「あなたが信じたとおりになるように」
2009年7月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 東京神学大学 M2 小松博士
聖書 マタイによる福音書 8:5~13
本日読まれました福音書の物語は、百人隊長の僕が癒されたという話です。しかし、10節の「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とのイエス様の言葉から、この物語の主題は、僕の癒しにあるのではなく、百人隊長の信仰にあることがお分かりになると思います。この聖書の物語は私たちに、イエス様が感心された信仰について語っているのです。
①信仰の第一ステップ
さて、イエス様がカファルナウムという町に入られたとき、一人の百人隊長が近付いてきたというところからこの物語は始まります。カファルナウムという町は、イエス様が伝道を始められたときに住まわれた町で、ペトロの家もこの町にありました。イエス様は山上での説教を終え、ご自分の町に帰られた。そのところで、この百人隊長に出会いました。
この百人隊長はローマの軍人で、軍隊の中でも非常に優秀な人物が任命されるものであったようです。名前は分かりませんが、イエス様に近づいたこの百人隊長もまた、ローマ軍の中でも優秀な人物であったと思います。ところで、なぜユダヤ人でもない彼が、イエス様を求めたのかと言いますと、聖書は百人隊長の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいたからであると説明しています。中風と表現されている病気がどのようなものであったか詳しくは分かりませが、それはひどい痛みを伴うもので、死にいたることもあった病気のようです。この百人隊長がイエス様を求めたのは、自分の僕がこのような病気で苦しんでいたからだというのです。
ここで「僕」と訳されている言葉は、「息子」とも訳せる言葉でありまして、この百人隊長にとってこの僕の存在がどれほど大切な存在であったかが分かります。そのようなかけがえのない存在が、ひどく苦しんでいる、もしかしたら死んでしまうかもしれない危険な状態にあるのです。
おそらくこの百人隊長は、できる限りのことをしたと思います。医者を呼び、薬を買い求め、あらゆる手段を使って、力を尽くして、この僕を助けようとしたのだと思います。しかしそれはすべて無駄に終わったようです。この百人隊長は非常に優秀な人物です。しかし彼にはこの僕の病気を癒すことができなかったのです。その苦しみを代わりに担うこともできなかった。彼はこの僕を前に、己の無力さを味わったのです。
この百人隊長は無力感と絶望感の中に座り込んでいたと思います。目の前の壁に向かって座り込んでしまっていたのでしょう。しかしそのような彼の耳に一つの知らせが飛び込んでくるのです。それはカファルナウムという町に住んでいるイエスという男が、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒しているという知らせでした。マタイによる福音書の4章23節以下には次のように書かれています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった」。この知らせを聞いた百人隊長は、カファルナウムに向かうために、そこでイエス様にお会いするために立ち上がるのです。
この物語はイエス様が感心された信仰について語っていると申しましたが、ここにその信仰のはじめの一歩が描かれています。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」とあるように、イエス様が感心された百人隊長の信仰は、イエス様の知らせを聞いたときに始まりました。イエス様にお会いするために、カファルナウムに向けて立ち上がったとき、彼の信仰もそのはじめの一歩を踏み出したのです。
②信仰の第二ステップ イエス様にお会いした百人隊長は僕が病気で苦しんでいると訴えます。イエス様は彼に「わたしが行って癒してあげよう」と言われますが、そのイエス様のお言葉に百人隊長は「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と答えます。私たちはここに、百人隊長の信仰の次のステップを見ることができます。
この百人隊長はシリア人であったと考えられています。すなわちユダヤ人から見れば異邦人でありました。当時のユダヤ人は異邦人を神から見捨てられ呪われた民と考えていましたので、非常に嫌っていました。たとえば、異邦人の住まいは汚れているものであるから、その中にユダヤ人は入ってはいけないといったことが言われていたのです。またそればかりでなく、ローマの支配の下にあり、苦しめられていたことも、そのことに拍車をかけていました。この百人隊長もそのことはよく分かっていたので、「自分はあなたを家に迎えることができない」と言ったのでしょう。しかし、イエス様の周りをそのようなユダヤ人たちがたくさん取り巻いていたにも関わらず、そのような困難を乗り越えて、この百人隊長はイエス様に近づいて行ったのです。
信仰とは私たちをイエス様に近づけます。私たちは今、このように礼拝堂に集い、讃美を捧げ、御言葉に耳を傾け、礼拝を守っていますが、これは信仰がなければできないことです。信仰がなければ私たちはイエス様に近づくことはできません。なぜならば、私たちがイエス様に近づこうとするとき、そこには私たちにとって多くの困難があるからです。その中の最も大きな困難は私たちの罪の問題です。私たちは生まれながらにして罪の中にあります。それは倫理的な事柄を指しているのではなく、神様に信頼することのできないことを意味しています。聖書が私たちの罪を語るとき、それは私たちが神様を信頼することができず、神様からどんどん離れて行ってしまうことを罪と言うのです。しかし信仰は私たちを神様に近づけ、私たちをイエス様に向かわせます。
