでいるのは、子どもたちが天の父の御心が実現することを求めるようになることなのです。そして、天の父の御心が実現するのを見るようになることなのです。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈りなさいとイエス様は教えてくださいました。そのように祈り求めて生きるようになることなのです。それが神の国と神の義を求めるというです。例えば、もし自分の家庭について思い悩みがあるならば、ただ自分が思い悩みから解放されることを求めるのではなくて、そこに神の国が来るように、神の恵みの支配が来るように、自分の家庭が喜びをもって主に仕えるようになることを求めるべきでしょう。そのように、天の父の御心がそこに実現することを求めるべきなのでしょう。そのことを本気で信じて祈り求めるべきなのでしょう。神の国を求める子どもたちは神の国を見ることになるのです。

 私たちの天の父は、そのように私たちが信仰によって、まず神の国と神の義を求めるようになることを望んでおられます。まず神の国と神の義を求めるならば、もはや私たち自身の未来について、明日について、思い悩む必要はないのです。天の父の御心が実現することを求める子どもたちのすべての必要は、天の父が満たしてくださるからです。

 
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