「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 2009年8月16日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 10章16節~25節 希望を放棄しないこと  「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。今日の説教題です。先ほどお読みしましたマタイによる福音書10章22節の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来る。恐らく昔の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の言葉だったのだと思います。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。互いにそう言い交わしながら励まし合ったのでしょう。  この言葉が繰り返し口にされなくてはならなかった状況は容易に想像できます。私たちも知っているとおり、信仰は必ずしも苦しみの免除を約束するものではありません。キリストを信じたら苦難に遭うことはありません、などと聖書は約束していません。迫害の時代であるならば、それは自明のことでした。信仰を言い表しているゆえに、かえって苦しみを加えられることが現実にあったからです。それは今日の聖書箇所において、イエス様も言っているとおりです。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることも起こる。すなわち宗教的な権力によって苦しめられることも起こります。あるいは総督や王の前に引き出されるということも起こってくる。ローマ帝国の国家権力によって苦しめられることも起こってきます。  しかし、一番大きな苦しみは、恐らく家族から苦しめられることだったのでしょう。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(21節)とさえ主は言われる。実際に、迫害の時代の信仰者は、そのようなことも経験してきたに違いありません。国家権力による迫害よりも、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはないでしょう。しかも救いを証しすればするほど、かえって憎まれることになる。そのような中で、彼らは互いにこう言って励まし合ったに違いない。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そうイエス様は言われたよ、と。  「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃない。迫害は永遠ではありません。いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐える」こともできる。「耐え忍ぶ」のです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」「耐え忍ぶ」とはどういうことでしょうか。苦しくても我慢することでしょうか。いいえ、そういう意味ではありません。これはもともと「留まる」という言葉から来ているのです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。  実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、そのギリシャ語訳聖書にこの言葉が何度も使われているのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味の訳語として用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。  そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。絶望しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。  教会はその初めから、そのような意味で「忍耐すること」を大事にしてきました。それは新約聖書の中に「忍耐」についての勧めが繰り返し出て来ることからも分かります。聖書をよく読んでいる人は、すぐにいくつもの言葉が思い浮かんできますでしょう。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12:12)。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(ヘブライ11:36)などなど。  教会は苦難が永遠でないことを常に心に留めてきたのです。終わりは神の御手の内にあることを知っていた。神は必ず夜明けをもたらすことができることを知っていたのです。だから互いに励まし合い、共に信仰に留まったのです。互いにこう言い交わしながら。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。 わたし自身が変えられるために  そのように、イエス様が語られた言葉は、長い教会の歴史の中に生き続け、人々を支え続けてきました。そして今、私たちにも語られている。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。これは希望の言葉です。しかし、もう一方において思います。どうして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」なのだろう。どうして「今、救われる」じゃないのだろう、と。どうして「最後まで」という期間があるのだろう。そんなことを思ったこと、ありませんか。  迫害の中にあったキリスト者の心にも、そのような思いが繰り返し去来したのではないかと想像します。主はどうしてこのような状態を放置しておくのだろう。どうして今、救ってくださらないのだろう。いつまで耐え忍ばねばならないのだろう。どうしてこんなに長く耐え忍ばねばならないのだろう。そのような思いから、信仰が揺さぶられることもあったに違いない。実際に、先ほど引用したヘブライ人への手紙が書かれた頃には、集会を止めてしまった人たちもいたようです。そのような事情があったからこそ、これほどまでに忍耐について語られ、励まし合うことが勧められているとも言えるでしょう。それゆえに、今日お読みしたようなイエス様の言葉もまた伝えられねばならなかったのでしょう。  いったい「最後まで」という期間、忍耐の期間に意味はあるのか。それが長きにわたるとき、その長い期間には意味があるのか。なぜ「今、救われる」ではないのか。そのことを思います時に、もう一つの聖書の言葉が思い起こされます。パウロがローマの信徒に宛てて書いた言葉です。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:1-5)。  神との間は平和だというのです。神が私たちを憎んでいるわけではない。神が見捨てたわけではない。滅ぼそうとしているわけではない。神との間は平和です。神は愛していてくださる。ならば苦難とは何なのか。苦難は忍耐を、そして忍耐は練達を生むのだ、というのです。言い換えるならば、苦難の中で生じた忍耐によって、私たち自身が変えられるのです。「練達」というぐらいですから、それは極めて大きな変化でしょう。私たち自身が大きく変えられるのです。  私たちの関心はいつも周りが変わることにあります。しかし、どうも神の第一の関心は、私たちの周りではなくて、私たち自身が変わることにあるようです。きっと迫害の中にいた信仰者も、ユダヤ人たちが変わるように、ローマ人たちが変わるように、無理解な家族が変わるようにと願ったことでしょう。そのような願いを一度も持たなかった人はいなかったに違いありません。しかし、彼らはまた同時に、知っていたのです。何よりも自分自身が変えられなくてはならない、ということ。パウロ自身も言っているとおり、キリストの姿に似たものとなること(8:29)への熱烈なる憧れがあったのです。そのためには、万事が益となるように共に働くとさえ言うのです。 遣わされた者として  皆さん、まず変えられなくてはならないのは、私たち自身ではないですか。そして、神様は私たちを変えてくださるのです。苦難は忍耐を、そして忍耐は練達を生み出すのです。そこに私たちの希望もまたあるのです。それは私たち自身の救いでもありますが、また、私たちが誰かに救いを手渡すためでもあります。そもそも、今日の箇所で、イエス様が迫害と苦難について語っているのは、弟子たちが世に遣わされることになるからです。主は言われました。「わたしはあなたがたを遣わす」(16節)と。  私たちは遣わされているのです。教会は遣わされているのです。遣わされているということは、もはや自分自身のために存在しているのではない、ということです。遣わしてくださった御方のため、また遣わされている対象のために存在しているのです。私たちは主のため、そして誰かの救いのために存在しているのです。教会は主のため、そしてこの世の救いのために存在しているのです。主は救いの業のために、私たちをお用いくださるのです。イエス様が言われるとおり、必要とあらば天の父の霊、聖霊が私たちを通してお語りになるのです。そのように神が私たちを用いて御自身を世に現し、この世界に信仰をもたらそうとしているならば、まず私たち自身が信仰に生きていなくてはなりません。まず変えられなくてはならないのは、私たち自身です。  「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。その「最後まで」という期間は、仕方なく通過しなくてはならない意味のない期間ではありません。私たちに与えられた掛け替えのない尊い期間です。私たちがキリストに似たものと変えられていき、そして、そのような私たちを神が用いてくださるための期間です。この世界の救いのため、誰かの救いのために用いてくださり、神が私たちを通して働いてくださるための期間です。意味のない苦難の期間はありません。意味のない試練の期間はありません。神の大きな御計画の中で、尊い意味を持っている尊い期間です。  そこで大事なことはただ一つ。耐え忍ぶことです。留まること、信仰に留まることです。希望を絶対に放棄しないことです。どこまでも主を待ち望むことです。そして、教会が昔からしてきたように、こう言って互いに励まし合うことです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」イエス様がそう言われたではないか、と。