そのような私たちの信仰について聖書は、ヘブライ人への手紙10章19節で次のように記しています。「それで兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです。さらに、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。前の口語訳聖書では、「信仰の確信に満たされつつ」と訳されていて、イエス様について聞くことにより始められた信仰は、私たちを信仰の確信へと導き、その確信により私たちは大きな困難を乗り越え、神様の前に、そしてイエス様の前に近づくことができるのです。
③信仰の第三ステップ
イエス様が感心された百人隊長の信仰、その最後のステップは、本日の福音書の箇所の8節の後半、「ただひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます」との言葉に示されています。すなわち百人隊長はここで、実際には僕がまだ癒されていないにも関わらず、また、イエス様が癒して下さるかどうか、癒すことができるかどうか分からないにも関わらず、もうすでに癒されることを確信している。癒された僕の姿を見ているのです。ヘブライ人への手紙の11章1節以下には有名な信仰についての御言葉があります。そこには、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と記されてあります。
先々週、私たちは清弘牧師よりイスラエルの人々がエリコの城を攻め落とした話を聞きました。イスラエルの人々は神様がエリコを与えると言われた、その御言葉を信じてエリコの城壁の周りを回りました。そして七日目の七週目にその城壁が崩れ去り、彼らはエリコを攻め落としたわけですが、そのとき、城壁が崩れ去ったとき、イスラエルの人々は驚くこともなく、当然のようにそれぞれに武器を携え突入していったことに対し、「彼らは城壁が崩れることを本気で信じて、その時を思い描いて、重い武具を身につけて回っていたのだ」と先週の説教の中で、もう一度彼らの信仰について聞くことができました。ここには信仰の大切なポイントがあるのです。それは信仰によって思い描くことです。イスラエルの人々が、エリコの城壁が崩れ去ることを思い描いたように、百人隊長がすでに癒された僕の姿を思い描いたように、信仰は私たちに思い描く力、言い換えるならば信仰による幻を与えてくれるのです。
このような信仰を見てイエス様は感心されました。そして「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。しかしながら、イエス様はただ百人隊長の信仰を褒めただけで終わらずに、非常に厳しい言葉を続けられます。それが11-12節の「言っておくが、いつか東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」という言葉です。
聖書の中の箴言という書物には「幻がなければ民は欲しいままにふるまう」と書かれてあります。別の訳では「堕落する」と訳されています。つまり信仰による幻がなければ、私たちは信仰によって困難にチャレンジすることもなくなり、やがては神様に近づくことも、イエス様に向かうこともなくなってしまい、ついには神の国を約束されていたにも関わらず、御国の子らと呼ばれていたにも関わらず、気づいたときには、外の暗闇に追い出されてしまっているという意味です。
イエス様がこのことを語られたとき、すでにイスラエルの中には幻を思い描くような信仰はなかった、見つけることができなかったと言われています。これを言われたイエス様はどのような思いであったのでしょうか。おそらく、イエス様はイスラエルの中で一生懸命に探したのだと思います。「あっちにあるかな、こっちにあるかな」と懸命に探したけれど見つからなかった。それがここにあったのです。この百人隊長の中に、イエス様が探し求めていた信仰が見つかったのです。「感心し」と訳されている言葉は「驚き」という意味の言葉です。「こんなところに私の探し求めていた信仰があった」と驚かれているイエス様の姿がここに示されています。その驚きの中で、人々に、特にイエス様に従いつつもその中にイエス様の探し求めていた信仰を持っていなかった人々に対し、「外の暗闇に追い出されないように、このような思い描く信仰を持ちなさい」と勧めているのではないかと思うのです。
最後に13節を見ますと、イエス様は百人隊長に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われます。ちょうどそのとき僕は癒されます。これは百人隊長が信仰により思い描いた、信仰による幻ですが、驚くべきことにそれは現実の世界の出来事として、実際に起こりました。信仰による幻は実現します。なぜならば、イエス様が「あなたが信じたとおりになるように」と言われるとき、すべてのものはその御言葉の権威の下にあるからです。
今日の福音書の物語は、イエス様が感心された信仰について語っていると申しました。そして信仰について三つのステップを私たちはこの物語から読み取りました。しかし今私たちにもっとも求められていることは、信仰の三つ目のステップではないかと思います。これがイエス様の探し求めた信仰、感心された信仰です。それは信仰により思い描くこと、信仰による幻を持つことです。私たちは今信仰により何を思い描き、どのような幻を抱きながら、イエス様の前に進み出ているのでしょうか。「あなたの信じたとおりになるように」と、今日私たちはイエス様によって語りかけられています。