「目の前の壁は必ず崩れ落ちる」
2009年7月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨシュア記 6章1節~5節
エリコを征服せよ
今日は第一朗読でヨシュア記をお読みしました。ヨシュア記はご存じのように、イスラエルの歴史を書き記した歴史物語です。これはヨシュア記だけで完結するものではなくて、士師記、サムエル記、列王記と続きます。一つのまとまった歴史物語です。その物語は国が滅びるところで終わります。何を意味しますか。これを書いた人々は、国が滅びるという経験をした人々だということです。そのような人々が、イスラエルの歴史、約束の地に入った後の歴史をまとめたのです。
国は滅びました。しかし、彼らは全てが終わりだとは思っていません。終わりだと思っている人は歴史をまとめたりはしません。書いても意味がないからです。まだ終わってはいない。いや、むしろこれからが大事なのだ。そう思っているからこそ、来たりし道を振り返るのです。なぜ国が滅びたのかを省みたのです。そこにイスラエルの罪があったことを認めたのです。神に対する背きがあったことを認めたのです。認めた上で、悔い改めて、新しく歩もうとしている。ただ後ろを見て、失ったものを思って嘆き悲しんでいるのではなくて、神の赦しと憐れみを信じて、前を向いて生きていこうとしている。これはそのために書かれた書物です。今日お読みしたのは、そのような歴史物語の最初の書です。
このヨシュア記は、モーセの後継者であるヨシュアに率いられた人々が、ヨルダン川を渡って約束の地に入るところから始まります。ついに彼らは約束の地、乳と蜜の流れる地に足を踏み入れることができたのです。しかし、ヨルダンを渡ったヨシュアたちを待ち受けていたのは、高くそびえ立つ城壁に囲まれた難攻不落の要塞都市エリコでした。彼らが前に進んでいくためには、まずエリコに立ち向かわなくてはなりませんでした。この戦いが困難を極めたものとなることは火を見るより明らかでした。しかし、避けて通ることはできません。ヨルダンは渡りました。どんなに困難であろうとも、進んで行かなくてはなりません。エリコに立ち向かい、これを征服しなくてはなりません。
これを書いた人々は、そんなヨシュアたちの姿に、自分たちの姿が重なって見えたに違いありません。人が神を信じて、まだ終わりではないと信じて、神の赦しと憐れみを信じて、前を向いて生きていこうとするならば、未来に向かって新しく生きて行こうとするならば、必ずその行く手を阻む者にぶつかることになるでしょう。その行く手に高くそびえ立つエリコの城壁が現れてくるでしょう。どうしても立ち向かわなくてはならないことが現れてくる。そこで逃げてはならないのです。逃げ出したら本当に終わりになってしまう。立ち向かって征服しなくてはならないのです。
考えて見れば、教会の歴史もまたそのようにスタートしたのです。イエス様が十字架にかけられて殺されて終わりではなかった。弟子たちも、イエス様を見捨てて、逃げ出して、バラバラになって終わりにならなかった。彼らは復活したキリストに従って新しく歩み始めたのです。神の赦しと憐れみを信じて、前に向かって、新しく歩み始めたのです。するとすぐに大きな困難に直面することになりました。ユダヤ人当局の脅迫に遭いました。迫害が起こりました。すぐに巨大なエリコの城壁が立ち現れてきました。それはある意味で必然的なことだったのです。
この教会も、ここにる私たち一人一人についても同じです。私たちが後ろを向いて立ち止まっているのではなくて、本気に前に向かって進んで行こうとするならば、私たちが神を信じて、神が向かわせようとしているところに向かって進んで行こうとするならば、高くそびえ立つエリコの城壁を見ることになるでしょう。もうやめてしまおうかな。あきらめてしまおうかな。何も無理することないかな。もっと楽な道はないかな。…そんな思いにさせるエリコの城壁が現れてくる。皆さんの前にはエリコの城壁が見えていませんか。しかし、そこで逃げてはならないのです。安易な逃げ道ばかり捜し求めていてはならないのです。前に進むためには、立ち向かわなくてはならないのです。
どのように戦うのか
では、どのように立ち向かったら良いのでしょう。どのようにして難攻不落のエリコに立ち向かって、打ち勝って、征服したら良いのでしょう。今日の箇所から私たちがどうしても心に留めなくてはならない大事なことを少なくとも三つ挙げることができます。
第一に、城壁を打ち崩すのは私たちではなく神であることを知ることです。この戦いは「主の戦い」であることを信じることです。
主がヨシュアに言われたのは、何とかして城壁を打ち崩せということではありませんでした。主はまずヨシュアにこう言われたのです。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」(2節)。「あなたは…」ではなく、「わたしは…」と主は言われるのです。戦いの主役は私たちではなく神様だということです。
