「サムソンとデリラ」 2009年8月9日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 士師記 16章15節~22節 神から与えられた力  今日は怪力サムソンの話をお読みしました。私たちには皆、何らかの形で力が与えられています。一人の人間が生きていれば、その人は必ず何かに影響を与え、何か動かし、何かを変えていきます。既に現れている力もあるし、まだ現れていない力もある。いずれにせよ、私たちは皆、周りを造り変え、この世界を動かす力を与えられているのです。サムソンの怪力というのは、誰が見ても良く分かる一つの実例に過ぎません。私たちには皆、この怪力に相当するものが与えられているのです。  そのように力が与えられていることを考える時に、心に留めるべき大事なことは何であるかを、サムソンの誕生にまつわる物語に見ることが出来ます。13章に書かれています。サムソンが誕生する前に、彼の両親は神の使いを通して指示を与えられたと言うのです。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(13:5)。  ここで「ナジル人」という言葉が出て来ます。ナジル人というのは、献身の誓願を立てた人です。神に献げられた人として生きていく人です。詳しくは民数記6章に出ています。それはある期間である場合もあれば、一生涯の場合もある。サムソンの場合は一生涯です。 ナジル人に求められていることは三つありました。まず、ぶどう酒などぶどうの木からできるものは食べないこと。第二に髪の毛を切らないこと。第三に死体に触れないこと。この三つを守る。それがナジル人です。どうでしょう。「神に献げられた人として生きていく」という割には、簡単な義務だと思いませんか。難行苦行しろと言っているのではないのです。細かいことは割愛しますが、要するに行為そのものが重要なのではないのです。大事なのは意識です。神に献げられた者、神のものであるという意識。特に髪の毛の場合、分かり易いでしょう。髪の毛に一日まったく触れないということはあり得ません。延びてきた髪の毛を毎日意識せざるを得ない。そうしますと、結局、毎日主を意識する、そして自分が主のものであることを常に意識することになる。そこに重点があるのです。  やがて怪力を持つことになるサムソンにはナジル人として生きることが求められました。大事なことを教えているように思いませんか。両親に告げられた言葉そのものには、やがて与えられる怪力については何も語られておりません。その必要はないからです。それよりももっと大事なことがある。それはサムソンが「わたしは神のものである」という意識を持って生きることです。「自分の人生は神のためにある」という意識を持って生きることです。その意識さえ失わなければ、どんな力が与えられても大丈夫なのです。  そのように、私たちにおいても、自分にはどのような力が与えられているか、自分には何ができるか、ということ以上に大事なことがあるのです。どのような意識をもって生きているかです。すべての力は神に由来します。サムソンの怪力だけではありません。すべての力は神から来る。力を与えてくださった神のものとして生き、神の目的に仕える者として生きてこそ、本当の意味で与えられた力を用いて生きることができるのです。 力を与えられたのは何のため  しかし、その後の物語の展開を見る限り、サムソンは主に献げられたものとしての意識があったようには見えません。確かに、ナジル人の義務は守っています。デリラと会うまではの話ですが。とにかくそれまで髪は切りませんでした。しかし、長い髪の毛を見て、わたしは主のもの、与えられた力も主の目的に仕えるためのもの、と思って生きているかと言えば、どうもそうではないようです。サムソンがどのように力を用いているか、いくつかのエピソードが取り上げられていますので見ていきましょう。  まず取り上げられているのは結婚式の話です。サムソンがペリシテ人の娘に恋をしました。親は反対しました。しかし、サムソンはゆずりません。「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです」(14:3)と駄々をこねます。ついに両親は折れまして、父母はサムソンと共に娘のいるティムナの町へと向かいます。  その途中で、サムソンはライオンに襲われました。しかし、サムソンはその怪力でライオンを裂き殺します。しばらくして、そのライオンの死体のところに来てみると、死骸に蜜蜂の群れがいて、蜜があった。これは面白いものを見たということで、サムソンは後に結婚式の宴席の余興として同席していた三十人のペリシテ人に「なぞなぞ」を出題します。もし解けたら麻の衣三十着と着替えの衣三十着あげます。もし解けなかったら麻の衣三十着、着替えの衣三十着くださいね、というわけです。  サムソンは言いました。「食べる物から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」さあ、それはいったい何でしょう?そんなの分かるわけありません。そこで三十人の客たちは、ペリシテ人であるサムソンの妻を抱き込みます。サムソンの妻は、なぞなぞの答えを彼にしつこく泣きせがみました。ついにサムソンは解き明かしてしまいます。妻は客たちに答えを漏らしました。結局、この勝負はサムソンの負けとなりました。  さて、怪力サムソンはどうしたか。怒り狂ってアシュケロンまで行き、ペリシテ人三十人を打ち殺し、彼らの着物をはぎ取って、なぞを解いた者たちに与えたというのです。そして、七日にわたる結婚の宴の最終日、ここから新婚生活という時に、自分は怒りに燃えて父の家に帰ってしまった。  これが最初に出て来るサムソンの怪力の話です。確かに、敵を多く殺したというのは、古代においては一つの英雄物語の要素です。しかし、もう一方において、これを普通に読むならば、サムソンのなんとも馬鹿馬鹿しい行動に呆気にとられます。確かに妻が同族であるペリシテ人の方に着いたのは腹が立つ。それは分かります。しかし、たかが宴会の余興の話でしょう。着物六十着も損することになった。(実際には略奪したのだから損はしていませんが。)それも腹立たしいことでしょう。しかし、着物と結婚生活とどちらが大事なのでしょう。あれほど好きだと言って結婚したのに、よりによって彼の怪力がそれを打ち壊すものとなりました。「主の霊が激しく彼に降り」と書かれているように、それは神からの力でした。しかし、せっかく神から与えられた力が、どうでも良いようなことのために、大切なものを破壊することに用いられているのです。