それはまた、後に出て来る「七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい」という命令にも現れています。神の箱は、神が共におられることを表すものです。雄羊の角笛の音も同じです。神が共におられることを表す。これらすべては、この戦いが主の戦いであることを表しているのです。そのように、エリコの城門が完全に閉ざされた時、ヨシュアはまず、これが主の戦いであることを信じることを求められたのです。言い換えるならば、ヨシュアはまずエリコの城壁に目を向けるのではなく、自分たちの力に目を向けるのでもなく、上を見上げ、主に目を向けることを求められたということです。
主は、「見よ、わたしは…」と言われます。私たちも、まず上を見上げなくてはなりません。私たちが上を見上げることをしなければ、見えてくるのは自分の限られた能力だけです。自分の限界、自分の欠点、自分の罪しか見えてきません。教会についても同じです。上を見上げることをしなければ、見えてくるのは欠けだらけの人間の行為だけです。神を見上げずに、「わたしは所詮この程度の人間ですから」と言っていれば、本当にその程度の人間になっていくでしょう。神を見上げずに、「教会は所詮人間の集まりですから」と言っていれば、本当に単なる人間の集まりに過ぎないものになっていくでしょう。そうです。私たちが言っているとおりになっていくのです。私たちはまず上を見上げることをしなくてはなりません。どんなに堅固な城壁でも神は打ち崩してくださると信じなくてはなりません。
第二に、神は私たちに信仰に基づく行動を求められることを知らなくてはなりません。確かに城壁を打ち崩してくださるのは神御自身です。ヨシュアたちは城壁を頑張って打ち崩す必要はありません。しかし、神はただ何もせずに待っていなさいとは言われませんでした。主はこう言われたのです。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい」(3‐5節)。
城壁が崩れ落ちるとするならば、それは神の奇跡です。神は人間の為しえないことをなさいます。神が為さることを人間が代わって行う必要はありません。人間は人間のできることをしたらよいのです。神の御言葉に従って、人間が為すべきことをしたらよい。何も大きいことばかり考える必要はありません。神が求めておられることは、時として、バカバカしくなるほど小さいことであったりするものです。例えば、この場面のように。神が求めたことは、ただ町の周りを回ることでした。それをまず六日間続けることでした。これだったらできるでしょう。
考えてみれば、私たちは往々にしてそのような小さなことをおろそかにしているのかもしれません。神に従うといいますと、とかく大きな事ばかり考えて、挙げ句の果てに「ああ、わたしは神に従い得ない。何も出来ない」などと言って嘆いて、自分を責めて、実際何もせずに留まっていることが余りにも多いのかもしれません。しかし、神が本当に求めておられるのは小さなこと、「これだったらできるでしょう」というほどのことかもしれないのです。その小さなことを用いて、神は大きなことを為さるのです。
そして第三に、決してあきらめないことです。神の御業を見るまであきらめないこと。途中であきらめて投げ出してしまわないことです。
この出来事がどのように起こったのかを想像してみてください。最初の日、一周回ったら、少しエリコの城壁の表面にクラックが入り始めた。二日目にもう一周回ったら、クラックが大きくなっていた。三日目になると一部に崩れた部分が見え始めた。そのように進んでいたのなら、毎日城壁の周りを回るのも張り合いがあるに違いありません。しかし、この聖書の書き方ですと、どうもそのようには進まなかったらしい。一日目、何も起こらない。二日目、何も起こらない。三日目、何も起こらない。六日目、何か起こる兆候すら全く見られない。七日目の七週目が完了するまでは何も起こらなかったのです。
この七日目の七週目が完了して城壁が崩れ落ちたというのは、極めて象徴的なことでもあります。聖書においては、「七」は完全を表す数字です。七日目は完全となった日。神の定めた時が満ちた日を意味しています。そして、七週目が完了した時に、まさに神の時が満ちた。そこで神の御業が起こった。そのような話です。時満ちて、城壁は崩れ落ちました。
主が城壁を打ち崩してくださると信じて、信仰に基づいて行動しても、現実には私たちの目には、何も進んでいないように見えることはいくらでもあります。いつまで経っても同じことの繰り返しに思える。これが永遠に続くかのように思えるものです。しかし、皆さん、七日目は来るのです。何も進んでいないように見えても、神の時計は進んでいるのです。必ず時は満ちるのです。そのことを信じて、私たちはエリコの城壁の周りを一周するのです。最終的に、私たちがキリストの再臨を待つのも、神の国の到来を待ち望むのもそれと同じでしょう。本日の第二朗読で読まれたヘブライ人への手紙にも書かれていました。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(ヘブライ10:36)。そのように、私たちは信じて、忍耐して、エリコの城壁の周りを回り続けるのです。途中であきらめない。投げ出さない。希望を放棄しない。主の御業を見るまでは。やがて時が満ちるのです。目の前の城壁が崩れ落ちる時が来るのです。