実に愚かな話ですが、こういうことってあると思いませんか。  さらに滑稽な話が続きます。やがてサムソンは怒りも収まり、再び妻のもとに向かいます。しかし、そこで結婚が既に壊れてしまっていることを知らされます。元はと言えば自分が蒔いた種なのです。しかし、そこでサムソンは何をしたでしょうか。「サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした」(15:4-5)。  ジャッカル300匹。通常は「きつね」と訳される言葉です。狐300匹。このような極端な数はサムソンの力の例証として書かれているのでしょう。しかし、これもまた普通に場面を想像して読むならば、実に馬鹿馬鹿しい滑稽な話です。狐を追いかけ回しているサムソンの姿を思い浮かべてみてください。さらに捕まえた300匹を二匹づず尾を結び合わせ、松明をくくりつけている姿。こんなことを「仕返しするぞ、仕返しするぞ」とでも言いながら、延々とやっていたわけです。何時間も、何日もかけてそんなことをしている。どう考えても力の正しい使い方じゃない。  その滑稽な姿を思い浮かべると笑えます。しかし、考えて見れば、私たちも往々にして同じようなことをやっているものです。怒りを晴らすために、誰かを害するために、せっかく与えられている力を用いて、ろくでもない狐ハンティングのようなことを延々とやっていること、ありませんか。外から見ればまことに滑稽です。しかし、怒りのただ中にある本人は気付かない。結局サムソンはこのあらゆる労苦の末に何を得たのでしょう。実際には、何も得ないばかりか大切なものを失ってしまいました。あれほど好きだった娘とその家族は、逆恨みを被って焼き殺されてしまったのです。 ナジル人としての最期  その狐事件から二十年近く経った頃と思われます。サムソンは、ソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになりました。それまでの話は割愛しましたが、イスラエルを支配していたペリシテ人たちにとって、サムソンの怪力は恐るべき脅威となっていたことが分かります。その意味では、サムソンの怪力はイスラエルの人たちを守ることにもなったし、助けることにもなりました。サムソンは神に用いられました。「彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた」(15:20)。そう書かれている。この言葉に驚きを覚えます。しかし、それは純粋に神の憐れみだったのです。  しかし、人間はいつかは、どのような力を持っているかではなくて、もっと大事なことが問われる時が来るのです。どのような意識をもって生きてきたか、どのような意識をもって与えられた力を用いてきたのか、そのことを問われる時が来るのです。サムソンにも、そのときが来た。それが今日お読みした箇所です。  ペリシテ人に雇われたデリラはサムソンに尋ねます。「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えてください。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう」(16:6)。こんな質問をデリラが何度も繰り返すこの場面はほとんどコメディのようですが、重要なことはサムソンが「怪力がどこに潜んでいるのか」を問われ続けた、すなわち力の源がどこにあるのかを問われ続けたということです。当然サムソンは、怪力が神から来ていること、そして自分がナジル人であり髪の毛を切らないできたことの意味を考えざるを得なくなります。ですから彼はデリラに言うのです。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう」(17節)。しかし、それはまたナジル人であることを自ら手放すことでもありました。それまでの流れからすれば、髪の毛を切られてしまうことは明らかだったのですから。  その結果、サムソンの髪の毛はそり落とされ、彼は目に見える形で、ナジル人であることを失いました。それまでは、内実はともかく、目に見える姿はナジル人だったのです。しかし、その内実が問われた時、彼は目に見える形で、ナジル人であることを放棄したのです。そして、同時に怪力も失いました。「ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた」(21節)と書かれています。初めて彼は力において敗れるのです。そして、惨めさのどん底にたたき落とされた。そのような形で、彼は自分の力が神から来ていたこと、それは神のものとして生きるため、神の目的に仕えるために与えられていた力であったことを彼は骨身に染みて知ることになりました。  しかし、物語はそこで終わりません。聖書は何と言っているかというと、「しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」(22節)と書かれているのです。まだ終わってはいないのです。サムソンはまだ神の憐れみの中にありました。神の憐れみは続いていたのです。神の憐れみが続いているならば、どん底からでもやり直すことができる。人は負けた時ではなく、立ち上がるのを止めた時に、初めて敗北者となるのです。彼はもはや見えなくなった目を神に向かって上げ、神に祈ります。「もう一度だけ力をください」と。神は彼にもう一度、力を与えました。  彼はその力をもって自ら打ち崩した神殿の下敷きになって死にました。その結末は悲しい。あまりにも悲しいと言えます。しかし、少なくとも彼は人生の最後の一瞬でしたが、自分が神のものであることを知っている人として、神から力を与えられたことを知っている人として、そのような意識をもって生き、そして死んでいったと言えるでしょう。ある意味ではそのようなサムソンを神はその人生の最後においても用いられたとも言える。彼は決して神からも見放された敗北者として死んでいくことはなかったのです。  とはいえ、もちろん私たちはサムソンの人生を同じように辿る必要はありません。さて、私たちに与えられている力は何でしょう。サムソンの怪力に相当するのは何でしょう。それが何であれ、大切なことは、それが神から来ていることを意識して生きること。そして、与えてくださっている神のものとして生きていくこと、神の目的のために与えられた力であることを思って生きていくことです。そのように生き始めるのは、何もサムソンのように人生の最後の最後である必要はありません。今がその時です。